・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

くたびれる自由

2014年06月14日 | つぶやきの壺焼

「常に自由を望む人は疲れやすい」という説があります。
「ああ疲れた」が口癖になっている人は、疲れるほど何かに熱中する自由をもっています。
自由人は、自分が持つ自由に迫られ、あれもこれもで、疲れのもとを自分でこしらえます。

空を飛ぶ鳥は、方向も経路も時間も、他から指定されません。大いに自由です。
しかし、飛び続けなければならないという不自由は絶えません。
鳥には飛ばない自由はないのです。
自由が空を飛んでいるかのように見えますが、いつどこから天敵が現れるかわかりません。たぶん疲れるでしょう。
渡り鳥の場合は、列の中に入って、列から外れないことだけに注意力を働かせていればよさそうです。
列にしばられて、自由を奪われる代わりに、安全を維持する心配は減ります。

とにかく自由は大変です。自由を続けるのはくたびれます。
自由を望む人は、自由であることの大変さの空気に浸りたいのかもしれません。
それがまたよいのでしょう。

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梯子をはずすなら早いうちがよい

2014年06月13日 | つぶやきの壺焼

美術館や映画館のはしごは禁物と聞きました。
感激が薄れるからです。

感激、感動は、何日かに一度でちょうどよいのでしょう。
鑑賞から得る感動、その継続は力をそぎます。継続は力なしです。

日に何度も感動したいというのは、美味いものを欲張って続けて食べたがるのと同じで、何軒もの店の食べ歩きは、それぞれ日を改めなければ、本当の美味さはわからないでしょう。

鑑賞のはしごは早く外したほうがよいのです。

いや、はしごは、登るだけがその使い方ではなさそうです。

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競技場環境改善の機会を逃さないように

2014年06月12日 | つぶやきの壺焼

オリンピックに向けて競技場施設の改築が進められようとしています。
そのときには、ぜひ外形や規模だけでなく、競技環境の改善も重点からそらさないようにしてほしいと思います。

たとえば、足音で相手を驚かすような、本質から外れた戦い方には、それが通じないよう、競技場をサイレントフロアにする必要があります。

音声制御も必要です。
監督と選手の競技中の話を盗聴してTVでナマ放送する、メディアの横暴を阻止できるような装置も必要です。
ニッポン・チャチャチャはうるさいので、あの音はTVにはいりません。

競技場の周辺のことは、環境の問題ではありません。
そこには、都市の性格がそのままあらわれます。
競技場だけが奇妙な目立ちかたをする、珍奇の見本市のような施設づくりは、国辱になりますから、どうかおやめください。

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聞こえてくるのは聞きたいことだけ

2014年06月11日 | つぶやきの壺焼

言ったばかりのことをすぐ繰り返し聞かれると、つい次の語調が強くなります。
同じように言ったのでは聞こえないだろうと思うからです。

しかし、これはあまりよい方法ではなさそうです。
語調を強めれば、必ず嫌味に聞こえます。

同じ調子でもう一度、それがよさそうなのですが、三度目まで要求されると、仏の顔も角張ってきます。
なにがどこで食い違うのか考えてみたら、度数の出発点が違うのに気付きました。

聞き返すほうの度数は、話した側の回数には無関係で、自分が「え」「何」と問い返したときがゼロ点なのです。
そのゼロ点から出発して、自分が聞きたかったことであれば一度でOK、気に入らなければまた聞き返す、それが初めての聞き返しと思えば、食い違うのは当たり前です。


人の耳は、聞きたいことしか聞かないという使い方もあるのです。
そして、聞きたいことだけを聞いていると、だんだん聞きたいようにしか聞こえなくなります。

この人、何を聞いているのだろうと思うのは、言っていることと、相手の聞きたいことが方向違いなのです。
相手はそのとき、この人、何を言っているのだろうと思っているでしょう。

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民主制は制度疲労を起こしていないか

2014年06月10日 | つぶやきの壺焼

何か提案されたとき、手をつけ始めると面倒なこともあります。
その面倒なことをしたくないときに、とりかからずにすませる方法があります。
いきなり賛否を問えばよいのです。
わけもわからず事情も知らされないことに、人はすぐに「いいね」とは言いません。
決め手は多数決です。はじめから挙手を求めても、事情を知った人しか手を挙げません。
見事なミンシュテキ方法による、ミンシュテキ決定によって、たちまちやらない言い訳ができあがります。
「相談したけれど、賛成を得られなかった」


世界中で使っている地図や地球儀の、YY海をZZ海という名前にしてしまおうという、ずうずうしいことを思い立ったとします。

ミンシュテキ決定方法によれば、遠く離れたXX国でも、地球の反対側にある海の名前まで変えてしまうことができるのです。
YY海が領海になっているYY国の人々が知らないうちに、ZZの呼び名とかかわりの深い議員の多いXX国の議会で、多数決の結果を出せば、それでことは終わりです。
順番に手をまわして、一つずつ既成事実を集めていけば、そのうちにそれが多数を占めるようになります。

