紫陽花記

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別館「銘茶処」

「とある日のこと」秋雲

2018-10-15 15:55:43 | 「とある日のこと」2018年度
秋雲のうさぎが亀となりにけり

(あきぐものうさぎがかめとなりにけり)

 某駅に着いたのは、10人が集まる時間30分前。ホームから改札口へ移動し始めたとき、構内アナウンスが流れた。「○○駅で人身事故がありました。○○駅方面へおいでの方は・・・・・」○○駅は、ここまでの移動コースの中間に位置する。迂回路の案内アナウンスがその後も続いた。

家を出るとき夫に、「随分早く出かけるんじゃないの?」と言われた。出掛けるとき、ぎりぎりの時間を設定する夫。私の場合、どこへ出かけるにも、必ず15分ないし30分の余裕時間を持つ。この朝も早めに出たおかげで事故に遭遇せずに済んだ。
   
 現在地へ住みだしてから40年。電車利用をし始めて15年ほどになる。電車事故に直接遭遇したことはないが、事故の影響を受けたことは何度もある。その中でも、人身事故というものが殆どだ。記憶を辿ると、何れも正午前後の時間帯だったような気がする。そのいずれも飛び込み自殺だとしたら、心理的に正午前後が決断し決行する気の起きる時間帯なのろうか?
そのような思いがぐるぐると廻った。

 目的地へは駅から5分ほど。駅前のロータリーにはたくさんの車や人々が行き交う。今日の私のように、楽しみを求めてはるばる移動してきた人間もあろうが、大きな悩みを抱えて重い足を運んでいる人もあろう。

 秋空が美しい雲模様を見せている。心の余裕とはたまに聞く言葉。余裕があれば自ら死を選ぶはずはない。空を見上げる余裕さえあれば、この美しい秋空を楽しむ余裕さえあれば。生きていて良かったと本当に思う時が来ると思うが。

ショートストーリー『イワタロコ』ー1

2018-10-15 15:52:16 | 夢幻(イワタロコ)
著書『夢幻』シリーズ『イワタロコ』-1


 ジーパン先生の教え

 日曜の文章教室。町の集会所にはコの字型に机が設置されている。生徒は十二人。おじさんやおばさんたちばかりで、ヤングは俺だけだ。先生は五十代半ばの男性。先生を「ジーパン先生」って呼んでいた。ジーパンが短い足に似合っていたのだ。

 まず教わったのは、「形容詞と常套句を使うな」だ。
「けいようしって?」
 俺の右隣のおばさんが俺に聞いてきた。俺だって分からないのに答えようがない。
「じょうとうくって、なによっ」
 半分怒ったようにそのおばさんが聞くから、
「先生の話をよく聞けば分かりますよ」と言ってやった。
 先生はたとえ話を使って説明している。
「『綺麗な女性』は形容詞と思いますか、それとも常套句と思いますか?」
 先生が、生徒をぐるりと見た。みんなが黙っている。隣のおばさんの視線が、自分の膝にある手から斜めに俺の顔に移動してきた。
「イワタロコ君」
 先生が俺に答えろと言うように頷いた。
「ぼ、ぼくは、好きです」
 と、俺は答えてしまった。みんなが一斉に笑った。先生はちょっと眉を寄せたけど、「そう。私も好きですよ」と言った。

 それが文章教室の第一回目の授業。それから三年。書くことが好きだから、さんざんな批評や意見、感想にもめげずに続けて来たのだが、ここへきて、迷いが出てきた。
 社会人になって時間がなくなったこともあるが、それは言い訳に過ぎない。
 ジーパン先生が言った。
「批評は厳しいものです。それに負けていては『元も子もなくなる』と言うものです」



 俺、イワタロコ

「お前の名前は父ちゃんの名前から取ったのさ。祖父ちゃんが付けたんだ」
 祖母がそう言って、俺の両頬を両手で挟んだ。五歳の時だ。

「祖父ちゃんは働き者だった。軍服がよう似合っていたよ。戦争に行ったさ。お前の父ちゃんの『岩太郎』が生まれて直ぐだ。戦争から無事戻って来ても戦争の話は何にもしなかった。こちらもなんにも聞かなかったよ。時々、夜中にうなされている祖父ちゃんを見ていると、うんと恐ろしいことを経験して来たんだろうと思ったからね」
 そして祖母は、祖父の脛を掠めた弾痕の話を付け加えた。

「お前の父ちゃんがお前の母ちゃんと結婚した時には、祖父ちゃんは大分体が弱っていたんだ。間もなく生まれたお前の名前を付ける時に、あれこれ考えを巡らすことも出来なかったのかもしれない。『岩太郎』の子だから『イワタロコ』って名付けてから、カタカナ名はこれからの時代にマッチしているって誇らし気に言ったよ」
 祖母はそこまで話してから俺の顔をじっと見た。
「イワタロコ、お前は自分の名前を気に入っているかい」
 俺は子供心にも良いことを言わないと、祖母が何と思うか心配になった。
「うん」
 後は何も言わないで頬を緩めた。それを見届けると祖母は仏壇に向かった。
 なにを祈ったかは知らない。長い時間、家で一番良い座布団に座って手を合わせていた。
 俺は、胸を張った祖父の写真を眺めていた。黒い着物の写真の角に、『吉朗次』って名前が書いてあった。



