2010.02.24 Wed 09.39.24
以下 書きかけ 未整理 メモの羅列
一読した後、
たとえば、
踏み分け道、
という言葉が浮かんだ。
機能美、効用美、プラグマチックな存在美
はたらきかける力
author unknown 作者不詳という情報の影響が大きい。
アフォリズムが発言者個人の手を離れて社会で受け容れられて行くと、
受け容れる無数の人間の思いによって苔むした岩、
あるいは無数の人間の思いが歩いて行った街道のような
佇まいを帯びる。
13行の内容は、一貫して一人称 I を主語とする自己表白。
本来はある特定の個人(場合によっては集団)によって作り出されたもので、
その彼/彼女(ら)の名のもとに、彼/彼女(ら)に一身専属してもよかったはずのもの。
が、反対に、(少なくとも)ここまで、無名性のもとに受け継がれてきているということ。
つまり、発生は、社会集団の中での自然発生であり、
帰属先は社会集団全体=無数の無名の個人の集団とされていること。
文筆〔言葉の作品〕として見るなら、
文壇とかジャーナリズムというギルドを経ない/に属さない文筆。
ギルドの経済、名声その他特定の利益とリンクしない表現。
そういう意味では、個人が問題にならない。
でありながら、表わしているものは、まさに個人の生きる条件そのもの。
その感情、思想は、個々のわたしたちに語りかけ、
個としてのわたしを照らし、教え、諭し、浸す。
つまり、まさに個人が問題になる。
無名性から来る力。
それと時間の経過。
普遍性。
一言で言えば自由。
踏み分け道のような
自発、自生
荒削りだが、粗野ではない。
sauvageな繊細、端整。
風雪に耐えたという風貌。
たとえば岩の肌の
風雨の線条痕。
内容の点でも
文化の事実としての時間的な持続の点でも。
侵食され、しかし侵食されない
sufferingsによっても
時間の経過・歴史的忘却の危険によっても
spirit:人間の精神、の顔。
修辞の見事さ:ある種(知性の)したたかさ
その表わす思想の深さ:寛容と敬虔。
碑文
比喩であり
比喩でない(碑の実在すると否とに関わり無く)
実際に、これは(人間)世界という岩の表面のどこかに刻み付けられた碑文。
洋の東西、宗派の違いなどは一切関係がない。
人間精神の産物。
spirit 生きて呼吸する魂の。魂の息遣いの音。
授かり、で統一してみようか、とも。
A Creed for Those Who Have Suffered
どう訳すか。
http://www.bartelby.com/73/1477.html
だれが付けたものか。作者か読み手(集団)〔社会〕か。
bartelbyの説明は、
本来無題のところに、
医療施設など引用者その他読み手が補足的に付加していったもの、と読める。
つまり、このタイトルは、自然発生的な呼称
何時とはなし、誰ともなしに、そのように呼びならわされてきたもの。
とすると、そこには、作者でない 読み手 引用者などの視点から、
1.この表白はあたかもcreedと呼ぶのにふさわしい性質のものであること
2.かつ、苦しむ者たちに向かってなんらかの働きかけをなしうる
というような評価が込められている
と理解できる。
creedはラテン語 credo(我は信ず)を語源とする、信仰表明、信条〔信経〕。クレド
仏教で言えば念仏か。しっくりくる語が思いつかないので、クレド(やや逃げの訳)、また祈りも考慮。
Those Who Have Suffered
苦しむ者・人、(比ゆ的な意味もこめて総称的に)病者
苦しむ人/病者のための/へのクレド
苦しむ人に 病む人に 病者に
かれらによって、なぞられ、共有されるわけだから、そのレベルも含めると
苦しむ人/病者のクレド/導き
病者の祈り/クレド
作者でない第三者、または読み手・引用者の評価判断によるもの
本来無題の自己表白であるところに、
(後世)第三者がこれを読んで、
あたかも表白者自身のクレド・信仰告白のようであり、
かつまた、読み手一般に対しては、苦しみを抱えている人々へのはげましのように働きかける
と考えて〔評価して〕、
引用する際に、
苦しむ者のためのクレド
と仮にタイトルをつけた。
あくまで第三者たる引用者による、仮のタイトル。
作者本人は預かり知らない。
despite myself
このように貧しい私でも?
