紫陽花記

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小説
ショートストーリー

石榴

2019-05-16 07:12:45 | 風に乗って(午後のひと時)
石榴


 清美は、井戸端の石榴の実を一つもぎ取った。蓋のされた井戸に突き出した息抜きのパイプに触れると、白くむくんだ祖父の顔が浮かんできた。
 清美が小学生になったばかりの年、家の周りに、数人の警察官の姿があった。
「今日、お母さんは何をしていたかね」
 祖父の死を告げた男が聞いた。
 祖父は奥の間に横たわり、白髪が濡れて枕を濡らしていた。
 母の話では、母が畑から帰ってくると、井戸の枠に祖父の袖無し半纏が畳んだまま掛かっていた。不審に思って井戸を覗いて見ると、水面に広がった白髪が揺らめいていた。驚いた母は釣瓶の竿に祖父の着物を引っ掛けて、引き上げたという。
 警察に届ける前の行動は、第一発見者の母の立場を悪くした。
 再三の事情徴収にも母の証言は変わらず、祖父の死は、単なる入水自殺となった。

 今年も石榴が色づいた。
 母もあの頃の祖父の年齢になりつつある。
 額に刻まれた皺は、長年の苦労を物語る。
 物静かな母の背に、清美は話しかけた。
「おじいさんの二十三回忌がくるわね」
「そうだね。可哀想なことをしたけど、仕方なかったのよ。我慢できなかったの」
「えっ、お母さん。今、なんて言ったの」
「いや、なんでもないわ。もう過ぎたことよ」
 清美の心に疑問となってくすぶり続けた思いがあった。風呂桶の水を抜く音と、青ざめた母の額に噴出していた汗と荒い息。
 早くに亡くなった祖母と父の代わりに、働き詰めた祖父と母の間に、言い争いの声を聞いたことは一度も無い。

日光浴

2019-04-25 06:48:25 | 風に乗って(午後のひと時)
日光浴 




「皮膚を少し取りますね」
 ポニーテールの女医が、銀色に光る小型の鋏をパチリと鳴らした。良介爺は、女医の言葉に合点のいかないまま診察台に横になった。

 看護婦が良介のシャツを捲り上げると、首根っこと腕を、グイと押さえつけた。女医の冷たい手が肩甲骨の所で止まり、背骨のすぐ脇に、チクリと痛みが走る。
「いてっ。先生、な、何を」
「皮膚を取って良く調べるのです。少し我慢をして下さい。もう一か所取りますよ」
 女医の鋏は容赦なく、かさつく良介の尻の皮を抓み切った。切り取った皮膚を小さなガラスに載せると、顕微鏡を覗いた。

「疥癬ですね。皮膚につくダニのようなものです。塗り薬を上げますから、一日一回全身に塗って下さい。寝床や衣類を清潔にし、なるべく日光浴をするようにして下さい」
“疥癬”という名に懐かしくもあり、憎くもある。終戦間近、脇腹の痒みに我慢できず、動いたその時の往復ビンタが思い出される。

 良介爺は、塗り薬を手に尻をさすった。
 話を聞いたお秀婆は、眉をしかめた。
「いやだね。何でそんな皮膚病なんぞに。さぁさ、今日はお天道様も出っ放しだから、早速日光浴をしなさいな」
 庭に出ると、まずシャツを脱いだ。日差しは強く、見る間に、肌に赤味がさした。
「お前さん、お尻の方も良く干した方が」
「気持ちいいものだなぁ、日光浴は。そうだいっそのこと、水虫も退治するか」
 靴下を脱ぎ素足になると、ついでにズボンも下着も脱ぎ捨てて、両手を広げた。
「お秀、お前も一緒にどうだ」
 縮んだ男根を取り巻く叢が、風に揺らめいた。

センチメンタル・ジャーニー

2019-04-05 07:42:17 | 風に乗って(午後のひと時)


センチメンタル・ジャーニー
  

 少し力を入れて握ると、頼りなく握り返した。横を向いた顔に血の気が無い。

「兄貴、あの頃は二人とも若かったね。休みになると、兄貴について上野の山に行ったよね。最初は何をしに行くのか分からなかったけど、一日がかりでガールハントするんだった。何回目かに西郷さんの前で、二人連れの女の子に声かけて。何でも、岩手県から出てきて、何処かの縫製工場に勤めていると言ったよね。二手に分かれてデートしたけど、兄貴と行ったのはおしゃべりな娘で、俺と一緒にお茶を飲んだのは無口な娘だった。俺も田舎から出てきたばかりだから、一言しゃべるものならすぐズーズー弁が出てしまうし、頭の中でセリフを言ってみてから、口から出したものだった。兄貴、苦しいのかい。頑張ってくれよ。俺に会いたいと言っているって、奥さんから連絡もらったけど、ずい分長い間ご無沙汰したね。兄弟の居ない俺には、仕事の先輩の兄貴が本当の兄弟だと思っていた。許してくれよね。兄貴の恋人を横取りしてしまった俺を」
 閉じた目尻から細い雫が流れた。枕元のティッシュを取り当てると、瞬いた眼が笑った。

