紫陽花記

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小説
ショートストーリー

華の三重唱-1

2017-11-13 08:12:19 | 江南(華の三重唱)
「江南文学」56号掲載華の三重唱

鎌倉にて

 若宮大路を歩き二の鳥居、三の鳥居を潜り、鶴岡八幡宮参りをする。国宝館で仏像や浮世絵を見学。牡丹園で冬牡丹を楽しんだ後、小町通りに入る。小さな店が連なっていた。
 初老の女三人は、小町通りで立ち止まった。
「行き過ぎたのかしら。ええーとね、民芸屋と骨董屋の所を左ってあるけど。それがどこか分からないわね」
 孝江がパンフレットの『観光鎌倉』を見た。
 依子と徳子が通りの両側を目で追う。
「この通りの……あった。あそこの左」
 依子と徳子が同時に叫んだ。
 目指す豆腐料理の店は、沢山のテナントの入った建物の一階奥にあった。客席は三、四坪ほどの小さな座敷。十二の座席は皆女性客ばかりだ。
 三坪ほどの庭に面した席に着いた。細い竹が数本伸びていて淡い陽ざしを受けている。
 ごま豆腐が主の『点心花べんとう』の膳は朱塗りの器。薄味で、菜の花や桃の一枝がそれぞれに添えてあった。
「ね、ずっと来たかった鎌倉の印象は?」
 計画を練った徳子が孝江と依子に聞いた。
「あなたたちとじゃなくて、いい人とでも来たかったわ」
「婆三人じゃあねぇ」
「まっ、二人とも言ってくれるじゃない」
 食後、トイレを借りることにした。
「二階の奥です。これを使って下さい」
 店の女性が手渡してよこしたのは、棒の先に鎖で付けてある鍵だ。トイレの扉に『お客様以外のご使用はご遠慮願います』と張り紙。
 徳子が入って行った。
「どうしようかしら」
 と依子は、小声で呟いた。
 孝江が言った。
「長谷寺へ向かう前に、駅で」


写経

 還暦を三つ超えた三人は、身仕舞いをして手を清め、入室した。長谷寺の写経の場となっている仏間に、経机が十ほど並んでいた。数人が既に写経をしている。
「私、膝が痛いから」
 と、徳子が入口に近い椅子席に着いた。その隣席の座布団に孝江が着き、その隣に依子も座った。
 三人とも「延命十句観音経」を写経する。
 経机には硯と墨と筆、それにフエルトの下敷きと文鎮が用意してあった。
「筆ペンにするわ」
 徳子が、仏壇の前に並べてある筆ペンを借りてきた。孝江と依子は、用意してある筆を使うことにする。
「観世音南無仏――」
 和紙に薄く書かれている文字を上からなぞる。筆ペンの徳子は一番先に書き終わった。孝江が『願意』のところでしばし考えている。依子は『心身共に健康で過ごせますように』
と、書き記す。
 孝江が自分の書いたものを読み返している。依子が少し体を傾げて覗くと、
「庄一共々健康でいられますように」と、書いてあった。孝江の夫の名前ではない。
 孝江が慌てて写経書を畳むと、依子に向かって、唇に人差し指を縦にあてた。
 仏間には、出入りする人たちの衣服のすれる音と、筆の音があるだけだ。線香の漂う中、依子は小さく咳払いをした。
 三人は外に出ると深呼吸をした。三十分ほどの緊張感をほぐす。
 徳子が、写経済みの奉納書は持ち帰ると言った。孝江は奉納祈願をすると言い、依子はどうしようか迷っている。
 弁天窟や長谷観音を見学した後、高徳院の鎌倉大仏の体内に入ることを計画している。


鎌倉大仏

「うわっ、中、暗い」
「狭いところね」
「気を付けてよ。足元。お互い年なんだから」
 徳子を先頭に、孝江、依子と続いた。
 鎌倉大仏の体内に通じる階段は、やっと二人が擦れ違うことのできる幅だ。三、四段下ってから方向を変えて登って行くと、広い場所になる。三十人に近い男女が蠢いていた。
「ここが大仏さんのお腹の中ね」
 依子が呟くと、徳子が言った。
「ね、大仏さんは女なの?」
「えっ、どうして。お釈迦様なのだから男よ」
 孝江が言って「当たり前でしょ」と付け加えた。
「だって、なんか子宮の中にいる感覚なんだもの。そんな感じしない?」
 依子はゆっくりと空間を見回した。
 なるほど。蠢いている人々は、受胎前の物体のようにも見える。
「不謹慎かしら?」
 徳子が囁いた。
 孝江が独り言を言った。
「ここにいる皆さんは、純粋な気持ちでお参りしているのかしら」
 依子は、『写経の願意』へ、孝江が書いた庄一という文字を思い出した。
 孝江は外へ出ると、大仏の顔をじっと見上げている。
 トビが高度を下げて「ピーヒヨロロ」と鳴いた。
 徳子が、高徳院の境内にあった与謝野晶子の歌碑から引用して言った。
「本当に、この仏様。美男でおわす。だわね」
「みほとけの 尊く放つ御光を 仰ぐすなはち罪ほろぶとふ」
 孝江が声に出して、伊藤左千夫の歌を唄った。


