ババジ関連記事 翻訳版

ババジのクリヤーヨーガジャーナルなどに掲載された記事などを翻訳し、クリヤーヨーガの修行者の参考にして頂くものです。

ヨーガは全ての宗教の実際的な側面です

2019-04-24 11:12:22 | スピリチュアル
KYJ 2019 Spring
By M.G.Satchidananda


ヨーガとは何か? 宗教とは何か? この記事では読者のヨーガの実習を、あなたの最も深い処にある宗教に関する信念、価値、向上心と一致させるため、これらの疑問を深く考えて貰います。

最近の数十年間、ヨーガという言葉は複数の意味を持つようになりました。しばしば、それは健康を増進し、ストレスを解消するための体操として引用されます。それは商品になってしまったため、市場の競争の中で差別化するための試みにより、その意味は更に曖昧化されました。全ての経験を今ある苦しみを克服するための手段として具体化若しくは客体化することを求める我々の物質文明は、ヨーガを消費される製品或いはサービスとしての一般商品にすることすらしました。それは数十億ドルの市場になりました。しばしば、先生と呼ばれる人たちですら、それを単なる生活の手段と見ています。ヨーガ本来意味は、エゴの視点を浄化するプロセスとして言及されようと、或いはその究極の目標である全体的な実在との合一として言及されようと、我々の社会における商業的な認識以上に価値あるものです。

 ヨーガはしばしば、ハタ・ヨーガとして特徴付けられています。しかしこの肉体的なポーズは、ヨーガの古典的基礎となっているパタンジャリのヨーガスートラの195節の内、僅か2節で言及されているにすぎず、パタンジャリが言及する八支分のヨーガの内の一つにすぎません。その八支分とは、(1)ヤマ(禁戒):道徳的且つ社会的制約で、非暴力、真実、不盗、貞潔、不貪を含む、(2)ニヤマ(勧戒):(修行者の)遵守事項であり、純潔、知足、常習、真我の研究、明け渡しを含む、(3)アーサナ:肉体的なポーズ、(4)プラーナヤーマ:調息法、(5)プラティアハーラ:制感、(6)ダーラナ:凝念、(7)ディヤーナ:瞑想即ちマインドを統御する科学的技法、(8)サマーディ:認識作用の没入、真我実現、悟りです。

 ヨーギラマイヤはしばしばその講義の中で、「ヨーガは全ての宗教の実際的な側面だ」と話しました。これは何の宗教を信じていようと、それを修行する者を勇気づけるのに役立つ表現でした。彼は更に、ヨーガを「完全な『神』、『真理』、『合一』の科学的技法」とも定義しました。もしそれが単なる科学であるなら、我々はその目標に到達するためにそれを理解する必要があるだけだったでしょう。しかし、多くの欠点や性癖を持つ人間の性質は、その限界を超えることに抵抗し、それゆえ人はヨーガの「技法」を練習し(続け)なければならないのです。

 「合一」は、存在論的な試練や苦悩に対する物質的で客観的で現世的なアプローチを超越した経験であることを指します。しかし、それでは「神」と「真理」についてはどうでしょうか。これらの言葉は今日、通常ヨーガと関連付けられていません。何故でしょうか? 恐らくは、典型的なヨーガの教室の門をくぐる受講料を払う大多数の生徒に対して訴える必要性の観点から、ヨーガの教師がそうした言葉を語ることは不適切なのでしょう。一般論として、生徒が継続することを思い止まらせるかもしれない、宗教で通常使われるいかなる言葉にもこれは当てはまり、宗教に対する偏見と無知が如何に大きいか、ということです。これは組織化された宗教が、原罪と悪魔についての心配と共に、怖れと罪の感情に関する議論を吹き込んだからかも知れません。更には、宗教に関し、(人々の間に)広く拡散した無知が、それが他者の信仰のみならず自らのものですら、経験を積んでいないものの恐れを引き起こし、殆ど議論の余地を与えないのです。

