山本馬骨:たそがれジジイの呟きブログ

タイトルを変更して、これからは自分勝手なジジイの独り言を書くことにしました。

ジイジの義務と責任 

2017-01-15 22:17:32 | ジジババ世代の話

久しく孫たちのことを書かない内に、上の孫(男児)は2歳半を過ぎ、今春3月には幼稚園の年少組に入園の予定。そして一昨年9月に生まれた下の孫娘も早や1歳を過ぎてヨチヨチ歩きをしています。今の時代では、同じ屋根の下に孫たちと一緒に住んでいるというのは、希少現象なのかも知れません。今のところジジババは2階に住んでいるので、時々孫たちが走りまわったり、大声を上げているのが階下から聞こえてくると、ああ、やっているな~、とその親たちの苦労などは無視して、何だか嬉しくなってしまいます。

ところで、自分のことを振り返って見ると、子どもの頃爺さまと遊んだ経験が全くないのです。誰でも二人の爺さまがいるはずなのですが、私の場合は物心がつく前に二人の爺さまはもうこの世にはいなかったのです。父方の爺さまは、父が幼少の頃に亡くなっており、これは父でさえもその顔をよく覚えていなかったと聞いています。又母方の爺さまも、自分が生まれる前に亡くなってしまっていたので、爺さまの話を聞いたことがありません。祖母二人には、その分まで可愛がって頂いたので、祖父がいなくても格別寂しいという思いは無く、居ないことにはすっかり慣れてしまっていて、そのまま育ってしまったというのが実情なのです。

ところがここへ来て自分がジサマになっているのに気が付き、孫たちとの関係を身近に感じている内に、さて、このジサマは孫たちに対して一体どのようなジサマであるべきか、などということを思うようになりました。どんなに頑張っても孫たちが成人式を迎える頃まで生き続けるのは無理だろうと思います。それは自然の成り行きに任せるしかないことは解っているのですが、それでも孫たちが大人になった頃に、ジサマの存在や記憶が孫たちの頭から全て消え去ってしまっているとしたら、これは何とも哀しく残念なことです。

ということは、今の内に何か印象に残る強いインパクトを与えておく必要がある、とそう思ったわけなのです。怖い印象が良いのか、徹底的に優しい印象が良いのか、今のところはそのどちらでもなく、中途半端な状況となっています。子ども心に強く残るというような思い出は、普段から何かインパクトを与えようとして出来るものではなく、これはもうその時々の状況に合わせて反応するしかないのだと、この頃は思っており、そのチャンスが到来するのを待っている状況です。

上の孫は、たどたどしいながらも、ようやく会話が可能になりつつあり、もう少しことばが話せるようになったら、一緒に遊ん楽しい思い出をたくさん作ってやろうと待ち構えています。今のところ考えているのは、自然界の中での遊びを考えており、夏の昆虫採集や魚釣り、ザリガニ採り、などなど、家の中でTVなどから得るよりもずっと面白い、その面白さを伝えられればいいなと、手ぐすね引いて待っています。

下の孫娘には、春になって暖かくなったら、上の孫にしていたのと同じように、自転車に乗せて市内のあちこちを連れ回してやろうと思っています。自転車はくるまとは違う風を感じることが出来るので、小さい子どもたちには大人とは違った発見と喜びの世界があるようです。これは外孫の、早や高校生となっている孫娘が幼少のときにも体験しているので、どの孫にもその楽しさを味わわせてあげたいと思っているのです。

今のところ、二人の孫たちに印象的に残っている事柄といえば、恐らく彼らが生まれる前から生やしていた、白いあごひげくらいではないかと思います。生まれ来て物心つき始めた頃に見たジサマの顔の下の方には、白いあごひげが生えていて、それを不思議がって撫で抓んだということぐらいしか残らないのではないかと思います。これだけで終わってしまってはならず、そのためにはこのジサマは少なくともあと10年くらいは生き続けて、孫と一緒の楽しい思い出をたくさん作らなくてはと、この頃はその思いを強くしているところです。

ジイジの責任とは、先ずは孫と自在に遊べる時が来るまで元気で生きていること。そして義務とは、ジイジしか教え、伝えられない楽しい遊びを孫と一緒に楽しむことではないかと、今はそう結論しています。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