タンゴ

「ステキっ。あの足」
 徳子が、互いの長い足を絡ませて踊る、ステージ上の男女に溜息をついた。
「ねっ、徳子さん。ご主人の愚痴を言っているより来て良かったでしょ」
 孝江が両手を胸の前で合わせ、目は赤と黒の衣装を着た二人を追う。
「音楽も、すばらしいわね」
 依子は、ステージの左で演奏する四人の男たちも魅惑的だと思った。
 二百人ほどの観客は、一曲終わる毎に大きな拍手を送る。
 ピアノ、バイオリン、ベース、バンドネオンの演奏は、依子も知っている曲が多い。
「なんか、体がムズムズするわ」
 徳子が、上半身を捻るように振った。
「踊りたぁ~い。でしょ? 依子さんも習いなさいよ。足腰にも精神にもいいんだから」
 孝江が足でリズムをとって言う。
「踊れたらどんなに楽しいかしらねぇ」
 依子は、徳子と孝江が羨ましい。二人はソシアルダンスを習っている。
 五十分のショータイムの中間で、『お愛嬌コーナー』があった。三人の男が客席に下り、女性客の手を取ってステージに導いた。若い女性二人と塾年の依子だ。
 手を取られた依子は、自分でも意外なほど冷静であった。ダンスのダの字も知らないのだから、どうせ動くことは出来ないはずだ。
『黒い瞳』の曲に乗って男が手を引く。五十キロの依子は前へ。僅かに押されて後ろへ。二歩進んで四歩後退。左に行って右に回された。音楽はもう聞こえない。リズムは男のいいなり。後の二組も客席も目に入らない。
 思いっきり右足を踏み出した。
「うおうっ」
 男が悲鳴を上げた。


日光・三婆

「これ、見ざる聞かざる、言わざる、なのね」
 依子は、徳子、孝江と並んで、白い神馬がいる神厩舎を見上げた。
「霊獣って呼ばれている二十六種類、七百十四頭の彫刻がこの東照宮にはあるんだって」
 孝江が小型の双眼鏡を取り出して、陽明門の彫刻を丹念に見ている。依子は中学の修学旅行を思い出した。半世紀近い昔だ。
「陽明門の前の石段に並んで、集合写真を撮った記憶があるわ」
「そうだっけ? 徳子さん覚えている?」
「どうだったかしら。ね、写真撮ろうよ」
 徳子がカメラを構え、孝江と依子は石段に並んだ。
 陽明門から、内院を囲む回廊を人波に添って行く。奥社につながる参道の入口に、『眠り猫はこの上の欄間です』と矢印と案内があった。依子の記憶よりずっと小さい猫だ。
 案内に従って拝殿、本殿のお参りを終えたところで、案内係が勧める。
「生涯をお守りするお香を、お家で待っているご家族に。また、親しい方にお勧めします」
 孝江が赤と青の香袋を買った。
「ねぇ、誰のために買ったの」
 徳子と依子の問いに、孝江が表情も変えないで言った。
「内緒、夫でないのは確かだわ」
 薬師堂に入ると、照明が昔より明るく感じた。鳴き龍が目を見開いている。係の打つ拍子木に、鈴のような鳴き声を返してきた。

 外に出ると強く雨が降っている。タクシー乗り場まで走った。
「三ツ山羊羹を買って帰ろうよ」
 孝江が言った。徳子が生湯葉の刺身が食べたいと言う。依子に、修学旅行で、キノコのたまり漬けを買った記憶が蘇ってきた。



華の三重唱ー2

2017-11-12 15:42:11 | 江南(華の三重唱)
「江南文学」56号掲載華の三重唱-2

浜離宮

 鍵型に開け放された、三座敷の建具は、全部取り外されていた。
 畳の上に青い薄縁。半間幅の朱の毛氈が、部屋の両端に敷いてある。
 床の間には、明治時代らしい服装の数人が、池を背に、この座敷で、テーブルと椅子、西洋風の食器で歓談している絵がある。
 小鳥の鳴き声がしてきた。
「あらっ、何の鳥? 録音なのこれ?」
 徳子が池にせり出した広縁の軒先を窺った。
「どれだけの人が、ここに座ってこの池を眺めたのかしら」
 依子は、昔はもっと鳥も多かっただろうと思った。潮入の池の風に、海の匂いがする。房総も見えたとある方向に高層ビルが見えた。
 制服姿の女性が、抹茶と朝顔の形をした和菓子を角盆に載せ、各の前に置いた。
「この中の島にある御茶屋は、宝永四年というから、三百年も昔に造られたのね。将軍はじめ御台様、公家たちが、ここで庭園の見飽きぬ眺望を堪能した休憩所。現在の建物は、昭和五十八年に復元したもの」
 孝江が、パンフレットにある浜離宮の成り立ちを読んだ。現在は東京都の管理らしい。掃除が行き届いている。

「ここは東京の中でもいいデートスポットなのよ、きっと。また来ようかな」
 孝江が先を行く二羽のカルガモを指さした。
左右に体を揺らし、内股で歩いている。
「でも、川は汚かったわねぇ。ここに繋がる橋から見た築地川は、ゴミがいっぱい。水は淀んで臭かったじゃない」
 鼻を抓む依子に、徳子が顔を歪めた。
「ヨットやボートを繋留しているリッチマンは、たぶん蓄膿症なのよ。あんなに汚いところに平気でいられるんだから」