ミンシュセイはもうくたびれて、どこかおかしくなっていると思いませんか。

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正しいですかという間違い質問

2014年06月09日 | つぶやきの壺焼

言葉のFAQに出される「~は正しいですか」という質問は、ほとんど間違いです。
問われている「~」以前に、質問そのものが見当違いのことが多いのです。

この種の質問のほとんどは、「~」が、単独の熟語、あるいは文章のごく短い一部分で問いかけられます。
熟語や文章中の語句は、それらが組み合わさって文章になるので、文章全体の意味と合致しているかどうかで正誤が判定できるのです。
「~」と一つの言葉を投げ出して、正しいかどうかを問うのは、何もしていないそこにいる一人の人間を指して、正しいかどうかを裁こうとすることと変わりありません。

言葉の質問ならば、やわらかく言えば見当違いですが、人間を裁くとなれば、理不尽ということにもなります。

外国人に日本語文法を教える人たちは、品詞の分類判別などよりもその前に、構文の基本を教えなければならないでしょう。

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引き上げ引下げはなぜするのかを問わなければ

2014年06月08日 | つぶやきの壺焼

国民投票権の年齢引き下げが検討されていると聞きました。
おい、ちょっと待てと言いたいところです。

なんでも制度を変えなければ、世の中のことがうまく運ばないと思ってしまうと、それは間違いです。
変えることを考える前に、制度のあることによって現れた結果がどうなっているのか確かめなければなりません。

これまでに国民投票は一度も行われておりません。
結果を確かめる材料が一つもないのに、なぜ制度を変える話を持ち出すのでしょうか。

変えると何か都合のよいことがありそうだぐらいのことでは、理由になりません。
理由にならないことの論議に、だいじな時間を使ってもらっては困るのです。

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見習いはできなくてあたり前か

2014年06月07日 | つぶやきの壺焼

停止位置が前にずれて、戻らずに次の駅まで行ってしまい、乗客に乗り換えて戻ってもらった電車がありました。
その運転士は見習い中だったと報じられました。
うまくいかないことがあってあたりまえです。

見習い中は、まだ運転士ではありません。
運転士でない人に電車の運転はさせてはならないのです。
実習をしなければ実務ができるようにはなりません。
しかし、これはジレンマでもなんでもありません。
見習い以前にさせることをしていないから、こうなるのです。

運転技能には、教育マニュアルができていて、その順序で教えれば、まずひととおりはできるようになるでしょう。
しかし、電車の運転は、当該技能だけではできないのです。
それがなにかは、公共交通機関の企業が、わかっていてもらわなければならないことです。

見習いはできなくてあたり前というのは、現場の指導者が、慰めことばとしてしてだけに使えるせりふでした。

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怪我がなければ安心です

2014年06月06日 | つぶやきの壺焼

タグラグビーという、タックルなしの擬似ラグビーがはやりだしたそうです。

 ⇒ http://www.tagrugby-japan.jp/

タックルなしならば怪我が減って、させるほうが安心というゲームです。

怪我がなければ、痛い目にあう機会が減ります。
自分自身の体験は「ないほうへ、ないほうへ」とキョーイクされます。

体験がなければ、「いざ」の智恵は働きません。咄嗟の身のこなしもできません。
そのうちに子どもたちは、転んだときハンカチをひらひらさせてファウル申告、起こされるのを待つようになるのかもしれません。
あるいは、地面を指先でつつけば転ばなかったことになると信じるのでしょうか。
怪我は決してしません。なぜかと言えば、そのときには、怪我という言葉さえも覚えなくなっています。
だから、安心なのです。

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囲われていると気付かせない囲い込み戦略

2014年06月05日 | つぶやきの壺焼

はじめは、どちらがよいかと、選択させるように見せかけておいて、たくさんの人を巧みに引き寄せる方法は、購買力を集めるため、よくとられる戦略です。
入口の呼び込み言葉にも仕掛けがあって、参加できるのはあなただけと、限定を匂わせるような言い方をします。
数と時、数字になりやすいことも、擬似限定に便利です。
「500個用意しました」「今から10分間」と、「またあとで」に逃がさない言葉も、よく用いられます。

 いったん引っかかった参加者は、定期購入という囲い込みの網に閉じ込められます。
すべてその売価でも十分利益の得られる金額が、割引価額という特別を思わせる表示のもとに、恩着せがましく、かつ厚かましく請求されます。

一度試しに買ってみて二度目には要らないと言えば、三度まで買わなければ抜けさせないというあこぎさが、囲い網の目をまた細かくしています。

何やかやと囲みの中に入れられても、囲われていると気付かせないのは、○民という名の分類様式にもどこか似たところがあるような気がします。

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もともとはずれるのが的だった

2014年06月04日 | つぶやきの壺焼

「的な」、「的な」。
こんな会話がCMにあらわれるほど、「的」という言葉が、どういうわけか好まれて使われます。
「的」、テキはマトですから、何かにあてはまるという表現にはピッタリなのですが、実際にははずれのほうが多いのが「的」であるようです。

