孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

ルワンダ大虐殺から20年 今、ルワンダの人々の心にあるものは・・・・

2014-04-06 20:51:10 | アフリカ

(民族融和を願うトーチ「記憶の炎」を運ぶ男女。虐殺から20年となる今年、1月から3カ月かけて、国内全土で人々がトーチをリレーする行事が開かれています。トーチは4月7日に首都キガリに到着し、カガメ大統領による記念セレモニーが行われます。 “flickr” Remember Unite Renew https://www.flickr.com/photos/kwibuka/12968436934/in/photolist-kKYCuf-kKZ4uf-kKYn4q-kKXqYk-kKWxYr-kKXApe-kKYKaE-kKXxvD-mxr5VE-kKWkmT-kKZ8qw-kKY8QF-kKZkVw-kKY7WB-kKXkdV-kKY2RX-kKZxoG-kKXeWn-kKXRk6-kKWoMR-kKXZgB-kKXege-kKZhVd-kKZ9V5-kKXbJ8-kKZweY-kKXgkp-kKWX6D-kKXhXv-kKYQiL-kKYN1u-kKX5vM-kKXxCn-kKXtrM-kKYM75-kKWRcK-kTP4tV-kTQ2iG-m2NaTJ-m2UWuz-mo8PE7-m2UpdC-m2VD39-m2VrrT-m2QihY-mo8XkC-m2XAej-m2PbdQ-m2Mjoa-m2LYtx)

20年前の1994年4月7日、アフリカ中部ルワンダで、多数派のフツ族と少数派のツチ族の対立から約100日の間に80万~100万人が虐殺されるというジェノサイドが起きました。

それまで隣人として暮らしていた者同士が殺しあうという点で、人間の心の奥に潜むものを感じさせる悲劇でもあります。
ただ、住民同士がやみくもに殺しあった訳ではなく、このジェノサイドを準備し、扇動した勢力が存在します。

“ルワンダ虐殺はしばしば無知蒙昧な一般の住民がラジオの煽動によってマチェーテ(なた)やクワなどの身近な武器を用いて隣人のツチを虐殺したというイメージで語られているが、これは適切な見解とは言い難い。ジェノサイドへ至るまでには、1990年以降の煽動的なメディアプロパガンダや民兵組織の結成、銃火器の供給、虐殺対象のリストアップなど、国家権力側による非常に周到な準備が行われていた。”【ウィキペディア】

また、現地の人の「20年前、誰も止めてくれなかったのになぜ今、話を聞きたいのか」【4月6日 朝日】という言葉に見られるように、大虐殺を傍観するだけであった国際社会、国連PKOの在り方も問われた出来事でした。

虐殺から20年ということで、いくつかの記事がみられますが、どれもルワンダで今を生きる人々の苦悩、トラウマ、不安、明日への期待・・・などを切実に感じさせます。

****隣人は家族のかたき、大虐殺から20年 ルワンダ 和解への道*****
ルワンダのフレデリック・カジグウェモさん宅の周辺には、同国農村部の典型的な風景が広がっている。粗末な日よけの下で牛が草をはみ、キャッサバが天日に干され、女性たちが籠を編むそばで子どもたちが遊んでいる。

しかし、20年前の大虐殺で80万人の命が奪われたこの国に暮らすカジグウェモさんには、典型とは外れる点が1つある。過去に近隣住民を殺害した経験があるということだ。

「融和の村」に住むカジグウェモさんの妻は、隣に住むセシル・ムカガサナさんと一緒に籠を編んでいる。
カジグウェモさんが殺したのは、他でもないこのムカガサナさんの家族だった。
この「和解の村」では、許すことさえできるなら無料で住宅提供を受けられる。

ムカガサナさんは軒先に腰掛け、草に色とりどりの糸を結び付けては、丸く編んで籠にしていく。珍しい物を好む観光客用の土産物だ。ムカガサナさんは語る。「ここに住むのは最初はつらかった、この女の人の夫が私の家族を殺す手助けをしたのだから」

