夏の日に誓ったリベンジを果たすためやって来ました
松山城。
うむ。改修は終わっているようだ。
前回ご紹介の通り、賤ヶ岳七本槍の一人、加藤嘉明がその完成を待たず
に会津に移封となり、その会津から移封されてきたのが蒲生忠知であった。
思えば秋に会津を訪ねたわけで、
今回、蒲生忠知の足跡をたどったような気がするなあ・・・。
改修で葺き替えられたようで、大天守の瓦だけが白っぽく見える。
正面が大天守で左が小天守。
呼び分けられてはいるが 大天守 と言うほど大きさは感じられない。
知人の一人が 「何か期待はずれな・・」 と感じたらしいが
無理もない。
蒲生忠知は在城7年で他界、子がなかったため断絶しとなってしまう。
松山は一時大洲藩預かりとなった後、寛永12年に松平定行が
入封し、15万石の親藩として明治まで続くことになる。
この定行が当初五層であった大天守を三層に改修してしまったのだ。
松山城本丸は、大天守・小天守・隅櫓を渡り櫓で繋いだ連立式であるが、
大天守を五層から三層に縮小したため、他の構造物との高さの差が
縮まってしまい、メリハリの弱い外観になってしまったのだと思う。
親藩として幕府に二心のないことを自ら示したか、
親藩であればこそ、幕府にとやかく言われる前に規模を縮小したのか。
いずれにせよ、当初の五層大天守は現在とは違う場所にあったとも言
われており、是非とも見てみたかった。
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