石ころ

皆違う神の作品(創世記25章)

 

 イシュマエルからは、12の族長が誕生した。
「わたしはあの子を大いなる国民とする」と神がハガルに語られた通りになった。

 

神のことばを聴いたとき、イシュマエルは死にかけていたのである。その時は想像も出来ないようなことが、事実と成るのだ。

それゆえみことばに信頼する者は、聴いただけで望みを得て、主を喜びほめたたえるようになる。この関係こそ主の望まれることである。

 

聖霊によって聴いたみことばが将来であって、みことばの中を日々淡々と歩むうちに実を結び、キリストの栄光を現わさせてくださるキリスト者の生涯である。

 

イサクは、自分の妻のために主に祈った。彼女が不妊の女だったからである。主は彼の祈りを聞き入れ、妻リベカは身ごもった。(21)

 

夫が妻のために神のみこころが成就するように願うとき、神はイサクの願いを聞かれた。まるで、祈り求めることを待っていたように。

 

子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったので、彼女は「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう、私は」と言った。そして、主のみこころを求めに出て行った。(22)

 

神はイサクの願いをダブルで叶えられた双子である。それも、同じ性質の子ではなく、全く異なった双子であった。此処に神の意図がある。母の胎で組み立てて下さるのは主のわざであるから・・。

 

すると主は彼女に言われた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える。」(23)

 

同じ人が二人は必要ない。神はどれほどの人類を、母の胎内で組み立てられても、それぞれに異なった計画をもって、同じものを増産されることなどない。これこそ奇跡である。

 

 五体満足に生まれることは祝福であるけれど、五体不満足に産またことが神の失敗ではない。神は絶対に失敗はされない。
五体満足に生まれることが、世では最低限の有利を得ているけれど、持てるものを完全に働かせる責任も負っている。

 

生きることに人よりも不自由であることを、常に意識せざるを得ない時、その弱さは自他に対する神からのメッセージでもあり、時には謙遜となり、感謝となり、優しさとなって現れ、皆が同じように生きているのではないことを知る。

それによって、自分に在る神のご計画を切に求めることとなり、それはキリストへの近道となる。

 

人は祝福のうちに生まれ出ても、その辿る道筋は分からない。けれども神は、愛と忍耐の中ですべてを知っていてくださる。

神は良い方であり、御子をたまわるほどに愛して、良い計画を準備して待っていてくださる。

 

人として、世で成功を治めるすぐれた能力よりも必要なものは、キリストを求める環境であり、キリストに助けを求める弱さである。

そこに永遠の祝福の備えがある。それはいのちに満ちて、神のご計画を成すとういう光栄である。

 

使徒たちも弱さの中でキリストの愛を悟った。そこで真に生きる勇気を与えられて、自分に在る神のご計画を完成したのである。


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