 お袋のボランティア

 お袋がボランティアを始めた。息子の俺がやっと会社勤めに出たかららしい。
「あたしはぁ、これから好きにさせて貰いますからね」
 親父と俺に宣言した。
「なにするつもりだ。祖母ちゃんのことは?」
 親父は新聞から目も離さないで聞いた。俺は、お袋が何に興味を持っているかは知らない。ただ、姉と死んだ兄と俺の成長を楽しみに生きてきただけだろうと思っていた。
 同居している親父の母親、つまり俺にとっての祖母は八十四歳。何種類かの薬を飲んではいるが元気だ。お袋と祖母とは、仲が良いのか悪いのか、見当がつかないくらい話をしている姿を見ない。親父はもめないから仲がいいと思っているらしい。
「なにって、これから考えるわよ」
 お袋は体を揺すって、俺たちを威嚇するようにもう一度「好きにさせて貰うから」って言った。
 どんなボランティアなのか聞いていないが数日後決めたらしい。月に一回、例会があると言っていた。

 例会の日。俺が会社から戻って来ると、食卓に夕食の準備がしてあった。親父はまだ帰ってきていない。祖母が一人で、テレビのボリュームを上げて食べていた。
 テレビに目を向けたまま、祖母が口を歪めて言った。
「年寄りの話を聴くボランティアだとさ」
「傾聴? そんなボランティアがあるんだ」
 お袋はどんな顔して他人の話を聴いているのだろう。祖母が言った。
「私にはろくすっぽ話し掛けもしないで、年寄りの話なんか聴いて上げられるんかねぇ」
「お袋、他人には優しくなれるのかな」



 気になる風景

 熱があって会社を早退した日の午後。
 俺の向かい合わせの空席に、何条駅から乗り込んだおばさんが座った。後から乗り込んできた二、三歳の男の子を抱いた母子が、他の乗客と共に俺の側に立った。
「どうぞ。よろしいですよ」
 先に乗り込んで腰を下ろしたばかりのおばさんが、母子を見るとすぐに立ち上がった。
 礼を言って母子が席に着いた。母子の後にいたその男の子の祖母さんらしい人が、席を譲ったおばさんに、
「あら、アリアさん」
 と、声を掛けた。席を譲ったおばさんが振り向いた。「あ」と小さい声を出したが、顔を強ばらせて、避けるように三メートルほど離れたドア付近に移動していった。

「知っている人なの?」
 男の子を膝に抱いた母親が聞いた。男の子の祖母さんは答えない。それ以来無言のままだ。
 俺は、二人のおばさんを交互に見た。ドアのおばさんには拒絶感があり、こちらの祖母さんには気まずさが感じられた。

 六駅過ぎた時、母子たちが降りる用意をし始めた。ドアの近くのおばさんも身構えている。同じ町の住人なのだろう。
 駅に着きドアが開くと、おばさんは一気に速歩で階段に向かった。俺の側の祖母さんはスローモーションでドアに近づいて行く。その背中を押すように母子が降りていった。

 俺は熱のある頭で、おばさんたちの過去を想像した。金の貸し借り。食い物の恨み。男の取り合い。もっと違う何か……。
「まちのう、町野駅でございますう」
 俺は慌てて飛び降りた。一駅乗り越している。



 はいきぶつ

「見てくれって言ったって、俺には分からないよ。専門家に見て貰った方がいいよ」
「このミシンであんたの塾代を稼いだんだから。まだまだ使いたいわ」
 日曜日の朝だ。お袋が頬を膨らませて言う。最近、和服を洋服にリフォームしているらしい。

 俺が幼稚園児だった二十年前、既製服の見本縫いをしていたお袋が買ったミシン。
 金属同士が引っ掻き合うような音は、ミシンの内部からする。ゆっくり動かせば鳴らなかったものが、直に激しい音をさせた。

 連絡後すぐに修理屋が来た。
「今、この種のものは製造していないですよ。大事に使えば、三代は使えるものです。修理代は一万円位です」
 と見積もり額を言うと、ミシンを台から外して持ち帰った。
 一週間後。修理屋がミシンを台に取り付けた。
「音がねぇ。一応は見たんですよ。ひとつずつ分解していけば悪いところに行き着くのでしょうが」
 お袋が布を用意して電源を入れた。スタートボタンを押す。間をおかず凄まじい金属音。
「長年この仕事をしてきて、大抵のことは直してきましたけど。今回は何処がどう悪いのかさっぱり分からないですね。申し訳ない」
 修理屋は手数料も取らずに帰って行った。
「残念だけど、粗大ゴミってことね」
 お袋が溜息混じりに言った。

「テレビ、冷蔵庫、パソコン、卓上ミシンなど、大型廃棄物をお引き取り致します」
 通りから聞こえる。お袋が走って玄関を出た。
 リサイクル屋の大きな声が聞こえてきた。
「あっ、おばさんは引き取れません。えっ、ミシンなの? 卓上ミシンでなきゃあ、駄目」



