5月の庭はあちこちに白ゆりが咲いている。
仲宗根政善『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』(角川文庫)に「白ゆり」と題された一節がある。
〈二十四壕の入り口に白ゆりが一りん美しく咲いた。生徒は行く先幸多しと、何かのようによろこんだ。ところが二、三日たってゆりの花が何者かの手によってちぎられていた。生徒は心なき者のしわざに憤慨し、犯人の捜索にかかった。
その翌日であった。看護勤務の生徒が死体埋葬に出た。林のように立つ新しい墓標の中に盛られた土も新しく、将校の墓標が一つ建っていた。美しい白ゆりが一りん手向けられてあった。まぎれもなく壕入口に咲いていた白ゆりであった。花のゆくえをつきとめた生徒は、さっそく壕に帰って報告した。みんなは涙ぐんで聞き入り、白ゆりの話がつづいた〉。
仲宗根は今帰仁村の与那嶺出身で、沖縄戦当時、ひめゆり学徒を引率して多くの教え子をなくしている。
敗戦後は教師としての自らの戦争責任に向き合い、深い反省と後悔の日々を送りながら、ひめゆり学徒隊の記録を残し、生き残った教え子たちとともに「ひめゆり平和祈念資料館」の建設に力を尽くした。
私の父方の祖母は同じ与那嶺出身で家が近く、仲宗根の妹と子どものころ一緒に遊んだ、と話していた。
仲宗根の終生の仕事である『今帰仁方言辞典』は、パソコンに向かう椅子の後ろに置き、時おり手にして今帰仁言葉を確認している。
自民党の西田議員や参政党の神谷代表らの発言を聞いていると、沖縄戦についてろくに学びもせず、体験者の著作や沖縄の住民の証言集を読んでいないことがすぐに分かる。
国会議員なら、せめて仲宗根の『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』くらいは読み、生き残った教師や学徒たちが、どれだけの思いを込めて「ひめゆり平和祈念資料館」を建てたかを考えたうえで発言すべきだ。