「的」が熟語に組み込まれると、不思議に、にんにくのようなものに変わり、メタモルワードの様相を呈します。
その熟語を口にする人にはわからない、嫌なにおいがする言葉になるのです。

例を挙げてみましょう。
「具体的」「建設的」「進歩的」は、ズッコケ三的とでも名づけたいその代表格です。

「具体的」は、抽象表現を理解できないガチ石あたまの人が、聞いてもわからない説明を求めるときの台詞です。
「ぐたいてきに説明してください」を耳にすると、「愚態的」と聞こえることもあります。

「建設的」は、たとえば、浅い考えさえなく何かを言ってしまって説明を求められたとき、「建設的な意見を出してください」と、その場を逃れる狡猾な言葉です。
なぜ逃れたいのか、それは多分、説明の要求を、批判されていると感じる被害者意識からなのでしょう。
その場に出来かかった意見交換環境は、建設的どころか、壊れてお終いにされてしまいます。

「進歩的」は、何かにつけて進歩が疎んじられるようになった近ごろでは、あまり聞かれなくなりましたが、政党の名前にも「進歩」が用いられた時代もありました。
「進歩」という状況表現を、目的表現にすりかえて「的」と組み合わせた奇妙な言葉です。


「私的には」という変な言葉もときどき聞こえてきます。
「私はこう思う」とはっきり言いたくないとき、私ではなく私の代わりの誰かが私の思いを伝えようとしていて、それによれば、というはなはだ回りくどい言い方です。
これが、デジタル信号のように、いくら回りくどくても伝達時間は縮まっているのが面白いところです。

こう並べてみて、「的」は、ど真ん中よりも中心をずれたところに意味のありそうな言葉だったことに気付きました。
「的」の全体を見れば、中心からずれた周囲の面積に比べ、中心部の面積はごくごくわずかでしかないのでした。

この戯文の表題も「もともと はずれるのが的」と、「もともとは ずれるのが的」のどちらにずれてもかまわないのです。

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故障回避は技術水準の高さのあらわれ

2014年06月03日 | つぶやきの壺焼

スポーツ選手で頂点に上り詰める人は怪我・故障が少ないようです。
裏返せば、故障を回避できないスポーツ選手は大成しないということでしょうか。

故障しないものは、高度の製造技術のもとで作られていると言えます。
製造技術ばかりではありません。
故障を起こさせずに、あるいは故障が起きても軽いうちに食い止めるユーザーの技術もだいじなことです。

作るのもいいかげん、使うのもでたらめでは、ものはすぐ壊れます。
もうそろそろ、ものは簡単に安く作ればよいという妄信を捨て去る時期に来ています。

もう一つ、壊れたらどうするか、これもユーザー技術の要諦です。
永久に壊れないものなど、この世にはないのですから。
壊れたらすぐ新しいのに換えればよい、それはテクノ系の考えではありません。

スポーツ選手も、アート系の“根性”だけでは、大成は望めないでしょう。

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“かしか”さまざま

2014年06月02日 | つぶやきの壺焼

子どもの頃のこと、届いた郵便小包をあけてみて「こうや豆腐とは驚いた」と何度も繰り返していた祖父のボヤキを思い出します。
そのときは「驚いた」の意味がわからなかったのですが、祖父の他界の年齢を超えた今、ようやく想像がつくようになりました。
旨い菓子でも送ってくれたかと思ったのでしょう。
「かしか」、「菓子か」が、はずれだったのです。


「かしか」にもいろいろあります。
ひとに何かをしてあげておいて、預けた恩を忘れないという、やや品の下がった「貸しか」というのもあります。

これまで見えなかったものを、見えるようにする「可視化」もあります。
この可視化にもふたとおりあって、見えることでよくわかるようにする可視化と、見えるためにかえって見誤るように仕組まれる可視化があります。

よくわかるようにする可視化には、「見える化」などと日本語の形を崩して気を引こうという、変な名づけをされたものもあります。
本当にわかるように見せるのか、見せたいように見せるのか、よくわからないのもあってさまざまです。
実際におこなわれていることの、たった3%ぐらいを見えるようにして、それで実態を想像させようという、マジシャンの種明かしのような可視化もあります。


畑に出る年寄りが心配なので、ケータイを持たせておくという、今世紀型の小規模農業方式があります。
緊急時に老人がケータイを巧く使えるかどうかはさておいても、ひとまずの安心は得られます。
お互いに見えるところ、実視界のなかで仕事をするのが最上なのでしょうが、それぞのの事情がそうできない理由をつくってしまいます。


街の中も、見られていることに気付かずに見てもらっているシステムが、いきわたってきているようです。
安心、安全と引き換えに、自分たちがだんだん飼われている小動物に近づいている気がして、何となく嫌な気分です。

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