海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

「藤岡意見書」(1)を読む

2008-10-23 23:56:09 | 「集団自決」(強制集団死)
 「藤岡信勝意見書」(1)はすさまじい文書だ。これは「意見書」というより怪文書や奇書の類ではないのか。南木隆治氏が自分の管理するブログでUPしなかったのも分かる気がする。余りのすごさにびびってしまったか、これを載せたら物笑いになるとまわりから止められたのだろう。いずれにしろ、藤岡氏が自分の手で自由主義史観研究会のホームページに載せてくれたのは有り難いことだ。大江・岩波沖縄戦裁判で原告側を支援している右派文化人たちの知的劣化の進行度合いを、藤岡氏が満天下に示してくれた。
 「意見書」(1)で藤岡氏は、最初に宮平秀幸証言を紹介し、それと内容が食い違う母・貞子氏の手記を検証、批判しつつ、妹・昌子氏の証言を紹介している。さらに、本田靖春氏が書いたルポルタージュ「座間味島一九四五」(『小説新潮』1987年12月号)を取り上げ、独自の解釈をほどこしている。現時点の宮平氏の証言こそが正しいのだと絶対化して、それと食い違う「貞子手記」「本田ルポ」を検証し、その誤りを証明したというわけである。その解釈の強引さ、論理の飛躍ぶりはすさまじい限りで、とりわけすごいのが本田氏の「座間味島一九四五」に対するものである。
 故・本田靖春氏は戦後日本のノンフィクション作家の先達として高い評価を受けてきた作家だ。藤岡氏もさすがに「熟達したジャーナリスト」として、その取材力を簡単には否定できなかったらしい。そのために、本田氏がその取材力にもかかわらず宮平氏の話を正確に理解しきれなかったのはなぜか、という一ひねりきかせた解釈を試みている。それが、ただでさえ強引な藤岡氏の解釈を、一段とアクロバティックなものにしているのである。そのような解釈を可能にするために藤岡氏が考え出したのが「宮平語」なるものである。以下、「藤岡意見書」(1)から引用してみる。

〈これは、語り手としての秀幸の話し方の特徴にもなっている。秀幸は場面を描写的に再現する語り方をする証言者である。極限状況の中での肉親の体験は、自分の体験と同じである。秀幸は、自分の直接体験であるかのように伝令が壕に来たときの家族の体験を語ったのである。
 秀幸の話し方にはこうした特徴がある反面、時刻についての記憶は揺れがあり、曖昧である〉

〈また、強く印象に残っていること、自分が是非語りたいと思っていることが、文脈ヌキに語られるという傾向も強い。秀幸の取材を始めた当初、あまりにもビビッドに語られるので、私も彼がその場にいたのだと錯覚した経験をもっている。時間の前後関係も、二十五日のことなのか、二十六日のことなのか間違って理解していたということがあった。私は一月以降、電話での会話を含めて合計百時間をはるかに超えるほどの会話を秀幸と交わしている。だから、どの話はどの時点に位置づくのか容易に理解できるようになった。いわば「宮平語」にかなり通暁したわけである〉(以上17ページ)。