お戒壇めぐり

 善光寺内陣の入口に柵があった。依子たち三人に、係の僧が手で内々陣を示して言った。
「お参りを先になさって下さい。それから、内々陣の右側に一列に並んで下さい」
 大勢が並んでいた。列の最後尾に依子は並んだ。その後ろに孝江が体を寄せ、その後ろに徳子が続く。係の僧が説明する。
「荷物は左手に持って、間を開けないで一列にお進み下さい。お戒壇巡りは、右手で腰の高さの壁を伝って極楽の錠前を探り当てます。秘仏のご本尊と結縁をさせて頂いて下さい」
「ね、オカイダンってなに?」
 三人が同時に言った。
「ご本尊の下を通って来る修行ですよ」
 前にいた、依子たちより少し若そうな男性が顔を向けて言った。体験済みのようだ。お戒壇の入口は紅い欄干のような物で囲われていた。地下に向かって急な階段がある。
 依子は前の男性の上着に左手を僅かに触れて進んだ。階段から平坦な所に下りた頃には、明かりが無くなり、もっと進むと全くの闇だ。目を開けているのかいないのか、それさえも分からない。「うわぁ、真っ暗」口々に言う。丸みのある柱らしい壁面を何度か通過した。
「ゴォン、グァン」と音がしてきた。
「あれが極楽の錠前の音ですよ」
 男性の声。小刻みに進む。錠前に近づいた。
「私の手のところですよ」
 男性が言う。手で壁面を辿る。温かい手が何かを握っていた。依子の手を感じるとその手が退いた。
 依子は握った取っ手を左右に振った。それが壁の何かに当たる。「ゴォン、ゴン」
 四十五メーターの暗闇を抜けた。
「後ろの男性も、私の手を頼りに錠前を握ったみたいよ」
 徳子が含み笑いをした。


コスプレ

「あらっ、若かったら私もしたいわ」
 孝江が声を上げた。原宿駅を出て、明治神宮に向かおうとした時だ。
 十代の女の子がレースやフリル、リボンや花飾りの付いた洋服を着ている。アニメキャラクターを真似ているらしい。二人連れや三人連れ、また数人のグループもいる。
「コスプレって言ったっけ。可愛いなぁ。依子さん、私らの頃は、タケノコ族だっけ流行ったのは」
 徳子が女の子を凝視して言う。
「みゆき族じゃなかったかしら」
 依子は、銀座みゆき通り中心に流行った、花柄のスカートを思い出した。
「あら、あの二人歩道に座っているわよ。この寒空に」
「雪が残っているのにねぇ。敷物をひいているけど。見ているだけで神経痛が起きそう」
「若いってことは寒くないんだわよ」
 明治神宮の鳥居を潜ると、参道を覆う木々に積もった雪が、風に舞い散ってくる。
 三人は、社殿に向かって拝礼をし、柏手を打つ。小声で祈った。
 この時期は参拝者も少なく、神宮の森に、砂利の踏む音だけが響く。

「あら、あの女の子たち、まだあそこにいるわよ。写真撮らせてもらおうかしら」
 孝江がカメラを取り出した。
「ちょっ、ちょっと孝江さん、私たちも一緒に撮ってくれない」
 徳子が依子の腕を掴んで、フリルと花飾りのワンピース姿と、鎖やメダルを沢山ぶら下げたパンツ姿の間に割り込んだ。
 女の子たちが笑顔とピースサインを作った。
 カメラを構えたまま孝江が叫んだ。
「わっ、なに! この取り合わせは」


奥様お手を

 受付にタキシードの男がいた。
「入場料は二千二百円です。手荷物は三百円と五百円のコインロッカーがありますから。お着替えは更衣室をご利用下さい。あ、スタッフをご希望でしたら申し込んで下さいね。三十分、二千円です」
 男が言い添えると、依子に笑顔を向けた。フロアーからサンバの曲が聞こえる。
更衣室の五百円のロッカーに、依子と徳子、孝江の三人分の荷物を詰め込んだ。
 孝江が、誰かからのプレゼントだと言って、ビーズ刺繍のついた黒いリボンを首に結んだ。徳子は、大きなイヤリングを輝かせている。
 ダンス習い立ての依子は、二人が眩しくて仕方がない。
 フロアーのまわりには椅子が並べてあり、男女の客が掛けている。
「独りで来ている男性が踊ってくれるわよ。依子さんは、スタッフを頼んだら」
 孝江が自分から男性客に近づいて行って、もうフロアーの真ん中に踊り出ている。徳子には、近くの男性が手を差し伸べた。初心者の依子は、壁際に取り残されてしまった。
 依子は、スタッフ案内所に行ってみた。女性スタッフの札は七個。男性スタッフの札が三十個ほどぶら下がっていて、既にみな出払っていた。壁に『初心者には丁寧にご指導致します』と書いてある。受付の男性が言った。
「空いた順番にお受けしています。予約はしていませんから、時々確かめに来て下さい」
 一時間後、やっと頼むことが出来た。
 タキシードのスタッフは「松山」と名乗った。二十代半ばだろうか。依子より二十センチくらい背が高い。
 三十分間に、何度か松山の靴を踏みつけた。その都度、松山は「いいんですよう」と笑った。左の八重歯が可愛いい。