 お誘い

「ねぇ、ね、ねっねっ」
 休日の午後。俺は一週間の仕事疲れを取ろうと昼寝をすることにした。
 寝入り端に呼ばれた。女の声だ。目を開けようとしたが、面倒くさい。聞こえないふりをした。目を閉じたまま声の主を考える。

 お袋ではない。買い物に出かけているから。
 祖母にしては若い声だ。
 親父は土曜出勤だし、あんな艶っぽい声を出したとしたら気持ちが悪い。
「ねぇ、もう眠ってしまったの? まぁだ、お話してないじゃない」
 俺は耳をそばだてた。
 隣家との境からか、通りに面した庭からか、北東に開いた天窓からか、床暖房の吹き出し口からか、それとも……

 耳にだけ神経を集中させる。百メーター先の線路から電車の通過音。少し前に起きた脱線事故を思い出す。百七人の犠牲者。マンションに巻き付いた車両。泣き叫ぶ遺族の声。花、花。目を伏せた謝罪の顔。
 兄の病死に繋がった。胸が六年前の痛みを呼び起こした。
――嗚呼、眠ろう。来週は遠出の仕事が重なる。体力の充電をしなくちゃ。

「興味ない? 私に?」
 その声は諦めぎみに言う。
 部屋の隅の机に意識が辿り着く。
 毛布を剥ぎベッドから下りる。
 パソコンを開けた。
 メール画面に未開件名が濃く並んでいる。
 デートサイトからの誘いが続く。迷惑メールだ。試しに一件、クリックする。
「舞衣子で~す。遅いじゃな~い。あなたの返信をまっているわ」
「うわっ、こ、これだったのかぁ」

ショートストーリー『イワタロコ』ー2

2018-10-15 15:51:53 | 夢幻(イワタロコ)
著書『夢幻』シリーズ『イワタロコ』-2


刺身

「祖母ちゃん、弁当は頼んでありますからね」
 土曜日の朝。お袋が出がけに言っているのが、階段を伝って聞こえてきた。
「どこへいくんだ」親父が聞いた。
「あなたは、ゴルフ。イワタロコはどっかへ行くんでしょ? 私は友だちと……」
 その後の言葉は聞こえない。

 昼近くに目覚めた。階下に下りていくと、祖母が一人でテレビを見ていた。
「休みだって言うのに、デートもないのかい。ああ、二人とも出かけたよ。また、私には弁当だってさ。有り難いと言えば有り難いが。気を利かせて頼むんだろうけど、やだね。弁当なんて」
 祖母は俺に言うってことよりも、独り言に近い言い方をした。
「俺、出かけるけど。その前に何か買ってこようか?」
 祖母の目が輝いた。
「お前、優しいねぇ。そうだねぇ、う~ん、刺身買ってきておくれよ。ご飯はチンすりゃぁ温かくなるから」
「刺身って何の?」
「ま・ぐ・ろ」
 スーパーから刺身一パックを買って帰ると、友愛弁当が届いていた。
「毎回同じような物が入っている。変えようがないのかね。まっ、贅沢は言えないが」
 祖母はご飯だけ器に移した。食卓に漬け物と刺身を並べた。
「おかずは食べないの?」
「お前、母さんには内緒だよ。後で、庭に埋める。虫たちのご馳走さ」

 俺は出かけたからその後のことは分からない。平穏な翌日は迎えられた。



 白い妖精

 俺は、稲荷神社の小さな朱の鳥居を確認するとY路を左に向かった。小型車が通れる程の道は、沼畔の木立の中をカーブしながら続いている。

「ホーホー」
 フクロウの鳴き声がしてきた。
 高さ三十メートルほどの木が密集している。見上げると梢の先に僅かに空が見えた。夜行性の鳥が日中に鳴き声を上げることもあるのだ。鳴き声のした方へ山をよじ登って行った。
 太い木が行く手を阻む。枯れ枝を踏み鳴らし、下草が湧き出す香りをすり抜けて進む。
 道から大分奥へ入り込んだと思った。
 楕円形の手に載るほどの白い物体が、梢に近い枝葉の間を横切った。慌てて双眼鏡を構えた。捉えることが出来ない。
 梢に目を凝らす。木々の葉は緑の濃淡で彩られ、森全体を緑風がそよいでいる。
 また白いものが目を掠めた。フクロウの幼鳥だろうか。双眼鏡を構え、ゆっくりと左右に振った。
「あ、第一目的物だ」
 太い杉の梢近くの横枝に、真っ白なフクロウの幼鳥がうずくまっている。二羽だ。綿羽が揺らいでいる。目を閉じていたが、片目を半開きにしたり、欠伸をしたり、眠りの中にいることには間違いない。
――この二羽が飛んだのだろうか?