■「罪の意識は感じなかった」
かつてルワンダでは、異なる民族同士も比較的平和に共存し、民族が異なる男女間の結婚も珍しくはなかった。

しかしカジグウェモさんによると、「政府がフツ人に対し、ツチ人が再びフツ人を支配しようともくろんでいるため、ツチ人を殺して財産を奪わなければならないと教えていた」という。
「政府はわれわれに銃を与え、殺し方を教えた」が、カジグウェモさんの一団は銃ではなく「なたとやりを使って」7人を殺害した。

「罪の意識は感じなかった。政府の期待に沿ったのだから誇りに思った。だからもう一度やった」。「殺しがうまい者」もいたというカジグウェモさんの一団は、2度目の襲撃でムカガサナさんの家族2人をおので斬り殺した。

ルワンダ大虐殺の後、従来の裁判所では対応しきれず、伝統的な地域共同体での「ガチャチャ」裁判が開かれ、10年以上かけて200万人が裁きを受けた。カジグウェモさんもその1人で、殺人行為を認めて謝罪したため減刑された。

「謝る前は心が落ち着かなかった。ふとした時に自分が殺した人たちの顔が目の前に浮かぶこともあった。でも今は見えなくなった」

■虐殺のトラウマ 次世代にも
レイプ被害者やその子どもたち、また殺人犯の子らへのカウンセリング活動を行う団体「ベスト・ホープ・ルワンダ」を設立したデュドネ・ガヒジガンザ氏は、ガチャチャ裁判の不十分さを指摘している。
「確かにガチャチャは正義をもたらすことに寄与し、犯罪者を裁きにかけてきた。しかしわれわれには和解が必要だ」

政府の平和和解委員会のジャンバティスト・ハビャリマナ事務総長も、「大虐殺の後には、30万人の孤児と夫を失った50万人の女性が残された」として、「これらの人々が普通の生活を取り戻すのは容易ではない」と認めている。

ベスティン・ムカンダヒロさんは、首都キガリ郊外のバナナの木が立ち並ぶ路地に多数見られるれんが造りの家の1軒に暮らしている。性的暴行を受けて妊娠し生まれた娘について心の折り合いをつけるのに、何年もかかったという。

13歳でレイプされ妊娠が発覚。自殺することもおなかの子を殺すこともできないと覚悟したムカンダヒロさんだったが、「娘が生まれてみると、この子とは暮らせないと思った。顔を見るとレイプのことを思い出してしまうから」
その上近所の人たちからは、「いまわしい子」を連れてきたとして「売春婦のような」扱いを受けたという。

市民を対象にしグループカウンセリングに力を入れた和解プログラムを通じて、世間に広まった汚名こそすすがれてきたものの、自らの過去を告白することで、大虐殺の何年も後に生まれた人々が大虐殺の追体験を強いられるという問題が生じている。

ガヒジガンザ氏は、「トラウマが現世代から次の世代に受け継がれかねない」と警告している。

■今も残る悲しみ
ルワンダは100日間に及ぶ大虐殺が始まったあの日から、今月7日で20年を迎える。しかし人々の頭上には今も恐怖と悲しみの暗雲が垂れ込め、いつもどこか心を解放しきれずにいる。
今日では出身民族を問われることはなくなり、身分証明書にもその記載はない。

1994年のおぞましい出来事は「ツチ大虐殺」と呼ばれている。その呼称の陰で、フツ人の穏健派も殺されたことは忘れられ、当時反体制派だったポール・カガメ現大統領が政権を掌握する際にどれほどおびただしい血が流されたかも曖昧になっている。

19歳のイベットさんは、「私たちは民族のことは話さない。話すのは昔の事実だけ」として、「私たちの世代は、過去に起こったことを絶対に二度と起こさないよう、多大な努力をしなければならない」と話している。【4月6日 AFP】
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****ルワンダ、苦しみ抱いて 虐殺から20年****
アフリカ中部・ルワンダ南部の小さな町ニャマタ。美しい丘が連なり、パピルスが茂る湿地が広がる。中心部の小さな教会に、血で染まった祭壇の布や衣服が保存されていた。20年前、ここに避難したツチ族の住民約2千人が殺害された。(中略)