めいどのみやげ

「あらっ、天使の羽」
 徳子が、秋葉原の歩行者天国で指さした。
 黒いワンピースに白いフリルのついたサロンエプロン、頭には白いカチューシャ。メイドスタイルの女の子が数人いた。その中の二人の背中に、天使の羽が付いている。メイド喫茶の案内カードを配っていた。
 孝江が、案内カードを受け取ると老眼鏡を出した。依子も老眼鏡を出す。
「今日、目的のメイド喫茶だわ。さっそく行こうよ。冥土のみやげが一つ増えるわねぇ」
「ちっちゃい字ね。地図も見にくいわ」
 三人は、地図を頼りに信号を左に曲がった。
妻恋坂交差点を右にまがる。
靴屋の隣が喫茶店だ。ドアの前に、八人の若い男と、二人連れの女の子が席の空くのを待っていた。その後に並んだ。ピンク色の立て看板には、何処にでもあるような軽食と飲み物のメニュー。ポイントカードでメイドと一緒の写真撮影サービス有り。九十分の時間制とある。
 帰る若者と入れ替わりに店内に入った。
「行ってらっしゃいませ、ご主人様。あ、いらっしゃいませ。お三名様ですね」
 メイドが迎える。十八卓とカウンター五席の喫茶店。壁にメイドの大きな絵と、ガラスケースに衣装が飾ってある。横にメイド募集の案内。資格は十八歳以上。上限はない。
 三人は紅茶とケーキを注文する。
 メイドは静かな動作で、三人の前にケーキと空のカップと紅茶の入ったポットを置いた。笑顔を向けると、ポットを持って聞いた。
「お嬢様、レモンティーをお注ぎさせて頂いて宜しいでしょうか」
「お、お嬢様だってぇ」
 上ずった声の三重唱だ。
 店内の若者たちの視線が一斉に集まった。


飛鳥・Ⅱ

「うわぁ、あれが飛鳥Ⅱなのね。おおっきぃ」
 依子たち三人は、横浜大桟橋ふ頭に、係留中の豪華客船を見て叫んだ。初春の強風に髪を巻き上げられながら、横浜赤レンガ倉庫側の岸壁の柵に、並んで寄りかかっていた。
「十階建てのマンションが海に浮かんでいるみたいね」
「真っ白で綺麗。どんな人たちが乗って、世界一周するのかしら」
「一人ずつ飛鳥をバックにして撮ろうよ」
 五メートルほど離れてカメラを構える徳子。笑顔を向けて孝江がポーズを取った。
 強風があおった。
「うわーっ」
 孝江の体が一旦海側に揺らいで、瞬時に、赤レンガ倉庫側に戻った。
「気をつけてよっ」
 依子は近寄ろうとしたが風に遊ばれて危険だ。孝江が風に逆らって身を低くした。
「ここで、海に落ちたりしたら『自殺か事故か』ってニュースになるわよ」
 徳子が笑いを堪えて言う。依子も付け足す。
「『どう見ても、夫婦仲はよさそうでしたよ』って、近所の人が言ったりして。『何があの奥様にあったのかしら』なんてさ」
「私達は、『お互い、干渉しあわない付き合いですから、分かりません』って、答えるわ」
 二人を睨んだ孝江が、岸壁から離れて改めてポーズを取った。飛鳥・Ⅱは大きすぎて、全体像が画面に入らない。
 三人が見ている間に、初航海前の飛鳥・Ⅱに、小型タンカーが後進しながら近づいていく。強風にあおられた。
「ドン」と音がした。接触したらしい。

 翌日の新聞一面中央に、飛鳥・Ⅱと小型タンカーの写真が載った。


華の三重唱ー3

2017-11-11 08:16:56 | 江南(華の三重唱)
「江南文学」56号掲載華の三重唱-3

小石川後楽園

 依子たち三人と擦れ違ったのは、茶色の着物と袴の若者。髪は丁髷で腰に刀を差し、雪駄を履いている。ジーンズの若者二人と中年女性を従えていた。
「黄門さま?」
 徳子が孝江に聞いた。
「慶喜様じゃあない?」
 孝江が依子に聞く。
「徳川家のお庭だから、どっちかしら」
 と、依子。
 彼らの姿は、大泉水の船着き場から唐門跡方向へ移動していく。なにやら捜し物をしているらしい。立ち止まっては周りの景色を確かめている。
「ね、なにしているのかしら」
 徳子が依子の腕を引いた。
「行ってみようよ。あのお殿様、イケメンね」
 孝江が肩をすぼめた。
 そぞろ歩く振りをして後をついていく。
 内庭の池沿いに、築地塀の方へお殿様と取りまきたちが移動していく。
 深山のように木々が生い茂っている。雨が降りそうだ。
 三人は、適当な距離を保って立ち止まった。片方の若者が担いでいた大きなカメラを構えた。もう一人の若者も、反射板を持って塀の近くへ立つ。
「ダメダメ、そこじゃあ。雰囲気に合わないよ」
 中年女性の声。鋭い視線がこちらを向いた。
 徳子が小声で言った。
「何かのプロモーション撮影だわよ、きっと。屏風岩や音羽の滝、得仁堂方面へ行こうよ。大堰川の沢渡りもしたいし」
「その者たち、そこへなおれっ」
 若者の声がした。
 三人は慌てて引き返した。