 また俺を焦らすように、白いものが、幼鳥から離れた木々の間を浮遊した。
 後を追った。消えたり現れたりするが、はっきりと姿を確認することが出来ない。それでも追った。服が藪に引き裂かれても、帽子が飛んでしまっても、湿った腐葉土に足を取られても後を追った。

――あれはきっと、白い妖精に違いない。



 青畳

 社会人になって初めての社員旅行。部長以下男女三十人は、藺草香る広間のコの字形に並べられた膳に着いた。俺は一番出入り口に近い末席。中途採用で二年前に入った五十八歳の小泉さんの隣だ。小泉さんは、仕事中は無口で、口を尖らせて書類に向かっている。

「無礼講で今夜は楽しんで下さい」
 部長が表情を崩した。
「仕事のことはあっちへ飛ばしておいて」
 隣の小泉さんが俺にビールの入ったグラスを上げて見せた。俺はあまりアルコールに強くない。たった一人の新入社員だ。
「イワタロコ君。君の名は何とも言えないな」
 先輩の一人が捻り寄ってきた。普段俺を無視している鼻髭だ。
「はぁ」笑顔で受けたが、緊張が走る。

「誰か、唄をやらんかね」
 部長の酔った声が響いた。仲居さんがカラオケのマイクを持って会場内を見回した。
 手を挙げたのは眼鏡の先輩。『星のフラメンコ』を選んで、浴衣の前を掻き合わせて立ち上がった。得意な曲らしい。リズム感も声も良い。座は一気に盛り上がった。
 小泉さんがコの字型の中心に出て行った。大して酔っている風ではない。浴衣の腰ひもをきつく結び直すと、上半身を脱いだ。いつの間に着ていたのか黒いシャツ姿だ。口に真っ赤なハンカチを銜えている。
「ドン」と右足で青い畳を踏み鳴らすと、胸を突き出し、尻をアップさせて踊り出した。
「イエーイ、いいぞう」
「うわっ、なに?」
 会場内のざわめきなど意に介さず踊る。唄の終盤になった時、真新しい畳に足を取られた。傾斜体勢三十度の小泉さんが、部長めがけて滑って行った。



 穴を掘る人 

「埋め立て地だから、このくらい掘って土を入れ替えないと、とても、根付かないんだ」
 造園業の足立が、油圧ショベルを操作しながら俺に説明した。

 植え付ける予定の陽光桜は三本。道路に面して五メーター間隔に、一メーター四方で深さも同じくらいの穴を掘る。ソメイヨシノと違って陽光桜の枝は横に張らない。だから離すのはこれくらいでいいと言う。

「お前行ってきておくれよ」
 そう言われて親の代理で地域主催の植樹祭に出てきた。児童公園の入口に立って、他の住人の来るのを待っていた。出足が鈍い。頼まれた日を間違えたのかと不安になってきた。
「もう集合時間を過ぎていますよね。自治会長さんもみなさんも来ませんね」
 足立はチラリと俺の顔を見たが、それには答えずに三カ所目の穴を掘り出した。
「このまま掘り進んだら何処へでるんだろう。ブラジル辺りかな」
 足立は真顔だ。
「なぁに言っているんですか、足立さん。アハハハぁ……。ブラジルまで届くほど掘ってくれたら、俺滑って降りて行こうかな」
「あっちでは穴から飛び出すことになるさ」
 俺は、コーヒー畑の穴から飛び出す自分を想像した。
「ちょっと、穴の深さを見てくんない」
 足立が穴の方を指さした。

 俺は穴の淵に立って覗いた。途端にショベルのエンジンが全開して轟音を発した。頭の後ろから冷風が背中を伝わって足に抜けた。
 一メートルの深さが何倍にもなって見えた。自分の体が吸い込まれて落ちていきそう。
「うわぁーっ」
 俺は穴の淵から飛び退いた。



 声の主

 駅を出ると夕日が眩しかった。
「後を付いていくよ」
 俺は後ろを振り返った。男にしては高音の声の主は、俺の視界に入らないところへ体をずらしているらしい。
「北相馬郡って言っていたから福島に近いと思ったが、東京寄りの茨城の外れだな」
――だれ?
「名乗っても分からないだろう。呼び名は違っているし、遠い存在だからな」
――ご先祖様? なんで俺に?
「長い間鎮座しているのに飽きた。ふらっと散歩さ。それにお前たちの住まいが見たかった」そこで言葉が途切れた。

 祖母の郷里での法要は、何人もの先祖の供養を纏めて執り行われた。仕事の都合で俺だけ先に帰る途中だ。
 声の主を振り切るように急いだ。国道を横切り八間堀の橋を渡り、千三百戸の団地に入るとその気配が消えた。

 一本目の突き当たりを曲がって路地を入った。鍵を使って玄関を入る。
「おかえり。一応、家の中は見せて貰ったよ」
 声の主は既にリビングにいる。
 髪を後ろで一つにした老人は、白い着流しで椅子にも掛けず立ったまま浮いていた。真夏だというのにそよ風が家の中を流れている。
「お前の骨格は私とそっくりだ」
――い、いつまでいるつもり?
「そうだな、みんなが帰って来る頃には失礼するよ。まあまあの生活ぶりで安心した」
 声の主はそれ以来話し掛けてこない。