「兄貴覚えているかい。オートバイを買ったから後ろへ乗れって言われて、池袋から後楽園に向かった時のこと。護国寺の所で、いやぁ、あの時は怖かった。路面電車の線路にタイヤがはまると転びそうで。それにカーブの時、兄貴が左に曲がる時は左に体を倒すのだけど、俺は怖くて、逆に右に倒したものだった。その度に兄貴に怒鳴られたものだったね」

 窓の外に、夜の帳が下り始めた。
 三十年もの昔話に和んだ顔が、コクリと傾いて静止した。
「兄貴、……少し早過ぎやしないか」

母の意志

2019-03-30 14:39:37 | 風に乗って(午後のひと時)

母の意志


 母は無意識に、自由になる左手で、額の髪を撫で上げた。
「オラノカラダ……オガスグナッタナヤ」
 私が駆けつけたその翌日、四十度を越していた熱が下がり、やっと荒い息が治まった。頭の左半分に出血があったため、右半身の障害と、言語障害が現れていた。
「オラ……カ…ラ…ダ…オガスグナッタ」
 不自由になった言葉で、自分の体が思うようにならないことを何度も繰り返した。
「……しかたがないわ」
 私は母の右手をさすった。水分の少なくなった皮膚は、カサと音を立てるほど頼りなく、失望の色の深くなった唇を、乾かしていった。
 四日目、担当医の勧めでプリンを買った。
 消化の良い物を食べさせてみてください。落ち着いたので食べられるはずだと言う。
 頭半分の出血は、左の視力をも奪っていた。
母は、左の目の前を左手で払った。瞳は澱み、蜘蛛の巣がかかったようになった。
 私は声をかけながら、なんとかプリンを食べさせようと試みた。
 小匙半分のプリンを口に落とし入れたとき、母の御腹が「グーッ」と鳴いた。
 二、三回口を動かした母は、左手で口を塞ぐと、向こうを向いた。それ以来、どんなことをしようとも食べようとはしない。担当医も看護師もこんなはずはないと言った。

「あんたっ、ワタシに食べさせないのっ」
 廊下を挟んだ病室から、痴呆症の老婆の声が響いてきた。私は母の顔を見た。痛みがあるのか、頭に左手を当てている。

 倒れて二十一日目。私は母の葬儀に向かうため、東北新幹線に乗った。

五箇山

2019-03-19 20:41:23 | 風に乗って(午後のひと時)

 五箇山


 立川は、一息つくと、椅子に倒れるようにかけた。体中に、異常な疲れを感じる。
 窓際の机には、白い布が掛けられ、その上に堤拓司の臓物が並んでいる。
 献体したいと言い出した堤拓司とのやりとりを、鮮明に思い出す。

「全部終わるには二年くらいかかりますよ」
「かまいません。身寄りが居るわけじゃなし骨もいらないですよ」
「でも」
「出来れば灰にして、故郷の五箇山に持っていって撒いてくれればいいんですけどね」
「献体は医学生には必要ではありますけど」
「なぁに死んでしまえば、後はどうでも」
 堤は模範的な患者ではあったが、手遅れ状態での治療は、時間稼ぎに過ぎなかった。

 立川の疲れは、外科医師のそれではなく、一人の息子の悲しみであった。
 堤拓司のカルテを開いたとき、今はなき母に聞いていた、自分との因縁に驚いた。

 二年くらいの間に、堤の体は切り刻まれる。
 考えてみれば立川も、名も知らぬ人の体を切り刻みながら、勉強したのだ。

 死んでいった堤のために。立川は思い切るように立ち上がった。
 仲間の医師たちの手捌きは、非常にも思える。それは、長い時間だった。

 雪の五箇山は、初めて訪れた旅人には厳しい。車から降り立った立川は、見る間に全身を白く包まれてしまった。
 コートの中の、スーツの内ポケットから、白いハンカチを取り出した。広げると、学内から密かに持ち出した前歯が一本。
「灰にして撒くわけにはいかないから。せめて故郷に戻してあげたい」
 雪に小さな跡を残して、前歯が消えた。