きみがそば

「此処に祭られているのは遠い親戚」
 徳子が、大鳥居を見上げて言った。依子の身内にはいない。
「伯父さんは沖縄戦で。二十四歳だったって」
 孝江が、大手水舎で手を洗いながら言う。
 菊の御紋章が際立つ神門を潜り、拝殿で三人は英霊に黙祷を捧げた。

「ね、昼食はどうする?」
 靖国神社の主な所を見学した三人は、休憩所や売店を見渡す。休憩所には、そば、うどんなどの文字がみえる。
 少し離れた場所に骨董市のテントが並んでいる。その奥にそば処の幟がはためいていた。
 暖簾を押すとカウンターに三個の椅子がある。客は三人しか入れない。
「イラッシャ~イ」
 中から、白いユニホームを着た、七十歳は越していそうな二人の男が笑いかけた。
 湯気が立っている。奥が見えないほどだ。
 きみがそば 八百円 
 目の前に品書きがぶら下がっていた。
「きみがそば」
 依子たちは口を揃えて注文する。
「ヘ~イ」
 中の二人も声を揃えた。
「限定メニューなのね。どんなお蕎麦かしら」
「ネーミングがねぇ」
 三人は目配せして笑いを堪えた。
「ヘ~イ、オマッチ」
 三人の前に丼が置かれた。蕎麦が隠れるほど具が載っている。椎茸、ワラビ、ワカメ、タケノコ、青菜、エビ、かまぼこ、錦糸卵。薬味と、甘口の汁がたっぷりと注がれていた。
 三人は大満足で店を出ると、互いに顔を見合わした。
 どこからか三線の音がした。


若冲の鶴図

「ほかに行こうよ」
 徳子が、ルーブル美術展入口の長い列を見て溜息を吐いた。
「そうね」
 孝江がすぐ賛成する。依子も列から離れる。
 東京芸術大学美術館から、東京国立博物館前に移動。案内看板には『若冲と江戸絵画展』とある。
「若、なんて読むのかしら。沖じゃないわよね。ちょんちょんに中だけど」
「ジャクチュウって読むみたい」
「偏が次とか冷とかと同じで、旁が中。チュウと読むのね。難しい」
「ここでいい?」
「どんな絵かしら」
「せっかくお上りさんで来たんだからね」
 伊藤若冲という画家をメーンに江戸時代の絵が並んでいる。
「たくさん描いた後の作品かしら。徹底的に省いているみたい」
 依子は、若冲の鶴図屏風の前で呟いた。
 一筆で描いような丸みのある鶴の体や長い足。濃淡の墨に迷いが見えない。
 楽しんで描いただろうというのが、依子たち三人の感想だ。
「おまえは、何羽いると思う?」
 群鶴図の前で観ていると後ろで声がした。
 共に八十歳くらいの、夫婦らしい二人が画面を指さしている。
「え~と、三羽でしょ」
「違う。五羽だ」
「二羽が右上を見ているし、一羽が下を」
「その他に首を曲げているのが二羽だ」
 群鶴図の右に絵の解説がある。そこには、七羽の鶴とある。
 老夫婦の言う個体の他に、隣の体に隠れるように二羽の頭があった。


浅草エレジー

 金龍山浅草寺の雷門で、依子たち三人は代わる代わる写真に納まる。仲店通りは日曜日とあって賑わっていた。
 きびだんごと抹茶、揚げ饅頭を路上で頂き観音堂へ。
「うんとご縁がある様に五十円にするわ」などと言いながら手を合わす。
 突然柏手を打ったのは神道の徳子。孝江と依子の非難の目に首をすくめた。

 浅草神社では、猿使いの演技が終わったところ。五重塔を見て、六区ブロードウェイを歩き、馬券売り場を覗いてみる。
 新仲店通りから雷門へ戻る。
 煎餅の試食。『やきもち』の文字に誘われて一つ。鯨肉定食で体重二キロは増えただろう。
 三人とも歩き疲れる。
 ブルーシートハウスの撤去が進んだという隅田公園で、一休みすることにした。
 吾妻橋に近づくと、水上バスを利用する人々のざわめきに混じって、子供の頃聞いたことのある流行歌の曲が聞こえてきた。
 公園に入って直ぐの木陰で、老女一人がタンバリン、老人二人がハーモニカ、もう一人がドラムらしき物を叩いていた。四人とも十七、八歳人生の先輩に見える。
 曲はみな、別れを唄った哀愁歌。
「ね、あの叩いているの……」
 孝江が立ち止まった。
「お菓子の四角いアルミ缶だわ」
 徳子が確かめるように目を凝らす。
「スティックは太い菜箸みたい。缶に布を掛けて、音を調節しているんだわね」
 依子はドラムを叩くまねをした。
 老人達の奏でる懐かしの曲を聴きながら、依子たち三人は、隅田の川風に吹かれながら、水上バスを見送った。