 二日後、祖母と両親が帰ってきた。
 声の主は散歩を切り上げ去って行ったらしい。猛烈な暑さが戻ってきた。



 検定試験

「ホラッ、電車がくるっ」
 竜の子線の踏切に差し掛かった時だ。教官が大声で叫んだ。左方向を見ると電車がこちらに向かって来る。ブレーキを踏んだ。
「何しているんだっ。ギアを入れ替えろっ。マニュアル車なんだぞ」

 踏切に教習車の頭を突っ込んだところでエンストを起こした。慌てて左足を踏み込む。ギアをローに入れ替えアクセルを踏む。グンと教習車が動いて単線の線路を通過した。その直後、白地に赤と青の横線の入った二両編成の電車がバックミラーに映って去った。

「オイオイ、そんなに左に寄るなよ。この道は狭いんだ。子供でも飛び出して来たらよけられないぞっ」
 教官が両足をふんばった。
「あ、対向車が来た。ゆ、ゆっくりだっ」
 教官は補助ブレーキを踏みかけた。

 バリバリバリと生け垣の枝が車を擦る。
「車を壊す気か、あーあ、左に寄りすぎなんだ。ボディーが傷だらけに違いない」
 教官は深く息を吐いた。
「君、なんでマニュアル車を選んだんだ」
「出だしが好きなんですよ。それに、ギアチェンジして、グーンとスピードが出るところ」
「適性検査ではなんて出た?」
「……やっぱりオートマチックにした方が良かったですかね」

「仮免許検定試験の結果を発表します」
 番号順に並んだ。教官の叫び声を思い起こしながら待った。
「君はなんで合格出来なかったか言わなくても解るよね」
 試験官は書類を見たまま汗を拭いた。



ショートストーリー『イワタロコ』ー3

2018-10-15 15:51:30 | 夢幻(イワタロコ)
著書『夢幻』ショートストーリー『イワタロコ』ー3



 選挙カー
 
 大型スーパーの前にいた。
 俺の住んでいる北関東は台風十四号の進路から外れている。雨は少なく、強風が吹き荒れていた。

 九月十一日の衆議院議員選挙カーが一台停まった。ワゴン車の屋根に付けた候補者名の書いた看板が外れそうになっている。
 男が三人降りた。皆で看板を手で支えている。間もなく小型のクレーン車が来た。運転手が降り四人で話し合っている。運転手が車に戻り操作をする。一人が屋根に乗って看板をクレーンに括り付けた。
 エンジン音がして看板がつり上げられた。強風にあおられて揺れている。屋根と看板を留めているビスが緩んで脱落したのか、一人が辺りを見回していた。
「あった」男が叫んで拾った。
 左右六ヶ所の留め部分に、看板を固定するまで風との戦いだ。四十分以上掛かってやっと取り付けた。
 道路一本を隔てて、対立候補の選挙カーが政党と候補者名を連呼している。三人がその方角を見た。風にワイシャツやズボンの裾が遊ばれている。
 看板の具合を確かめるとクレーン車が去り、男三人が急いで車に乗り込んだ。すかさず、女性が候補者名を絶叫する。

「皆さん、〇〇政党の尾崎考道、おざきたかみちです。政治は何をどう行動するか――」
 候補者が俺を見て白手袋で手を振った。
「ガンバレぇ。負けるな」
 俺も候補者に手を振り返した。
 選挙カーが走り去る。強風が看板を左右に揺らした。また外れる恐れを感じる。

「あ、いけねぇ」
 俺はコピー用紙売り場へ急いだ。



 月光の下で

「ウオウォー、ウオー」
 俺は月面に向かって吠えた。
 仲秋の名月というに相応しい今年の月。邪魔するものは何もない。星は影を潜め主役を明け渡している。
「ウオウォー、ウオー」
 木霊のように返ってきた。
 聞こえてきた方向を見る。月光の中目を凝らす。人影は遠いらしく捉えることはできない。
「ウオーッ、ウオウォー」
 もう一度試してみる。
「ウオーッ、ウオウォー」
 また返ってきた。
 近くの鉄橋を電車が通り、国道を車が行き交うが、草むらの虫たちは負けずに合奏する。
「だれ?」
「さみしいなぁ」
 男の声だ。若くはなさそうだ。
「何が?」
「家族の中の孤独ってやつかな」
「無視でもされているの?」
「居場所が無いというか」
 近づこうとする俺に、男は顔を見られたくないらしく、声が離れた。
「そこにいて聞いてくれ。君は家族と同じ夕食をとったかい」
「俺は、祖母と両親と同じ食事をした」
 男は、「そうか、いいな」と言ったあと続けた。
「笑うかもしれないが、そんなことって言うかもしれないが、馬鹿だと思うかもしれないが。娘二人と女房は三色の月見団子を食べた形跡があるのに、一家の稼ぎ頭の私には無いんだ。私だって食べたかったよ。ケーキの時だって爪弾きさ。パパは要らないでしょって」