組織化された宗教は、私的で個人の宗教に替わりつつあります
 宗教という言葉は通常名詞として使われ、それゆえに対象にもなります。ですから、我々が他者に対し、宗教に関わっていると告げた場合、即座に親しみ対する障壁を造ります。結果として、今日の宗教は社会の分断と軋轢を生む、最も大きな原因になりました。ですから宗教による不和が、より多くの人たちの宗教を拒絶する理由の一つなのです。西洋諸国の教会からは、人々が群れをなして立ち去っています。人々は消費者として何を選び、消費するかの能力に自信を深めるにつれ、何を信じ、実践するかについても自信を持ちます。結果的に組織化された宗教は、私的な宗教、長い間に継ぎはぎされてきた個人的な信念と経験の寄せ集めと、様々な出処からの存在の目的や幸せに関する各自の勉強の結果に取って代わられつつあります。この高度に個別化された個人的なプロセスは、動詞として「宗教(を信仰)する」或いは形容詞として「信心深い」という言葉が、既成宗教のドグマと道徳観に背を向けた人たちの行動をよりよく特徴付けていることを暗示しています。このため時として、「私はスピリチュアルですが、信心深くはありません」という多くの人達の回答を耳にします。しかしこうした反応は、宗教はスピリチュアルではないとの含みを持たせることで、宗教の意味と重要性に対する無知が蔓延していることを裏付けるものです。

宗教の多次元的な定義
 宗教を学ぶものは、その複雑性を把捉するため、それを多次元的な方法で定義してきました。現代の学者による定義で、最も評価の高いものはトーマス・ツィードが著した「クロシングとドウェリング」に書かれたものであり、次の通りです。
「宗教とは、人間と超人の力を利用して家庭や境界を超えた場所を創造することで喜びを強めると共に苦難に直面させる組織・文化的な流れの合流点である」
 ツィードはこの定義に使われた一つひとつの言葉を分解するために一つの章をまるまる費やしています。彼の説明を要約してみます。

 合流点は、宗教が川の中の様々な流れのように、常に変化し、進化している複雑な手続きまたは流れであることを示す水を暗示する喩えです。従って、我々は接触することで互いをどのように関連付けて変化させるのかをよりよく理解できます。この暗喩によってまた、我々は宗教がどのように経済、社会、政治に関係するのかを理解できます。それら(宗教)は世代を超え、伝道と移民によって伝達されるときは地理的な空間を超えて流れます。宗教は個人的であると同時に集合的なものです。それらの流れは、認識、推論、記憶を含む人間のマインドの働きのように、有機的そして生物学的です。それらは、複雑な相互作用又は有機的な制約(神経系、生理的、感情的、認識系)の流れ、そして文化的な仲裁(言語上で隠喩的、または熱帯性で儀式的、そして物質的)を含むことを認識する必要があります。宗教は認識(信仰)、道徳(価値)、感動的(感情的)なプロセスを形にし、またこれらによって形成されます。宗教は感情的な手続きとして、人が何を欲してどのように感じるかを決定する手助けをします。信仰と価値観の中で、信仰深い人は物事の性質ついて断定し、行動を導く道徳律を作ります。宗教は超人的な力と究極の目的を論じるため、比喩、そして特に類推的な言い方に目を向けます。人の作ったものが比喩や価値、感情、信念に根拠を与えますが、それらは協会組織のような宗教法人が考え出して伝達する彼ら自身の規則でもあります。これらには、服装、崇拝の対象、神聖な建造物、そして更には儀式、祈り、礼儀作法、礼拝、知識、讃歌、断食、舞踊、瞑想、聖歌の詠唱を含む広範で具現化された実践事項が含まれるかもしれません。

歓びを強化し、苦難に直面させる これは宗教が語彙(用語集)、規則、多くの異なった種類の感情に対する表現を提供することを意味しています。それらは、最も肯定的なものと最も否定的なもの、最も好ましいものと最も非難されるべきものの枠組みを作ります。宗教はある種の感情を分類・規定・奨励し、それ以外を覆い隠し、非難し、向きを変えさせます。例えば、キリスト教の表現形式において、後悔は罪に対する罪悪感と定義付けられ、あらゆる純粋な人が心を「神」に向けるための必要条件としての価値を与えられています。一方で仏教の禅を実践する者たちは、後悔、若しくは他のあらゆる感情が湧き上がってくることに気づいて、彼らの意識の焦点を呼吸に戻すことでそれを心から消し去ることを奨められるかもしれません。