神に背く
achieve 自分を向上させようと
do better things 功徳を積む
無力を課され 無力にされ 神にすがるようにと
未整理・未了
以下 書きかけ 未整理 メモの羅列
一読した後、
たとえば、
踏み分け道、
という言葉が浮かんだ。
機能美、効用美、プラグマチックな存在美
はたらきかける力
author unknown 作者不詳という情報の影響が大きい。
アフォリズムが発言者個人の手を離れて社会で受け容れられて行くと、
受け容れる無数の人間の思いによって苔むした岩、
あるいは無数の人間の思いが歩いて行った街道のような
佇まいを帯びる。
13行の内容は、一貫して一人称 I を主語とする自己表白。
本来はある特定の個人(場合によっては集団)によって作り出されたもので、
その彼/彼女(ら)の名のもとに、彼/彼女(ら)に一身専属してもよかったはずのもの。
が、反対に、(少なくとも)ここまで、無名性のもとに受け継がれてきているということ。
つまり、発生は、社会集団の中での自然発生であり、
帰属先は社会集団全体=無数の無名の個人の集団とされていること。
文筆〔言葉の作品〕として見るなら、
文壇とかジャーナリズムというギルドを経ない/に属さない文筆。
ギルドの経済、名声その他特定の利益とリンクしない表現。
そういう意味では、個人が問題にならない。
でありながら、表わしているものは、まさに個人の生きる条件そのもの。
その感情、思想は、個々のわたしたちに語りかけ、
個としてのわたしを照らし、教え、諭し、浸す。
つまり、まさに個人が問題になる。
無名性から来る力。
それと時間の経過。
普遍性。
一言で言えば自由。
踏み分け道のような
自発、自生
荒削りだが、粗野ではない。
sauvageな繊細、端整。
風雪に耐えたという風貌。
たとえば岩の肌の
風雨の線条痕。
内容の点でも
文化の事実としての時間的な持続の点でも。
侵食され、しかし侵食されない
sufferingsによっても
時間の経過・歴史的忘却の危険によっても
spirit:人間の精神、の顔。
修辞の見事さ:ある種(知性の)したたかさ
その表わす思想の深さ:寛容と敬虔。
碑文
比喩であり
比喩でない(碑の実在すると否とに関わり無く)
実際に、これは(人間)世界という岩の表面のどこかに刻み付けられた碑文。
洋の東西、宗派の違いなどは一切関係がない。
人間精神の産物。
spirit 生きて呼吸する魂の。魂の息遣いの音。
授かり、で統一してみようか、とも。
A Creed for Those Who Have Suffered
どう訳すか。
http://www.bartelby.com/73/1477.html
だれが付けたものか。作者か読み手(集団)〔社会〕か。
bartelbyの説明は、
本来無題のところに、
医療施設など引用者その他読み手が補足的に付加していったもの、と読める。
つまり、このタイトルは、自然発生的な呼称
何時とはなし、誰ともなしに、そのように呼びならわされてきたもの。
とすると、そこには、作者でない 読み手 引用者などの視点から、
1.この表白はあたかもcreedと呼ぶのにふさわしい性質のものであること
2.かつ、苦しむ者たちに向かってなんらかの働きかけをなしうる
というような評価が込められている
と理解できる。
creedはラテン語 credo(我は信ず)を語源とする、信仰表明、信条〔信経〕。クレド
仏教で言えば念仏か。しっくりくる語が思いつかないので、クレド(やや逃げの訳)、また祈りも考慮。
Those Who Have Suffered
苦しむ者・人、(比ゆ的な意味もこめて総称的に)病者
苦しむ人/病者のための/へのクレド
苦しむ人に 病む人に 病者に
かれらによって、なぞられ、共有されるわけだから、そのレベルも含めると
苦しむ人/病者のクレド/導き
病者の祈り/クレド
作者でない第三者、または読み手・引用者の評価判断によるもの
本来無題の自己表白であるところに、
(後世)第三者がこれを読んで、
あたかも表白者自身のクレド・信仰告白のようであり、
かつまた、読み手一般に対しては、苦しみを抱えている人々へのはげましのように働きかける
と考えて〔評価して〕、
引用する際に、
苦しむ者のためのクレド
と仮にタイトルをつけた。
あくまで第三者たる引用者による、仮のタイトル。
作者本人は預かり知らない。
despite myself
このように貧しい私でも?
神に背く
achieve 自分を向上させようと
do better things 功徳を積む
無力を課され 無力にされ 神にすがるようにと
未整理・未了