南無煩悩大菩薩

今日是好日也

嫌な大人。

2014-12-05 | 意匠芸術美術音楽
(photo/source)

「ライ麦畑でつかまえて」の主人公は子供から嫌な大人にならないよう、ライ麦畑のキャッチャーになりたいと言った。

しかし誰でも思春期を過ぎれば嫌な大人になっていくものである。

嫌な大人は、自己中心的な幻想を払い、現実的になるに充分な経験(つまり他者に対する責任・悲劇・失敗・成功)を学び、そして耐え方を学び、自分自身や他者の中にある哀れむべき悪について学んでいる。

回転木馬というものは円を描いており今乗っている子供たちがいなくなってしまっても、また新たな子供たちが乗りにきてその営みは永遠に続くが、それは今の子供たちではない。

大人の回転木馬から逃げ出す木馬をみた嫌な大人は、その木馬のそこに子供のままでは生じない自己同一性や自立性の達成を重ねるのである。

そこに齟齬はないか。

2014-12-02 | 古今北東西南の切抜
(question everything)

マルクスアインシュタインも言っているように、「その、こたえ」は疑ってかかる必要がある。

彼らが追い求めた高尚な問題でなくとも、我々の日常の日々のコミュニケーションにおいてもそれはあてはまる。

人は他人の行動を解釈するとき、おしなべてその根本的な性格・特徴を過大評価し、状況や背景の重要性を過小評価する傾向があるようだ。

ギリシャ哲学でいうエトス(個人の信頼性。人が相手の誠実さと能力に対して持つ信頼であり、相手その人の持つ信頼残高)、パトス(感情移入。それは気持ちであり、相手のコミュニケーションへの感情的側面を意味する)、ロゴス(は理論でありプレゼンテーションの論理)の概念が参考になりそうだ。

つまりそれらに齟齬があれば、そこから導いた答は「疑ってかかる」必要がある。

コント55号の「なんでそうなるの?」や、小松政夫の「どうして!どうしてなの!おせーて!」、これが大事なのだ。

「だからなに?」「それはなぜ?」この二つの言葉で鍛え上げることでそこにある齟齬を発見できるかもしれない。