夏への扉、再びーー日々の泡

甲南大学文学部教授、日本中世文学専攻、田中貴子です。ブログ再開しました。

日本古典文学大系本の注と山田孝雄

2008年12月15日 | Weblog
 今年は山田孝雄没後五十年のようらしい(未確認情報、来年だったかも知れぬ)。山田一家といえば、息子を総動員して岩波の日本古典文学大系本の『今昔物語集』の校注を行ったことで、私などには知られている。国語学者一家なのである。
 岩波大系本の注はほとんどが語学的な注なので、内容の理解についてはあまり役に立たない。また、同じことばが出てきたら「→○○頁注○」とされているので、別の巻をめくらなければならないのが大変面倒くさい。
 ただ、この時代に今昔の天竺・震旦部の注をよくつけてくれた、という「学恩
はたいそうなものである。

 さて、今年度は二年次生の演習で『今昔』巻二十八を読んでいる。
 うちの大学では、二年生から各ゼミに所属して演習発表をすることになっている。私の学部時代では、三年生(関西では三回生、というが)から演習があり、それも一人の先生ではなく二人くらいの先生の演習が選択できた。二年生からの演習はちょっと早いのではないか、とも思うのだが、卒業論文作成のことを考えると、これくらいからやっていないと無理、という今の現実もある。
 私のゼミは、平安時代から室町時代の散文を専攻する学生のためのゼミであるが、大変人数が少ない。今の二年生は五人、三年生も五人である。厳しいという噂が飛んでいるからであろうが、私は少人数ゼミなら全然厳しくないよ。
 二年生の演習は、本格的に『今昔』をやるわけではなく、今後古典文学を読むうえで必要不可欠な作業、つまり、どんな辞書や参考書、注釈書を読めばよいのか、また、論文や参考文献の検索はどうするのか、とか、問題意識はどう持つか、ということを学ぶためのものである。従って、『今昔』や『宇治拾遺物語』のようなメジャーな作品を取り上げている。注釈書が古典大系、新大系、全集、新全集、新潮集成、朝日古典全書、角川文庫、岩波文庫、と揃っているからである。それらをすべて見て、注釈書がいかに諸説いろいろであるかを実感させるのが目的で、その結果、自分はどのように考えるかを実践するのが最終段階となる。

 ところが、今年はこの演習でおもしろいことがいろいろあった。
 以前なら何も気が付かなかったことである。それは、大系本の注そのもののことばが、すでに今の学生にとって古くさくて理解できない、ということだった。
 たとえば、注に「ピケを張る」という表現が出てきて、学生は、

 「ピケって何ですか」

と聞くのである。私だって、実際にピケを張ったような経験はないが、これはかつて学生運動や労働運動が盛んだった頃、新聞などでよく見かけたものだ。腕などを組んで、「体制側」の進入を阻むような行為である。それを説明すると、

 「ああ、人間の鎖、みたいなものですね」

という。ちょっと違うと思うが・・・。
 自分の「ことばの老齢化」を感じたものである。

 ほかにも「奴さん」という注にも大きな反応があった。これは、

 「わぜう」

という、ややおとしめるような、やや親密な感じもあるような二人称なのであるが、その訳として、大系本は「奴さん」とやっちゃうんである。
 聞いてみると、そもそも「奴」というものがわからんという。
 私は、小学生の頃日本舞踊で「奴さん」という男踊りをやったことがあるので、発表会で奴さんの扮装をしたことがあるし、昔見た古い時代劇の映画には多々登場したからだいたいわかる。ところが、学生は、

 「凧ですか?」

とか、

 「冷や奴と関係ありますか?」

と口々に「推理」をたくましゅうするのである(なぜ冷たいお豆腐を「やっこ」というのか、確かに疑問だが)。
 私は、「凧あげ」などなくなっているこの自分に「凧」といった学生がいたことに少し感激を覚えたが、その学生も実際に奴さんを描いた凧で遊んだ経験はないそうだ。
 こういう俗っぽいことばは、学生たちが持っている電子辞書にもあまり載っていないので、困りものである。

 学生たちの「発見」は、大系本の注は「ヘン」、集成本の注や解説は「おたくっぽい」ということであった。
 集成本の校注をしたのは、川端善明氏と、私の学部時代の恩師である本田義憲先生なんだけど・・・。たしかに、往年の「本田節」の雰囲気はあるなあ。
 今度は、全集本の注の特徴を調べてみようと思う。(学生にいわせれば、全集本と新全集本はほとんど同じなので、手抜きに思える、とのことだった)

 それにしても、国語学者というのは本当にいろいろな文献(非常に俗なものでも)にも目を通している。いつだったか、山田一家の誰か(失念、沢山いるので)が雑誌に「身を粉にする」という表現について書いていた。山田某氏はある日、『マリ・クレール』という女性雑誌を読んでいたところ、

 「ジャンは店がはねてからバーへよった」

とかいう表現に目をとめ、「店がはねる」を「働いている店が閉店する」という意味で使っている新しい例として採集した。また、その雑誌に、

 「身を粉(こな、とルビあり)にして」

とあることに違和感を覚えた直後、孫が見ていたTVアニメで、

 「おれたちが身を粉にして地球を守っているから」

というような表現を耳にし、内心にんまりしているのである。
 どんな種類のメディアやテクストでも、沢山読んでいると何がしか発見があるものなのだ。年をとっても、好奇心と行動力が必要であると痛感した次第。



*くりきな通信*
 その後の「くりこ」と「きなこ」の動向をお伝えする。
 二人はやはりうち解けるまで行かず、マンションの真ん中にあるドアを閉めて、書斎と書庫空間をきなこに、居間と寝室をくりこに明け渡して、家庭内別居生活を営んでおります。
 私はその二つを行き来して、二匹を平等にかわいがろうとするのだが、いかんせん、新入りの方がよく遊ぶので相手する時間が多く、くりこの目に不満のほむらがかいま見える。困った。これって、妻と愛人との間を行き来する男みたいじゃないの。
 ただ、妻も愛人もどっちもかわいい、という心理は今回よーくわかったように思う。かわいがり方が違うのである。私は二股かけるようなことはしたことがないし、出来ないたちであるが、「二股」というような単純なものではないのである。
 でも、夜は「本妻」のいるところで寝ております。「愛人」は遊んでやったらこてんと寝てしまうので、「泊まっていって」などというようなことはしないのが救いである。
 二匹の今の楽しみは、新しく買った電子辞書についている「音を聞く」という機能で、鳥や虫の声を聞くことだ。猫の好きな鳥や虫の声は確かにあるようで、種類によって反応が顕著に異なるのが面白い。
 なお、本場の方の「トルコの音楽隊」の行進曲は、ほぼすべての猫の好むところであることが、私の長年の猫生活によって裏付けられている。あの音に、猫の反応する音が含まれているからだろうと思う。
 猫がいるお宅は、一度おためしください。
 

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