石ころ

憐みの無い獣の心(ヨハネの福音書19章)

 

過越の祭りでは、だれか一人をおまえたちのために釈放する慣わしがある。おまえたちは、ユダヤ人の王を釈放することを望むか。」
すると、彼らは再び大声をあげて、「その人ではなく、バラバを」と言った。バラバは強盗であった。(18:39~40)

 

ピラトの思い付きはイエスを釈放するためであったが、ユダヤ人たちはそれを許さなかった。彼らの欲望はイエスを殺すことであり、ピラトは支配しているはずのユダヤ人に支配されて計画は挫折した。

罪なきイエスが殺されて、死刑になるべき強盗が生かされることを望んだユダヤ人の義は、此処で完全に倒錯している。それは神のかたちに造られた人を離れて、悪魔に心を乗っ取られたことを現している。

 

それでピラトは、イエスを捕らえてむちで打った。
兵士たちは、茨で冠を編んでイエスの頭にかぶらせ、紫色の衣を着せた。
彼らはイエスに近寄り、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、顔を平手でたたいた。(1~3)

 

彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。(イザヤ53:7)

 

ピラトは、再び外に出て来て彼らに言った。「さあ、あの人をおまえたちのところに連れて来る。そうすれば、私にはあの人に何の罪も見出せないことが、おまえたちに分かるだろう。」
イエスは、茨の冠と紫色の衣を着けて、出て来られた。ピラトは彼らに言った。「見よ、この人だ。」(4~5)

 

無抵抗に傷だらけになったイエスの姿は恐れる必要はなく、むしろ憐みをかけて心を痛めるのは健全な人の姿である。しかし、ピラトは彼らの狂気にまだ気付いていなかったのだ。

宗教家がイエスの正しいことばと神のわざを恐れて殺そうとしたのなら、このイエスの姿を見たとき「もういい、恐れるには足りない。もう十分だ。」と言うであろうとピラトは思っていたのだ。それは人の健全な感覚であるから。

 

神の選びの民の誇りにかけても、同じユダヤ人が異邦人に此処まで痛められた姿を見たときに、我に返ってイエスの釈放を願うであろうと思ったのである。

 

人は自分の正義を振りかざして人を責めたて、その弱った姿を見ていよいよ猛り狂って痛めつける。それは正義に名を借りた悪魔もわざである。それが出来るのは病んでいて、健全な憐みの心を失っているからであり、そこには愛の神のかたちに造られた者の姿は無く、正義の看板を掲げて自分の守りつつ、獣の欲望を成している。

 

祭司長たちと下役たちはイエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは彼らに言った。「おまえたちがこの人を引き取り、十字架につけよ。私にはこの人に罪を見出せない。」(6)

 

ピラトは此処で、イエスご自身が自分を救う他ないことにやっと気付いた。そうして彼はイエスを救うという計画から身を引いたのである。真理を知らないままに・・。

ピラトにはイエスは救えない。すべてのことには神の計画があり、人はイエスに救って頂く存在に過ぎないからである。
彼は自分の持っている権威のゆえに思い違いをして、目の前でボロボロに傷つけられてやっと立っている人類の救い主、王の王を見誤るのである。


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