 宗教は長いあいだ悪に対する反応だと認識されてきました。これには絶え間ない人間の希望や恐れ、真の悲惨さの恐怖、そして死の恐怖が含まれます。マックス・ウェーバーはこれをより肯定的に表現しました。「宗教は世界の不完全さを取り扱う」と。これらの不完全さは、病気、災害、死といったすべての人間の苦悩の源を含みます。それはまたカオスに直面する宇宙における神聖な秩序の価値を再確認するものです。宗教は人間に、環境に向き合う際の喜び、自然の美、生涯にわたる変遷(の感覚)を想像させ、強めます。宗教は誕生のみならず、結婚、収穫、日の出と日没、そして死を祝福します。宗教は人生の苦悩をそのままの形で解釈し、和らげてくれます。

 人間と超人的な力は、様々に想像できて、それが宗教を他の文化の形態と区別します。それらの力は喜びを強め、人間の苦悩を避けるために求められます。それらはクンダリニー、タオ、「神」の肖像、仏性などとして我々の内に在るものと、擬人化されているかどうかに拘わらず、「至高の存在」として我われの外に在るものがあります。

 家庭と境界を超えた場所を創造する。人生の問題の一つは方向性を失うことの危険性です。そこで宗教は我々自身の居場所をみつけ、空間を移動することに関係します。チャールズ・ロングは宗教を、究極の感覚における方向付けと定義しましたが、換言すれば世界の中での我々の居場所の究極の重要性と折り合いをつける手助けをするということです。より端的に言えば、宗教は、「私はどうしてここに存在するのか」という疑問に答えます。そうした疑問に対する解答の多くは、部分的で、不確かで、我々がどこにいて、以前はどこにいて、いずれどこへ行くのかという疑問に対して昔から度々書き直されてきた素描(スケッチ)です。宗教は帰属の感覚を創り出します。宗教は神聖な場所を聖別します。宗教は巡礼を扱います。境界を超えた場所という言葉には、三種類の意味があります。それらは、地上(個人的な場所と所有物も含め、社会的・空間的な規則を執行する)、肉体(人生の様々な段階の変化)、宇宙(究極の展望)です。宗教を描写するのに最も重要なことは、宗教はこの宇宙的な境界を定めてそれを超え、天国と想像されるもの、死後の生活、解放、涅槃、或いは、より好ましい来世にまで言及していくことです。

何故宗教が重要なのか?
 宗教に対する認識は、既に上記の通り包括的に定義されてはいますが、(正常な感覚を)麻痺させるような物質主義、消費主義、個人主義、快楽主義、そして社会を蝕み異常気象を今日引き起こしている観客心理への対抗策として役立ちます。ヒューマニズムと科学的合理主義は意識を単なる脳の付帯現象として片付けますが、宗教は畏敬の念と共に、意識の神秘と人間の精神、そして人間性の完成への潜在力を肯定します。イエスが言ったように、「あなたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5章48節)。全ての宗教の叡智の教えは、我々に如何に生きるか、如何に苦悩を避け、成就に到達するかに関する哲学的な指南を提供します。この叡智なしで、我々は本当に科学と技術が、我々のこの惑星を環境破壊から救うことを期待できるでしょうか?ヨーガとタントラの伝統においても、霊的な技術、または統制のとれたサーダナの実践が修行者(サーダカ)に提供されます。これらを習得した者はシッダ即ち完成者となります。

 以前のジャーナル「我々が霊的に進化していることを如何に知るのか」でも取り上げたように、我々の「神」と宗教の概念は、自身を何と同一視しているかが進化するにつれて進化します。「神」はそこに存在する何かから、ヨガナンダの言葉を借りれば、我々の内にある「常に新たな歓び」であることが徐々に判ってきます。宗教の文献は人を鼓舞するロードマップを示してくれます。

ヨーガは宗教に関係するものですか?
ケベック州の最高裁は「その通りだ」と言った。
それは、私が三日間にわたり、十二時間に及ぶ証言をした後のことだった。

 ヨーガが宗教に関係するものかどうかとの質問に関連して私が最後に法廷で尋問を受けた時のことが頭をよぎります。それは1979年、オールド・モントリオールにあるケベック州の最高裁で行われました。その裁判は、非営利の教育慈善協会(宗教組織ではない)であるカナダ・ババジ・ヨーガ協会が、ウトルモンの三階建てアパートにある我々のアシュラムに対する固定資産税の控除を認めることを市が拒否したことに対して行われました。
 私は三人の弁護士から、ヨーガの意味と、何故我々のヨーガのアシュラムが(キリスト)教会や他の宗教組織と同等の地位を認められるべきなのか、そしてそれらの組織が享受していた固定資産税の免除を受けるべきなのかについての質問を受け、三日間にわたって延べ十二時間に及ぶ証言を強いられました。