 ママドル

 俺は『カフェ・魔女』で、脹脛が痛いと言う叔母の手伝いをしていた。出入り口の鈴を鳴らして男が入ってきた。カウンターの六脚ある一番奥の椅子に腰を下ろす。間一脚を空けて席に着いていた男二人が一瞬見たが、またカウンター内の叔母を目で追った。お互いがお互いを気にしていない風を装っているが、俺からは逆に見える。
「コーヒー」
 後からの男が低音で注文する。
「まいどありー。イワタロコお願い」
 俺はサイホンに湯を入れ、一人分のコーヒーを挽く。濾過布を付けた上ボールに挽いたコーヒーを入れサイホンにセット。火を付ける。叔母はおしぼりを出しカップを温める。
 三人の男は身動きもしないで叔母の動作を追い続ける。
「ママ、どうしたの。今日は落ち着かないね」
 後からの男が叔母の顔を窺う。
「え、何が?」
 ママ歴二十数年の叔母が平静を装う。痛い足を庇うように背筋を伸ばした。
「ママはアイドルだ。いつ見ても……」
 一人が後の言葉を濁した。
「ちょっと歳を食っているけどな」
 もう一人が家族には見せないような笑顔を作った。
「この店のママドルだ」
 後からの男がコーヒーで乾杯をした。
 三人はカウンターを暫く占拠していたが、申し合わせたように先に入った男から次々に帰って行った。
 叔母がカウンターの横の休憩室に駆け込んだ。ベリッっと何かを剥ぐ音がした。
「ああ、痛い。歳は取りたくない。アイドルもつらーいわぁ。う~ん、気持ちいー」



 白い曼珠沙華

「白い曼珠沙華を見に行きましょうよ」
 彼女が先に立って坂道を下っていく。
「白いのだって?」
「それが咲いていたのよ」
「子供の頃、曼珠沙華の色は血の色だって聞いたことがあるよ。それに、坊さんの生まれ替わりとも言ったし」
「すっごく、繊細な花よねぇ」
「彼岸花とも言うんだろ。葉っぱもなんにもないところから茎が伸びて真っ赤な花が咲く。気持ち悪いよなぁ」
「あんなに綺麗なのに」
「だからよけいにそう言うんだよ」
 俺は彼女の手を取った。彼女が軽く握り返して微笑んだ。

 河川敷の牧場でポニーが三頭草を食んでいる。杉の梢の先をオオタカがハトを追いかけていった。
「突然変異なのかしら? それともシロバナ曼珠沙華っていうのかなぁ。確かこの辺よ」
 彼女は花群の中を注意深く見る。
「あっ。どうしてこんなことするのかしら」
 二本しかない白い曼珠沙華が折られていた。花びらは色を変え始めている。
「持って帰ろうとしたのかしら」
 彼女は折れた花を拾い上げ、そっと元へ戻した。側の篠竹数本の葉も白くなっている。
 そこだけ養分が違うのだろうか。その近くの藪の中に、埋もれた石碑らしい物が僅かに見えた。
 俺は振り返った。河川敷には彼女と二人だけだ。遠くの木々の間が真っ赤に染まり広がっていた。
 彼女が駆けだした。紺のジーンズとフリルの付いた白いベストがスピードを上げて、深紅の花群に吸い込まれていった。



 椰子の木とパラソル

「どこへ行くかって、南の国だ。オートバイで海岸を走るんだ。そりゃあ水に限らず、生ものは控えることにするよ。だけど果物は最高だねぇ。え? 言葉はちょっと英語が話せれば、あとは身振り手振りで通じるんだ」
 そう言って叔父は会計事務所の鍵を掛けた。
「さ、一ヶ月に一、二回風を通してくれよ。期間はどのくらいになるか、行ってみなくちゃ分からん。これと一緒だからさ」
 小指を立てて見せてから、同じ屋敷にある事務所と自宅の鍵を俺の掌に載せた。
「頼んだよ」
 叔父は還暦を迎えると同時に家業を閉じた。別れた妻も嫁いだ娘も自分を必要としていないと言っていたが、いつの間にか女がいた。

 一度叔父から、椰子の木とパラソル、スイカ、太陽の笑顔を前身頃に刺繍した白いTシャツが送られてきた。あまりにも子供っぽいシャツなので仕舞ったままだ。確か三年前だ。持ち出した金は足りているのか。それとも銀行に送金でもさせているのか、物価の安い国だと聞いたが、音沙汰がない。叔父の家に行くのがだんだん間延びしていった。

「まったく、守男はどこへ行ったのかね」
 祖母は新聞を広げたままで言った。巨大地震の後の大津波。瓦礫の山が写し出されている。身元確認が出来ていない遺体が多数だという。祖母が写真の中に、三兄弟の末息子の姿を見つけ出そうと、天眼鏡をかざした。

 晴れた日曜日の朝、一ヶ月半ぶりに風通しに行った。
 赤ん坊の泣き声がする。玄関から庭に回ると、洗濯物が干してある。みそ汁の匂いがしてきた。窓から赤子を抱いた叔父と、エプロンをした若い女が見えた。
 俺は思わず今来た方向へ走り出していた。