教会の近くに住む女性シャンタルさん(46)は、自分の集落が民兵の襲撃を受けた4月7日の朝を鮮明に覚えている。前日、フツ族の大統領が乗った飛行機が撃墜されたのを機にツチ族への虐殺が始まった。ラジオが盛んに殺害を促していた。

シャンタルさんは「20年前、誰も止めてくれなかったのになぜ今、話を聞きたいのか」と記者に言った。「悪魔が降りてきたとしか思えない」。少しずつ語り始めた。

シャンタルさんは家族と離れ、2カ月前に生まれた双子を抱えて教会に逃げ、近くの湿地で民兵に捕まった。双子の一人は目の前で釘のついたこん棒で殴られて死んだ。もう一人は一緒に逃げた9歳の妹が抱え込んで守った。妹は頭上からナタで切られて死んだ。

シャンタルさんは、10人以上の民兵から次々と性的暴力を受けた後、全身を切られた。暴行の末に妊娠し、翌年に女の子が生まれた。夫は「どういうことがあっても自分の子だ」と言った。現地語で「父の子」を意味する「ウワセ」と名付けた。

19歳になった学生ウワセさんは6年前、出生の経緯を聞いた。「何度も死のうと思った。しかし、両親の愛情を考えると前に進もうと考えた」という。

「アフリカの奇跡」と言われる経済成長を遂げるルワンダ。時を経てもなお、人々の心に傷が深く残っている。【4月6日 朝日】
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****元民兵「政府腐ればまた起きる」 ルワンダ虐殺20年****
キガリ郊外に住むフツ族のエマニュエルさん(44)は20年前の4月、虐殺が始まると民兵組織インテラハムウェに入った。2日間の訓練後、自動小銃を手にツチ族住民の襲撃に加わった。

「やらなければ自分がやられていた」。ツチ族だけでなく、穏健派のフツ族住民も殺されていたからだ。
検問で、赤十字のトラックに乗せられた遺体の下に隠れている男女3人を見つけた。ツチ族を示す身分証を持っていた。「上官から『ゴキブリは片付けろ』と言われた。撃ち殺すしかなかった」。3人が命乞いをする姿や声が、忘れられない。

約3カ月後、少数派のツチ族が主体のルワンダ愛国戦線(RPF)が全土を制圧すると、ザイール(現コンゴ民主共和国)の難民キャンプに逃げ込んだ。2年後に帰国すると逮捕され、投獄。2005年に釈放された。

「殺害を後悔している。だが、政府や社会が仕向けたら一般人は逆らうことはできない。政府が腐れば(虐殺は)またいつでも起きる」

キガリに住む運転手エリックさん(42)は、父親がフツ族で母親はツチ族。父親は虐殺に協力しなかったため処刑された。「当時の苦い思いは、皆が持ち続けている。今は皆、国の発展に忙しい。だが、政治次第でまた起こらないとは言えない」と話す。

旅行業のサガフツさん(50)はツチ族で、両親を含む親類83人が殺された。医師だった父はけが人の手当てのため病院へ行く途中、知り合いに殺された。自身は建設中のトイレ用タンクに2カ月余り隠れて生き延びた。

「民族は憎まない。だが、家族を殺した者を許す気持ちにはまだなれない」。家族の遺影は携帯に保存している。
「虐殺を目の当たりにした我々の世代は病んでしまっている。しかし前に進もうとしなければ、トラウマに押しつぶされて気が狂ってしまう」。長女(21)が祖父の遺志を継いでフランスの大学で医学を学ぶ。「次の世代が希望の未来をつくってくれる」と語った。

 ■進む経済発展、続く強権政治
1994年7月、RPFが全土を掌握することで虐殺は終わった。以来、RPFは政権の座にあり、司令官だったカガメ氏が現大統領を務める。

民族融和を進める一方、外国からの投資環境を整備し、年率8%前後の高い経済成長で急速に復興している。カガメ氏は「CEO大統領」とも言われ、小中学生にパソコンを配る「1人1台」政策も導入した。欧米諸国は「アフリカの奇跡」と称賛する。

99年に発足した「国民和解委員会」の報道担当者は「強いリーダーシップ、政治的意志が民族間の融和の成功の鍵となった。同じ『ルワンダ人』の意識が根付いてきている。国内の至る所に警察官や協力者がいて、紛争の芽を見逃さない」と話した。