 初日の尋問が終わった後、ウトルモン市を代表していた弁護士の手助けをしていたモントリオール大学の宗教学教授が、自分は誤った側に与(くみ)しているのではないかと思っていると私に個人的に打ち明けました。ウトルモン市の弁護士は、ヨーガに関係するあらゆることと、我々がアシュラムでどのような生活をしているかを知ろうとしました。彼らの質問に答えることは、チェスをしているようなものでした、というのも彼らは私を法律の罠に誘導しようとしていたからです。法廷に出る前は毎日証言に備えるため、彼らに質問して欲しくないすべての質問に対する答えについて瞑想しました。

 裁判の最終日に高等判事は、30年以上法廷尋問の議長を務めてきたが、これほど霊的な成長を遂げたことは無かったと話しました。彼は、この裁判は「神」に関する講習会のようなものだったと言いました。彼は我々を支持し、アシュラムは固定資産税減免の恩恵を得ました。

 二年後、ピエール・トルドー首相が北米の法律と訣別し、カナダは独自の人権委員会を設立しましたが、この新たな委員会に所属していた弁護士が、この裁判に勝ったことで、ヨーガとそれに代わる霊的或いは宗教的な組織に対する非常に重要な前例をカナダ全体の為に作ったと私に知らせてくれました。

世界宗教会議とヨーガ

 私がヨーガと宗教の関係について多くの見解を聞くことを満喫できた重要な機会は、1986年の11月に開催された、第33回世界宗教会議でした。それはモントリオールの歴史上、ヨーガに関する最初で最大規模の会議でした。私はこれ以前にも、1970年にロスアンゼルスのカリフォルニア大学で行われた第26回目の宗教会議を手始めとして、それまで幾つかの会議の準備をしてきました。その準備のため、私は1年間、自身の自由時間の殆どを、25の当地の宗教組織とヨーガの組織の代表とのミーティングに使いました。ダウンタウンのクイーン・エリザベス・ホテルで行われた3日間のイヴェントには千人以上が参加しました。それは全ての人に公開され、完全に無料でした。食事すら無料で振舞われました。予算は一万ドル以上で、私が寄付しました。最後には、会議への出席者が(参加者に)寄付のお願いをし、それに応じてそれ以上の金額が集まりました。

 この経験は私の中で、ヨーガを宗教的で霊的な捧げもの(手段)として説明する力を強固なものとしてくれました。それはまた、このような集会が、宗教の病ともいえる狂信に対する強力な処方箋であることを確認させてくれました。聖職者、ラビ、修道僧、司教そしてヨギのプレゼンテーションを聴くことで、それぞれの宗教的な信条と霊的な実践方法への理解が深まりました。

 ババジ御自身が1954年にこうした集会を初めて命じ、最初の会議はリシケシのディヴァイン・ライフ・ソサイアティにおいて、偉大なスワミ・シヴァナンダの臨席のもと開催されました。そのテーマは常に、「ヴォイス・オブ・ババジ」(クリヤー・ヨーガ三部作)の中でババジによって十分に説明されている通り「多様性の中の統一」でした。ヨーギラマイヤは、我々の伝統を、クリヤー・ヨーガ・シッダーンタムと呼びましたが、シッダーンタムとは、宗教的な概念(教義)と修行法に満ちた18人のヨーガのシッダの教えを意味しています。その例は、この記事の冒頭示した通り、パタンジャリのヨーガスートラに示されているヤマ(禁戒)とニヤマ(勧戒)です。ティルムラルは「神は愛なり」と書き記しました。彼はまた、「ジーバ(個我)はシヴァになってゆく」という有名な格言の中で、ヨーガのシッダーンタムの一神論を要約しました。ヨーガ・シッダの文献を含む宗教の理解と研究が、私的であれ組織的であれ、或いは個人的であれ共同体的であれ、ヨーガの実践に結び付き、読者諸賢一人ひとりの叡智と歓びの中で成長し続けますように。
以上