 ファイルNO.17

「お茶が入りましたよう」
 階段下からお袋の声がする。
 咳払いを一つして親父が下りて行った。
「まっ、また煙草を吸ったのですか」
「吸っていないよ。おまえは疑り深いな」
「誤魔化しても駄目ですよ。匂いが服についているじゃない」
「気のせいだ」
「先生になんて言われたんですっけ。影は消えましたが喫煙を続ければ、今度は大変なことになるかもしれませんよって」
 お袋の甲高い声が続く。

 親父の書斎はガレージ上の中二階にある。七畳半の部屋にパソコン、テレビ、本棚などを置いて、親父は休日の半分はそこに籠もる。今日、俺は将棋をつき合っていた。
 親父の後から書斎を出ようとした俺は、棚の「NO.17」の箱型ファイルが目に入った。
『離煙協会』という見出しのプリントが透明な入れ物の中に見える。

 俺は、親父の気配を気にしながらファイルを開けた。その中に、禁煙サークル、専門医院、薬、道場、指導研究会、などの他、肺の生活習慣病に関する情報サイトのプリントがぎっしり入っていた。「NO.17」の前後のファイルには、旅行案内や劇場案内のプリントが見える。

「もう、どうなっても知りませんからね」
「煙草は止めたって。止めるって」
「ほら、止めていないじゃない。なんかあったら、旅行だって行けなくなるんだから」
「きっとやめるよ」
 両親が言い合っている。
 隠れ煙草吸いの俺は、『禁煙する意志が全くない人間を禁煙させるには』というプリントを引き抜いた。




ショートストーリー『イワタロコ』ー4

2018-10-15 15:51:04 | 夢幻(イワタロコ)




アイヌ料理 上


「イワタロコにはいい経験になるわよ」
 と、叔母に誘われた。俺が十歳のころだ。

 叔母と叔母の友だちに連れられて、車で一時間くらいの山間の一軒家に行った。あまり大きくない家に二十人ほどが集まっていた。
 座敷の壁に、刺し子のような民族衣装が掛けてあって音楽が流れていた。

 大きなテーブルに山盛りのアイヌ料理が並んだ。大切りの鮭と昆布と大根や人参の漬けた物。キノコ類の煮物。ご飯に具たくさんのみそ汁。そして鹿肉の薫製のようなものが出された。素朴な料理は素材の旨味を最大限に引きだしていた。小学生の俺にもその旨さは分かり、恥ずかしかったがおかわりをした。

「将来は東京のどこかに、アイヌのみんなが集まれるような、郷土料理の店を出すのが夢なんですよ」
 眉毛の濃い、アイヌの残り少ない血筋の一人だという女性が力を込めて言った。
 関西出身だという小柄な男が続けた。
「我々和人もそれを理解して、協力したいと思っているんです。一人でも多くの人の協力を得て、資金をなんとかしたいと努力しているのですけどね」
 今日はそのための集会だったらしい。

 そのあとは、アイヌの人々と和人との歴史的な話や暮らしのさまなどの話が続いた。
「アイヌの血筋だと誰も言わなくなったんですよ。なにしろ、こちらでは暮らしにくくなりますからね」
 一人が溜息混じりに言った。俺は子供心に、なぜ暮らしにくくなるのだろうと思った。
「少しですけど協力させて下さい」叔母たちが言った。

 俺は昔を思い出しながら、インターネットで『アイヌ料理店』を検索した。



 アイヌ料理 下

 俺はインターネットで探した『レラ・チセ』(風の家)の案内図を見る。叔母も覗き込む。
 中央線中野駅北口から商店街を抜け早稲田通りを右折。少し先を左折。薬師あいロードの一本目十字路の左先にあるはずだ。

「ここだわ」
「おっ、ここだ」
 鮭のレリーフの看板が目に入った。迷うことなく『レラ・チセ』のドアを引く。
 間口は二間弱。入ってすぐ右の壁際に、アイヌに関する書籍と、ムックリ(口琴)などの民芸品販売コーナーがある。大きなテーブルに六人の客がいて既に盛り上がっていた。

「お二階へどうぞ」店の若い娘が促す。
 二階に上ると板張りの床に細長いテーブルが四卓と、丸い座布団が用意されていた。
 叔母が座席では膝が痛くなると言うので一階に戻り、厨房が見える狭いカウンターに陣取る。奥行きは間口の三倍以上はありそうだ。

 鮭、鹿肉、行者にんにくや馬鈴薯、南瓜や豆類などが材料だ。沢山のメニューの中から数種類頼み、アイヌの酒も頼んだ。

「アイヌはお酒を飲まない民族なんです」
 代わりに勧められたのが札幌の地ビール。
「何か謂われがあって飲まないのかしら」
 叔母が囁いた。メニューの端に『神事用作酒はする』と書いてある。
 外国人など含め次々と客が入ってくる。たちまち、満席状態。厨房では鉢巻き男一人が大奮闘。店の若い娘は二階と一階を往来する。

 店の若い娘に昔会った女性のことを聞いた。
「一昨年に亡くなりました」と言う。
 行者にんにくの強い香りが食欲をそそる。凍った鮭の刺身が口の中でとろけた。
 大分昔の記憶とは違うメニューだが、叔母も俺も満足をした。帰りに書籍『レラ・チセへの道』を買った。