港町ぶらり

「船で行くわよ」
 計画係の徳子が、シーバスに乗船すると言って先を行く。
「引き潮だから船までのスロープ、傾斜がきつくなっているね」
「まぁだ独りで大丈夫よ。歳は同じでしょ」
 依子は、孝江の出した手を払った。
 横浜駅東口乗船場からシーバスに乗る。ぷかり桟橋乗船場と、ピア赤レンガ乗船場に寄りながら、山下公園乗船場までのコース。
 沿岸のマンション群が秋の陽に光っている。
 陸路より眺めが良く時間も早い。
 山下公園から元町へ。全体で七百メートルほどの商店街通りは石畳。大きなポットの花の寄せ植えが、間隔よく置かれていた。
 路地裏通りから坂道を登る。外人墓地を見ながら『ブリキのおもちゃ博物館』へ。
 港の見える丘公園で一休み。ベイブリッジや港内の船が白い。倉庫群が手前に横たわる。
 フランス山を通る。『母子像』があった。
「アメリカの戦闘機にやられて死んだ、母と娘二人なんですって」
「あら、あっちにも?」
「あれは、彼氏が彼女を抱いているのよ」
 ブロンズ像の奥のベンチに若い二人。
「時の流れを感じるわね」
「遠近両用眼鏡をやっぱり買わなくちゃ」
「核武装なんて話は無しにして欲しいわ」
 山下公園に戻り『赤い靴はいてた女の子像』を見る。直行便のシーバスに乗って、横浜東口の横浜ベイクォーターへ。
 人気料理家・栗原はるみ考案メニュー提供のレストラン、『ゆとりの空間』は満席。三十分待った。素朴な食材だが、温かくおしゃれで美味。依子は呟いた。
「ぜいたくねぇ、綺麗な水も飲めない子がいるっていうのにね」

タヌキッチョウ

2017-11-03 07:56:02 | 小説
「江南文学」67号掲載

 タヌキッチョウ              

 それは昭和二十年代の、東北のとある農村のことである。
 村道に屋敷林で囲まれた屋敷が並んでいる。みな、米作りを主とした農家で、何処の家も大家族で暮らしていた。村の中ほどに家並みの途絶えた所がある。そこを村人は『タヌキッチョウ』と呼んでいた。その『タヌキッチョウ』を越えると、また家並みが続いている。

 ミユキとサクラ姉妹が両親と住んでいる家は、『タヌキッチョウ』の側にあった。
父が四十八歳、母が三十八歳の時にミユキは生まれ、四年後にサクラが生まれた。高齢出産ではあったが、健康体の母は自宅出産にも関わらず、安産だったとミユキは後に聞いた。

 ミユキは七歳になっていた。三歳のサクラは何事もミユキの後についてまわり、片時も離れようとはしない。ミユキはそれを苦にすることもなく、当然のようにサクラを連れて歩いた。

 村の夏には、隣町に一軒あるアイスキャンデー屋が、自転車にアイスキャンデーの入った箱を積んで売りに来た。チンチンと手に持った鐘を鳴らして来る。木の棒に水色や白色の甘くていい匂いの氷のついたアイスキャンデーだ。

 ミユキは町のキャンデー屋の前を通ったときがある。店から動力の音がして、甘い匂いが道いっぱいに広がっていた。ひんやりとした空気も漂っていて、思わず唾を飲み込んだ。豊かとは言えないミユキの家でも、年に一、二回は買ってくれた。
 それに、町からくる紙芝居が楽しみだった。五円を出すと酢イカの足や水飴などをもらって、紙芝居を見る。何処の姉妹、兄弟も、一人分を分け合って、チビリチビリと食べながら紙芝居を見るのだが、紙芝居屋のおじさんは、咎めることもなく見せてくれた。黄金バットやかぐや姫、鞍馬天狗などが、おじさんの声音で楽しめた。

 そのような村外れの『タヌキッチョウ』を越えて、定期的に町からやってくる老婆がいた。皆が「トウフバァバァ」と呼んでいた。冬場は特に豆腐が売れるようで、週に二回はやってくる。

「ほら、トウフバァバアが来たっ」
 と、母ちゃんが言った。
 ミユキと妹のサクラはぎょっとなって戸口を見た。冬の午後だが、土間の竃の端に西日が差し込んでいるだけで、窓の小さい流し場辺りは薄暗い。しばらくミユキとサクラはじっと戸口に神経を集中した。いつものことだが、七歳になるミユキと三歳になるサクラが、姉妹喧嘩をしているときの母ちゃんの使う手だ。
「こねど、トウフバァバア」
 サクラがミユキにこっそり言う。
「なんじょすたのかなトウフバァバア。確かに来たと思ったけんど」と、母ちゃんが戸口を見て首を傾げた。
 ミユキとサクラは喧嘩を止めて奥の座敷に行こうとしたとき、戸口で大きな声がした。
「トウフバァバアだす。今日はどうだっぺね」 
「あら、丁度良かったがす。うちの娘ら喧嘩ばっかりしているから、連れで行ってもらいたかったんすよ」
 母ちゃんも大きな声で言う。
「だれだぁ、何処に居るそすたら子供は。豆腐の箱さ入れて、連れて行くべぇ」
 トウフバァバアが、背負っていた大きな木箱を上がり框に下して、ミユキとサクラを見た。白内障で白くなった瞳をぎょろりと剥き、大きな口を開けた。前歯のごっそり抜けた喉の奥はぽっかりと洞窟のように開いている。
 サクラがミユキの後ろに隠れた。ミユキも身を縮めた。

