行ってきます・とただいま・の間。

2013,1に長男から貰った、SONY NEX-F3で撮っています。
その日の事柄と撮りたて写真で残してます。

月命日。

2011年11月30日 11時17分46秒 | 日記

早いもので・・・

母が亡くなった7月30日からもう4ヶ月が経ちました。
毎日毎日母を中心に生活していた日々が、今は、会社に行くこともなく、家庭の仕事に専念している毎日に変わりました。
今は、自分の自由な時間が豊富にあり、好きなことを好きなときに出来る、という穏やかな日々です。

県境を超え、母のいる施設へ施設へと車を走らせていたあの時。
母に今の風景や花々を見せたくて、寄り道しては撮り、はたまた、わざと足を伸ばしては見せたい写真を撮っていました。

今では、妹宅に行く時以外は、その県境を渡ることが無くなりました。

あの神社のもみじは・・・・
あの施設の花壇の花はどう変わったろうか、ヤギのウメちゃんは元気だろうか・・・
どうだんつつじは真っ赤だろうか・・・・・
あそこは、あれは・・・、今の季節、どんなふうに変わったろうかと思うだけです。

 

父が亡くなってから、母との時間を今思うと、父より濃かった・・と思うんです。

私は、父が大好きでしたから、子供の頃から、成人しても、嫁いでも、父の隣にいつでも居たような記憶があります。
その大好きな父が、余命半年と宣告されたとき・・その時点で、父の死を覚悟してしまったのだと思います。
なぜ。もう少し、頑張って長く一緒にいようと努力しなかったのか・・と後悔しています。
ただじっと医師の診断のまま、病院でモルフィネのシールを張られ、寝ている父の来るべき時を待っていただけだったと。

その反動からか・・・・
母がいよいよ・・のときになってからの私は、自分の生について、母の足をさすりながら、鼻経管を入れた母の表情を見ながら、母に感謝しつづけました。

長い間、父の心にだけ心を寄せていた私ですから、離れていた気持ちを埋めるかのようでした。
今でも、「帰ろう、もう帰ろう。」
という母の言葉が残っています。帰る家はもう無いんだから・・とは、単なる事情であって、母の希みを叶えられない理由ではなかったんです。

誰しも健康が一番だと思い、元気で過ごしたあと、我が家の布団の上で・・・と望んでいます。
私も、最近は、母の寝たきりで居た様子を思い起こすと・・・
かゆいところにも手が届かず、寒くても肩が出たまま朝を向かえ、苦痛を訴えることもできない。
ただヘルパーさんが自分の横に来てくれたときだけが何か、してもらえるという状態。
そんなのは嫌だと、思うんです。
精一杯の仕事として受け入れていましたが、自分がまたそんなことにはなりたくない・・・と、自分には都合の良いことを思ったりしています。

母に投げた言葉を自分に浴びせてみる。絶えられるだろうか。

今日は母を思いつづけよう。


昭和32年5月30日。私の兄は死産でした。
両親にとって待ちに待った長男誕生だったでしょう。
しかし、それは叶わず。
母は、片時も忘れなかったはず・・・・
その長男の亡くなった日に、自分も逝ったんだなぁ・・・・・と、過去帳を見ながら、お線香をあげました。


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