海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

宮森小学校米軍事故から49年

2008-07-01 20:42:18 | 米軍・自衛隊・基地問題
 昨日6月30日は、うるま市(旧石川市)の宮森小学校に米軍のジェット戦闘機が墜落してから49年目だった。
 1959年6月30日午前10時30分頃、授業中の宮森小学校に墜落した米軍戦闘機の事故によって、死者17人(うち児童11人)、負傷者210人(児童156人)が出た。戦後沖縄で発生した米軍による事件・事故の中でも、最も多くの犠牲者を出した大惨事だった(『沖縄大百科事典』参照)。
 拙著『沖縄「戦後」ゼロ年』に載せてある、怪我をした小学生が米兵に担架で運ばれている写真は、事故直後の宮森小学校の状況を撮った写真として、沖縄戦後史の記録集に必ずと言っていいほど載せられているものだ。事故は沖縄の人々に大きな衝撃を与えた。
 中屋幸吉遺稿集『名前よ立って歩け 沖縄戦後世代の軌跡』(三一書房)のなかに、「姪の死(小説「茂都子」より)」と題された文章が載っている。小説の形を借りているが、中屋の実体験が素になっている。

〈一九五九年六月郷里の石川にZ機が墜落した。
 災難の場所は、市の小学校であった。このことが、彼を休学にまで、踏みこます動機となったのだ。
 自分の命が欲しいばっかりに、米軍飛行士は、故障したZ機を、空中に放したまま、落下傘で逃げ生きのびた。無人飛行機は、舵手を失って、空を乱舞した揚句、学園に、つっこんでいった。
 忽ち、静かな、緑の学園は、阿鼻叫喚の生地獄と化し、多人数の学童死傷者が、その犠牲とされた。学童死人の中に、彼の姪がいた。
彼の姪、園子は、その年の三月、やっと一年になったばかりであった。墜落当時、園子は、行方不明として、新聞から報じられていた〉

 〈二日目の暮方、園子らしい死体は、灰の中から発見された。人間の形相をすっかり喪くした棒ぎれみたいな、焼死体となっていた。
 わが子ではない、と母まで見まごうほどに、無惨な死体となった園子の鑑定に、和吉は立会った。
 入口のカーテンに手を掛けた和吉は、震えていた。彼は、すっかり、気が滅入っていた。
 それは、恐怖に近いものであった。これから、自分が会おうとしている園子は、いままでの可愛い園子ではないのだ、と彼は呟いた。
 そのことを考えると、彼はますます気が重くなった。死体が園子と、定まっているわけじゃないし、と言いきかしてみても、死の予感は、しつこく、彼につきまとっていた。コンクリート校舎の、血痕のしみついた、蓙の上に、二つの死体が、安置されてある。遺族不明の死体である。
 カーテンをくぐると、焦げくさい臭気が、彼の前に、立ちはだかってきた。部屋いっぱい、死の空気が、充満していた。ひっそりとして、死の静寂が、あたりを包んでいた。その中で、彼は、死人と対面した。彼は、全身が、鳥肌立ってくるのを感じた。彼はあっと息を飲んだ。血が頭に殺到してきて、彼は、目まいに襲われた。
 足がない、ない。足が消えてない。手は、手は、それもない。手首から先が、消え失せている。男かな、否、女だ、あ、性器がない、なにもないのだ。あ、目、目の中は、焼けた砂が一杯つまっている。焼け崩れた鼻、そこも一杯の砂だ。臓腑は、臓腑は大丈夫だろうか。あ、ない、ない、臓腑がからっぽだ。噫鳴、(和吉は呻いた。)
 「これが、人間か。この人間には、人間らしい確証が、何一つない。ああ、これが人間だと、言えるだろうか」
 こうも怖ろしい人間の形相を、彼は、死ぬまで、忘れることができまい、と思った〉(『名前よ立って歩け』30~32ページ)

 どんな惨事も、歳月とともに歴史上の記録となり、起こった出来事の衝撃や生々しさは失われていく。新聞には毎年、宮森小学校で行われる追悼集会の様子が載る。今年は初めて米軍関係者が出席したという。遺族や宮森小学校関係者にとっては、いまでも切実な思いで振り返る一日であっても、新聞報道に接するだけでは、歴史上の一件の米軍事故として認識されて終わりかねない。
 しかし、中屋幸吉の文章を読むとき、犠牲になった子どもたちが、どのようにして死んでいったかという事実を、目の前に突きつけられる。墜落、炎上したジェット機の爆風や炎に巻き込まれ、姿形をとどめぬまでに焼けこげた遺体。沖縄戦から14年が経って、米軍によってもたらされたその死が、いかに無惨なものであったか。その生々しい死の形から目をそらしてはならないし、それを忘れてもならない。「人間の形相をすっかり喪くした棒ぎれみたいな、焼死体」となった姪。その死の形に直面した肉親の衝撃を、中屋の文章はいまに伝えている。
 姪が事故で焼死したことのショックから中屋幸吉は、入学したばかりの琉球大学を半年で休学し、翌一九六〇年の四月に復学。そのあと琉大学生新聞会の会員となって学生運動に参加し、学生会の代表として上京、全学連と共闘もしている。そして、大学を卒業した一九六六年の六月に、自ら命を絶っている。
 私が大学生の頃は、まだ書店に『名前よ立って歩け』が並んでいて、少数ではあれ学生に読まれてもいた。いまは古本屋で見かける程度だが、沖縄の戦後史を振り返るときに、欠かすことのできない一冊である。改めて、若い世代にも読んでもらえたら、と思う。

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