「なんだべ、悪い娘は何処かへ居なくなったようだす。今度またお願いすることにして、今日は豆腐一丁貰うべす」
 母ちゃんが紺色の前掛けのポケットから小銭入れを出すと、「なんぼだっぺね」と豆腐の値段を聞いた。
「いつもとおんなじで良がす」
 トウフバァバアが木箱の横板を外すと、中には三段の棚がついていて、長いままの豆腐が収まっている。棚ごと引き出すと、目分量で一丁分を切り、母ちゃんの差し出した鍋に入れた。鍋の水が、ポチャリと音を立てた。

 トウフバァバアが「んでは、またお願いすます」と、また目を剥き大きな口を開けて、「がははははぁ」と笑った。
その日の夕食は、豆腐の入った美味しい味噌汁であった。
ミユキとサクラの耳には、トウフバァバアの笑い声が残っていた。


 稲刈りが終わり畑の豆の収穫が終わると、母ちゃんが納屋でする仕事が多くなる。外では木枯らしが吹き、電線が鳴いている。北上川の水面を渡ってくる風は冷やされ、母ちゃんの手に皸を幾つも作った。それでも、母ちゃんはものともせず、一生懸命仕事をする。丸々と着膨れて顔を真っ赤にしているが、寒いなどとは言わない。

 今日も母ちゃんが納屋に居た。
「熱い。まだ、熱いなぁ」
 母ちゃんが、大きな釜で炊いた湯気の上がっている大豆に触り、温度を確かめた。
 納屋の真新しい薄縁を広げた端に、何処からか借りてきた機械が置いてある。母ちゃんが、茹でた大豆を上部の注ぎ口に入れる。手が豆の暑さで真っ赤だ。ミユキとサクラは綿入れ半纏の袖に手を引っ込め、背中を丸めて観ての手伝いだ。

 母ちゃんが機械の横に付いている丸いハンドルを回した。煮豆が潰れて直径十センチもある、太いうどんの様な形になって出てくる。それを揉み解しながら薄縁に広げる。まだ湯気が立っている。その潰した豆に、麹屋から届いた長方形の箱から、豆と同じ量の麹を豆の上に散らすと、薄縁の端に膝を着いた母ちゃんが、上体を左右に動かしながら、塩を振り、揉むように混ぜていく。
「うまい味噌が出来るよ。うまくなれ、うまくなれ」
 母ちゃんが唄うように節をつけながら混ぜる。時々、鼻水を啜ったりする。
「鼻水入りだから、特別うまくなるよう」と母ちゃん。
 サクラが唇をへの字にしてミユキの目を見た。ミユキは眉を大きく顰めて、同じように唇を歪めた。

 時間をかけ念入りに混ぜると、四斗樽に入れる。
「あとは、美味しくなるのを待つだけだなぁ」
 母ちゃんが腰を伸ばして「やれやれ」と言った。
 味噌作りは毎年この時期にする。母ちゃんが何もかも一人でする。ミユキとサクラは見ているだけだ。

 四斗樽の以前作った味噌を食べ切ると、味噌の味や香りが浸み込んだ空き樽に白菜を漬ける。真冬の薄氷の張った樽から出した白菜の漬物は、味噌の旨味を取り込んで、いくらでも食べられるほど美味しいのだ。漬物小屋には、四斗樽が何本もあって、交互に使っているようだ。

「おや、雪が降ってきた。ノノ岳山から入道坊主も下りて来るんだろうな」
 母ちゃんが納屋の戸口から空を見上げた。ノノ岳山は北上川を挟んだ川向こうにある、富士山を小さくしたような形の山だ。
「かあちゃん、ヌードボンズくるって?」
 サクラが大きく目を見開いて聞いた。ミユキは口を真一文字に結んだまま、母ちゃんの顔を見る。
「んだ。今夜は積もるべ」
 サクラが母屋へ戻る母ちゃんを追いかけながら、ミユキに聞いた。
「あねちゃん、ヌードボンズってしってっか」
「ううん、知らね」 

 二十センチほどに積もった雪に朝日が眩しい。母ちゃんが言っていた通り、夕べのうちに降り積もっていた。


 入道坊主がノノ岳山から下りてくると、母ちゃんが言っていたことを思い出したミユキは、どんな姿や顔をしている生き物なのだろうと思った。けれど、以前、誰に聞いてもしっかりと見た人が居ないらしく、妖怪の仲間だろうと言うだけだ。

 勇気を出して、入道坊主の存在を知るモノを探すことにした。サクラが起きてくると面倒なので、コッソリ歩き出した。家の横は『タヌキッチョウ』だ。真っ白な畑が続いている。雪の上に小鳥たちの足跡が、チョンチョンと続いている。狢か鼬らしい丸っこい足跡もあるだけだ。

