書の歴史を臨書する

古今の名磧を臨書、最近は米フツ。
時折、気の向くままに漢詩や詩、俳句などを勝手気侭に書いております。

藤原忠道・書状

2007-06-14 09:47:35 | Weblog

藤原忠道(1097-1164)
平安時代後期の摂政・関白・太政大臣。
藤原忠実の長男。
白河院は寵愛した藤原璋子を忠道に嫁がせようとしたが、
才色兼備を謳いながら璋子の素行に兎角噂があり忠実・忠道はこれを断る。 
その為、白河院の不興を買い、不遇の時を過ごしたが、
白河院の崩御後、鳥羽天皇に召され関白に、
更に、その後も崇徳・近衛・後白河天皇の摂政・関白を務める。
稀代の謀略家とも言われる。
歌人、書人としてもその名を留め、
百人一首にも名を残す。
わたの原こぎいでてみれば久方の雲いにまがふ沖つ白波

昨日よりは御温気なとも

余談。
忠道の父忠実は忠道よりも弟の頼長を溺愛する。
忠道、頼長の対立が後の保元の乱の一因となる。
同じ時期に、崇徳上皇と後白河天皇の兄弟間にも不和があり、
崇徳上皇に頼長が後白河天皇に忠道が接近し、
それぞれが、源氏、平家の武士を囲い、
天皇家、藤原家、源平が骨肉で争ったのが保元の乱である。
三年後の平治の乱を経て、武士が台頭し、
貴族政治が武家政治に取って代るのである。

余談の余談。
先述の如く、
白河院はご自分の皇孫である鳥羽天皇の中宮に
璋子(待賢門院)をすえる。
この二方の御子が、崇徳天皇、後白河天皇であるが、
崇徳天皇は白河院の御子であるという風説があり、
鳥羽天皇は崇徳天皇を忌み嫌う。
白河院の崩御後、鳥羽法皇の寵愛は待賢門院から美福門院に移り、
崇徳天皇から皇位を僅か3歳の美福門院との皇子(近衛天皇)に譲り受けさせてしまう。
近衛天皇が夭折すると、
ご自分の皇子を皇位につけたい崇徳上皇の思いは果たせず、
鳥羽法皇の推す後白河天皇が皇位につく。
かくて、
待賢門院のもとで仲良く育った崇徳上皇と後白河天皇が対立し、
保元の乱のお膳立てが揃うのである。
この時期には、待賢門院は既に没している。