一方で、紛争再燃への危惧を背景に、野党勢力への弾圧が指摘され、言論統制によってカガメ氏は「強権的だ」との声も出ている。

地元新聞社の40代の幹部は「例えば政府の批判記事を書いたら『民族分離主義者』として逮捕される。批判記事を書ける記者は逮捕されたか、国外に逃げた」と話す。「融和にはもちろん賛成だが、もはや民族の問題ではなくなっている。政府に都合の悪い調査報道は命に関わる」と語った。

野党「ルワンダ民主緑の党」のフランク・ハビネザ代表はRPFの党員だったが、強権的な方針に疑問を感じて離れた。「虐殺後の1年間は強権的な体制はやむを得なかったと思う。だが今なお、ルワンダには民主主義、表現の自由はない」と訴える。

09年に政党を立ち上げ、翌年に副代表が何者かに暗殺された。自身も危険を感じ2年間、国外に逃れた。
「民主主義なしに欧米が奇跡と呼ぶ発展の持続性はない」

 ■アフリカ、相次ぐ住民対立
ルワンダと同様の悲劇は、今なおアフリカ各地で続いている。
中央アフリカ共和国では昨年3月に反政府勢力が首都を制圧し、無法状態に陥った。イスラム教徒とキリスト教徒の間で殺害、略奪、性的暴行が横行した。

だが、資源開発も進まないこの国は耳目を集めてこなかった。テロ組織の温床になることを恐れた米仏を中心に議論が深まり、昨年12月にようやく、国連安保理が軍事介入を認める決議を採択した。

また、南スーダンでは政治的な対立から民族感情があおられ、昨年12月から2大民族間の紛争に発展した。100万人以上が国内外に逃れ、和平の道筋は見えない。駐留する国連部隊の兵士や住民が基地内で殺害される事件も起きている。【4月6日 朝日】
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上記記事にもあるように、ルワンダはカガメ大統領のもとで民族融和と「アフリカの奇跡」とも称賛される経済成長を実現し、国内外から高い評価を得ています。

ただ、反対を許さない強権的との批判もあります。
また、隣国コンゴにおけるツチ系反政府勢力への関与も疑われています。

****南アフリカ:亡命のルワンダ元高官襲撃が続発****
アフリカ中部ルワンダから南アフリカに亡命したルワンダ当局元高官を狙った襲撃とみられる事件がヨハネスブルクで相次ぎ、ルワンダ政府の関与が取りざたされる事態となっている。

南ア政府は先週、在南アのルワンダ外交官らを国外退去処分とした。ラデベ法相は12日、ルワンダの外交官がこれらの事件に関与したとの見方を示唆し、「断固たる警告を送る」と強い口調でルワンダを非難した。

今年1月、ヨハネスブルクの高級ホテルの客室で、ルワンダ情報機関の元トップで南アに亡命したパトリック・カレゲヤ氏が窒息死した状態で発見された。殺害されたとの見方が強い。

さらに今月になって、ルワンダ軍の元参謀長で亡命中のカユンバ・ニャムワサ氏のヨハネスブルク市内の自宅が武装集団に襲撃された。ニャムワサ氏と家族は当時留守で無事だった。同氏の殺害を狙ったとみられる襲撃は3回目で、2010年には腹部を銃で撃たれている。

両氏とも以前はカガメ・ルワンダ大統領の側近として知られたが、後に政治手法などを批判し、南アに亡命した。

ルワンダは1994年、多数派のフツ人が少数派のツチ人ら約80万人を虐殺。その後、カガメ氏らが率いるツチ人主体の軍事組織が情勢を沈静化させた。民族和解の進展と経済成長の実現という業績で国際的に高く評価されるカガメ氏だが、一方で野党やメディアへの弾圧も指摘され、強権支配と批判されている。

南ア政府は先週、ルワンダ外交官3人などを国外退去させ、ルワンダは報復として在ルワンダの南ア外交官6人を追放した。ルワンダ政府はいずれの事件についても関与を強く否定している。【3月15日 毎日】
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