『タヌキッチョウ』の畑の次は耕太郎さんちの屋敷だ。屋敷の端に聳えている大きな杉の木が、白く化粧されている。屋敷中で一番高いし、村でも一番高くて、いつ見ても大きいなと思う。

 杉の梢に近い枝が風も無いのに揺れた。雪が舞い散る。真っ白な丸い頭をした小さな子供のような姿が、杉の葉の間から見えた。口の回らないサクラの言うヌードボンズに違いない。頭の部分がクルリと回ったが、髪の毛は無く、耳や口、目鼻も無くて白く丸いままだ。白い両手が杉の葉を掴んで、枝に跨って足をブラブラとさせている。

「母ちゃん、サクラぁ、ヌードボンズだぁ」と、叫びそうになった時、スルスルと真っ白い子供のような体が、下へ移動する。それが、途中からまた杉の天辺まで登った。そして何度も、下りたり登ったりを繰り返した。

「ウーッ、ワンワンワン」と、耕太郎さんちのシェパードのジョンが突然吠え出した。母ちゃんの腿に噛み付いたことのあるシェパードだ。あの時は、「飼い主家の味噌を塗ると傷が早く治る」なんて、耕太郎さんが丼に味噌を持ってきた。「そんな物で治るわけ無いだろ」って、母ちゃんはあとで言いながら、味噌汁にしたっけ。あれ以来、ミユキは犬が怖くなったのだ。

 ジョンの吠え方が激しい。真っ白い小さな体がしばらく動きを止めていたが、瞬きをする間もない速さで下りてきて、塀に移り、そして畑に下りたと思う間に川の方向へ姿を消した。それは「あっ」と言う間の出来事であった。

 ミユキは、きっと足跡が有るに違いないと思った。雪に足を取られながら耕太郎さんちの塀に近づき、川の方向へ向かった雪の畑に目を凝らした。小鳥や狢や鼬の足跡以外は何も残ってはいない。真っ白な、顔の無い子供みたいな姿の痕跡は一つもなかった。


 今日も雪が降っている。
 近所から頼まれ、父ちゃんが炉端で鋸の刃を研いでいる。近所の誰も、鋸の目立ての仕方を知らないらしい。胡坐をかき、膝に着なくなったシャツを広げ、膝の前に、磨るとき鋸が動かないように、浅く溝を掘った角材を置き、鋸の背を差し込んで固定する。

 立てた鋸の歯に左手を添え、鋸の刃山の一方を、鑢を前後に引いて研いでいく。研ぎ終わると、鋸を逆に固定しなおし、もう一方の鋸の刃山を研ぐのである。木にまつわる仕事を長年してきた父ちゃんには、造作も無いことだ。

 父ちゃんの座っている後ろの壁際に、ジョッキー・ブーツが置いてある。ずうっと以前からあるが、父ちゃんが履いたところは見たことはない。
母ちゃんが誇らしげに語ったことがある。父ちゃんは、若い頃に騎手をしていたそうだ。履かなくなって何年経っても捨てがたく置いてあるようだ。記憶を辿れば、膝のところまで膨らんで、脛から足首まで細いズボンを履いていたことはあった。父ちゃんのいつまでも細身の引き締まった姿は、その名残のようである。その血を受け継いだのかもしれないが、ミユキは馬が好きで、颯爽と乗りこなすことが夢である。


 納屋で藁仕事するのは、農家育ちの母ちゃんが殆どだ。

 俵編みの機械は、脚をつけた横木を渡しただけの単純な作りだ。横木の上部に溝があって、俵の幅の四箇所に、縄の巻いた金具が横木の両側に下げてある。上部の溝に藁を渡して四箇所の錘の金具を交互に下げなおして、縄で編んでいく。莚を編むのと同じだ。
「母ちゃん、おもしろい話聞かせて」
 サクラが言うまでも無く、ミユキも待っている昔話。その中には、普段語ることの無い父ちゃんとの、若い時代のことも含まれている。

「入道坊主の話か、それとも」
 ミユキは首を振った。入道坊主の痕跡を見つけられずに、母ちゃんの話が本当だったと思うし、コッソリ雪の中を探したのを知られたくなかった。
「うんだらば、今日は鍋島の猫騒動にするべか」
 母ちゃんは、作業の手を止めることも無く話し始めた。

 何回も聞いた鍋島の化け猫騒動だが、一番怖いのは、化け猫が油を舐めるくだり。いつも優しくて温和な母ちゃんが、お産の度に抜けて、歯が疎らになった口を、目一杯広げて猫の形相をする。そして、鍋島家の家臣団に退治されるときの猫の鳴き声が、ミユキとサクラは身震いするほど怖い迫力なのである。

「母ちゃん、ホントにホントの話なの?」
 ミユキとサクラは今日も身震いが止まらない。  
 虎落笛が一段と高くなった。雪は真横に飛ぶ。
 それでも、ミユキとサクラの心は温かい。
 母ちゃんが休めた手を懐に入れた。暫くじっと暖めると、ミユキとサクラの片方ずつの頬に、暖まった手を当てた。
「きゃーっ、あったけぇ」
「んだぁ、あったけぇなぁ」

『タヌキッチョウ』の冬の午後のことであった。