 募集


「あなたも参加しませんか」
 新聞折り込み広告。昼食を共にする『袖擦り合う会』合コンの参加募集だ。会長名が翁山重仁とある。当日飛び入り参加も可。年齢は六十五歳から上は無制限。会場、公民館。

「祖母ちゃん、参加してみたら」
「いやだよ。そんなこと」
 俺の勧めにさんざん尻込みをしていた八十四歳の祖母が、日曜当日の朝化粧を始めた。

「すまないが頬紅を貸してよ」
 お袋の化粧品を借りたりして念入りだ。珍しく紬の着物を着た。
「悪いけど、車で連れていっておくれ」
 公民館に送って行くと、二十人ほどの老男老女が集まっていた。みんな着飾っている。

 夕方迎えに行くと、どの老人もほんのり頬を染めている。酒を飲んだからか、会場が温かだったからか、それとも特別な何かがあったからなのか。
「それがさぁ、いいものよねぇ、歳を重ねるってことは」
 助手席の祖母の両頬に小さな窪みが出来た。
「なんかいいことでもあったの」
「男の若い順に座った隣へ、女の年上から順に座って下さいって、会長さんが。うふふ。ほら、金物屋の旦那。六十五になったばかりだってさ。その隣が私なのよ。商売人だからね、口八丁手八丁で楽しいのなんのって」
 祖母は思い出し笑いを続ける。
「祖母ちゃん、次も当然参加だね」
「そうさね。いつ死ぬか分からないから、うんと楽しまなきゃあ。募集があったらいくよ。それよりお前の方はどうなんだね」
「えっ、な、なにが……」

 彼女募集中の俺は、ハンドルを握りしめた。



 雪模様


「何をしているのさ」
 祖母が座敷から声を掛けてきた。
 俺は、窓ガラスに張り付いた雪の一つひとつを見ていた。模様は何種類もある。
「ん。雪模様の観察だ」
「ほう、風流なこと言うじゃないか」
「まぁね」
「雪が降ると、昔を思い出すなぁ」
 祖母は炬燵に顎を載せるように身を縮めると、降りしきる雪を眺めた。

「あれは小学校の五、六年生のころだったな。雪が一尺くらい積もった日だ。長靴が無かったから足駄を履いて学校へ行った」
「アシダって」
「下駄みたいな、歯の高い雨用の履物さ。それを履いて学校から帰る途中に、鼻緒が切れちまった。そうさな、今で言えば、家から五百メーターくらいの所だった。仕方が無いから足袋を脱いで足駄を持って走った」
「えっ、雪道を裸足で?」
「そうだ。足はジンジン痛くって、心臓は凍りそうだった。家の土間に入って行ったら、丁度母親がいて、大急ぎで沸かした湯を盥に入れると、足を入れさせてくれたよ。足は尚更痛くなって、大声で泣きたかった。けどな、一生懸命、湯の中のだんだん赤くなっていく足を撫でてくれながら、母親の目から涙が流れているのを見たら、泣けなかったよ」
 祖母は鼻の下を擦った。

「今じゃ考えられないような時代だね」
「その翌年、遠くに働きに出ていた姉から雨靴が送られてきた。長靴じゃないよ。その頃にしちゃあ洒落たものだった。姉も少ない給金から買ったらしい」

 窓に張り付いていた雪は、水滴になって落ちていった。



 虹をなぞる


 俺が彼女に振られた日、雨上がりの堤防の上にシートを敷き胡座を組んだ。

 瞑想の真似事をする。鼻から深く息を吸う。末端の細胞までも満たすように吸う。そして、口を小さく開け、少量ずつ息を吐く。体中の邪気を全部追い出すように吐く。

 何度も繰り返した。頭の中に靄が広がっていく。野球帽を被り、Tシャツとジーンズ姿の俺の体が持ち上るように感じた。
 目を開ける。西の空から青味が瞬く間に頭上まで広がった。河川敷に連なるポピーの花群が鮮やかだ。
 虹が対岸とこちらの堤防に川を跨いで掛かった。手の届くほどだ。手を伸ばす。温かな湿った虹をなぞる。手が濡れた。

 カチカチと食器でも触れるような音がする。ザワザワと人声が膨らんでくる。音楽が聞こえる。背後に人の気配を感じた。
 振り向いた。見慣れない女がいる。俺と同年代の二十代半ばに見える。その女も浮かんで見えた。片方の唇を引き上げ、ぎこちない微笑みを見せる。

「だれ!」
「独りじゃいやなの、一緒に行きませんか」
「どこへ」
「あの虹を捕まえに」
「お、俺は」
「意気地がないのね」
 女は薄衣を纏い、細い体をくねらせた。透き通るほど白い肌だ。瞳が黄色い。冷たい手が俺の腕に巻き付いた。

「ちょっ、ちょっと待ってよ」
 俺は喉が絞れて声が出ない。下半身にズシリと重みが付着していた。
 俺は重みを引きずりながら、消えかかる虹をなぞる。