 「宮平語」なるものは以上のような特徴を持ち、〈合計百時間をはるかに超えるほどの会話〉を行った藤岡氏でなければ、正確には理解できないものだというのだ。だから、〈数時間しかこの話を聞いていない本田が、意気込んで話す秀幸の話の位置づけを誤解したとしても決して責められることはない〉(17ページ)と藤岡氏はのたまう。
 三月二十五日の夜、伝令が来たときに家族と一緒に壕にいた、とかつて宮平氏は本田氏に語っていた。そのことをルポルタージュに書いた本田氏は、実は「宮平語」を正確に理解できずに「誤解」していたのだと藤岡氏は主張する。本田氏が存命であったなら間違いなく反論したであろうが、氏はすでにこの世にない。座間味村の幹部に対するのと同様、「死人に口なし」なのをいいことに、藤岡氏は書きたい放題なのだ。
 藤岡氏の主張が成り立つなら、宮平氏の証言をこの世で正確に理解できるのは、「宮平語」に通暁した藤岡氏しかいなくなってしまう。藤岡氏が解釈した宮平証言だけが唯一正しく、それと食い違うものは全て誤りだということになる。だから裁判長も藤岡氏の解釈した「宮平証言」を受け入れるのが当然、ということになるのだろう。いやはやまったく、藤岡氏は幼児的全能感に満たされて自信満々なのかもしれないが、そんな理屈が裁判で通用すると思っているのだろうか。
 藤岡氏が自分の「意見書」を客観的に見ることができたなら、「宮平語」なるものについて書くことが、宮平氏の証言が論理の飛躍や混乱に満ち、自他の体験の区別がつかず、日時も曖昧で、要するに信用性に乏しいものであることを自ら証明していることに気づいただろう。裁判官に対して、宮平証言は信用できませんよ、と言っているようなものだ。まったく、愚かとしか言いようがないが、どうやら藤岡氏も「宮平語」に感染したようだ。いやもともと、「藤岡語」を患っていて、「藤岡語」と「宮平語」は親近性があり、互いに引かれあって「偶然」の出会いを果たしたというべきか。
 「藤岡意見書」(1)を読むと、実は宮平氏は過去に本田氏に話した内容をすっかり忘れていたことが分かる。島を訪れる研究者やマスコミ関係者に、宮平氏はその時々に自分が「事実」だと考えたことを語ってきたのかもしれない。サービス精神旺盛で、相手が聞きたいことを敏感に感じ取り、それに合わせて話の内容を変化させ、なおかつ臨場感をもって語り得るというのは、確かに一つの特異な能力ではあるだろう。それが藤岡氏らによって政治利用され、裁判の矢面に立たされている様子は、痛ましささえ感じる。
 しかし、裁判に関わり証言を行うというのは重い責任を持つ。それは宮平氏が自ら選んだ行為であり、「藤岡意見書」が及ぼす影響については当然、宮平氏も社会的責任を果たさなければならない。田中登元村長をはじめ座間味村幹部に圧力を加えられたと公言することは、田中氏の遺族や座間味村関係者からすれば、ありもしない事実をでっち上げられ、誹謗中傷されたということであり、それに反発や怒りを抱くのは当然のことだ。
 そうやって島の中の人間関係がギクシャクし、傷つけられても、東京にいる藤岡氏は痛くも痒くもないだろう。苦しむのは全て島の人たちなのだ。宮平氏への正当な反論や批判さえ藤岡氏は「同調圧力」だとして政治キャンペーンの材料に使い、さらに座間味島を引っかき回して、自らの政治目的を果たそうとするのだ。「意見書」(2)でミスを犯し、迷惑をかけた田中氏の遺族や座間味村関係者に一言の謝罪もなく、さらに政治キャンペーンを行っている藤岡氏の行為を許してはならない。

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Unknown (ni0615)
2008-10-24 07:45:36
 私は幼児期に親たちから3.10空襲等、戦災の話を聞かされました。彼らは3人以上集まると夜も明けんばかりに話は留まることを知りません。酷い体験をした人ほど話はあっちにとびこっちにとび聞くものが時系列を追うことが難しくなります。 
 大人になって関東大震災の体験者や広島長崎の体験者の話を聞くとき、幼児期のとまどいはかなり役に立ちました。
 いまヒロシマ修学旅行では直接の体験談よりも被爆した家族の伝聞の方がウケがいいそうです。なぜなら間接的な伝聞ですから話があっちにとびこっちにとぶということがなく事前に話者の頭の中で整然とまとめられているからではないでしょうか。体験者本人では、短い時間のなかでは取り留めのつかない「繰言」にしか受け止められません。
 宮平秀幸氏もきっと長年、間接的な伝聞を事前に組み立てて他人に話し、学生たちには都合の良い教材となってしまううちに、自分の体験と他人の体験との区別がつかなくなってきたのでしょう。
 沖縄戦の体験者聞き取りに現場で苦労されてきた星雅彦さんや宮城晴美さんそして謝花さんらが、いかに大変な作業をしてきたかは私でもいくらか想像できます。
 あっちにとびこっちにとび時には感情のままにワケがわからなくなる話の中から、時間軸、空間軸、対人軸をみつける。だからといって、理路整然とするために話者の言葉をそぎおとしたり、話の方向を誘導してはならない。記憶のなかの矛盾があってもそれは尊重する。そうでなければ体験記にはなりません。

 藤岡意見書(1)と(2)は、そうした聞き書きの根本を無視した揚げ足鳥の文章でしかありません。

※蛇足
 体験時が10代後半以降ですと、体験記憶は世間が描いた筋書きや「常識」に流されます。新聞発表などと自分の体験のズレを無意識に調整してバランスを取ってしまいます。そのために他人からの伝聞情報も自分のこととして話すことが多くなります。その最高の典型が「軍人」や現代の「社畜」です。
 体験時が1桁前半ですと、大人の話が刷り込まれて自分の体験となっていることが多いです。
 そういう意味では、10代前半の人は「後から他人から聞いた話」との混同が比較的無く、しかも事態を記憶するツールとしての語彙や組み立て方も備えていますので、証言者としては適任なのです。宮平秀幸さんの場合は、話者としての気負いや目立ちたがりが自分の体験からの遊離を起こさせてしまったのでしょうか。

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