・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

アマ/プロ

2010年12月16日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
研究者と有能専門家は違う。
研究者は研究費をもらって研究をし、有能専門家は仕事をして対価を受け取る。
もらうのと受け取るのとには微妙な違いがある。違いの核は契約の有無である。
すると、研究者にプロはいないのではないか。

こんなことをふと考えていたら、いや、研究者にもアマとプロがいるぞと気付いた。

企業で研究の仕事をしている人たちは、多分プロの研究者だろう。
会社の決めた新規開発品の製造方法を研究する。これは研究の名を借りていても働きは有能専門家だろう。しかし、部分部分に研究の要素も入り込む。
研究には、カネにしばられないアマチュアリズムのようなものがよい結果を出す。

研究者/専門家という分類が無体なのだ。
そうなると、アマ/プロという分類にも無理があるかもしれない。
一人の人間が、あるときには研究の仕事を、あるときには専門家としての仕事をし、またあるときにはアマチュアとして感覚を働かせ、あるときにはプロフェッショナルな仕事に打ち込む。

分類は一種の方便だった。
だが、方便を逃げの手に使う研究はやめたほうがよい。

苦楽

2010年12月15日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
たとえば音楽の道、その道を、生活苦に耐える人、生活苦を苦にしない人、生活苦を感じないですむ人、そういう人びとがこぞって目指す。
何万人に一人かは、生活苦を伴わない文化領域に入れる。
入れたからといって、そこには苦がないわけではない。別の苦が待っているに違いないが、それは行って見なければわからない。

生活苦の詰まった超大部屋と生活苦だけはない極小の部屋がつながっている。間の扉は運命で開く。
それぞれの部屋で、苦と楽が混ざり合っている。
楽の部分は見てわかりやすい。苦の部分は、特に意図がなければ見せたがるものではないから、感じ取るしかない。

苦もいろいろ、楽もいろいろ。おかしなことに、苦と苦は混ざり合わず、楽と楽も混ざり合わない。混ざり合うのは、苦と楽。

苦楽を共にすると言うのは、一緒に混ぜ合わせることだったのか。

国会改革

2010年12月14日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
議員がだらしないのは選び方が悪いから。
選び方は、選挙制度と投票行為で成り立っている。
選び方の悪さを、投票した人が悪いと言っていたのでは永久に良くならない。
問題は選挙制度のほうにある。
そのなかでも、最悪の問題は選挙区の区切り方にある。
こま切れにした選挙区では、国の政治を任せるに足る人物が立候補しないこともある。そうなれば、一つひとつの選挙区から定数の能無し人間が国会に出てくる。
能があろうとなかろうと、議場での起立や投票と無意味な野次だけはできる。役に立つのは1という数と、議事妨害のみということになる。

政治をまっとうにするには、議員の構成を正常にしなければならない。
そこで提案、両院すべて全国区制、比例代表は廃止。
これならば、もし議員の質が悪ければすべて投票者の責任になる。
立候補のさせ方には一工夫いるのだが。

立ち入り

2010年12月13日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
自分の所有地に地主でも出入りできないことがあるらしい。貸してあればだめなのか。
借主が放置している土地がある。盗人が入り込み、何か怪しげなものを置いていく惧れもある。見るに見かねた人が何とかしましょう、私が対策を講じてみましょうと、借主に話を持ちかける。
それでも借主は、なんだかんだと言い逃れ、そんなことはして欲しくありませんと突っぱねる。
土地を借りるということは、そこを使うためでなければ意味がない。
借主がどこかの会社ならまだしも、政府や公共団体であったとすれば、これは税金の無駄遣いでもある。
1円の支出に領収書をどうするかなどと、騒ぎを起こしていたこともあった。そんなことよりよほどこちらのほうが困った問題ではないか。

普段目が届かない場所なら、せめて借主は番人でも置かなければならないだろう。
番人を置けば税金を使うことになる、そんなことを放置の言い訳にはできないと思うが。

製造一途

2010年12月12日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
売れさえすれば、作る方法はどんなことをしてもよい。
売ること、カネを得ること、それが作ることの意義であるとしている。
使ってもらう、食べてもらう、そんなことは一切考えない。
あらゆる手段で、作ることをうまくやりさえすれば、細々とでも暮らしが成り立つ。

こんなすさまじい、ものの作り方をする人々が、急成長を支えている。
たとえば、揚げパンは洗剤を入れるとふっくらと仕上がる。
たとえば、ビーフンを乾す場所には地べた、手がかからず広くて都合がよい。

こういう国が、太平洋を二つに分け、西側の管理を任せよと、太平洋の向こう岸の国に呼びかける。
世界はもうめちゃくちゃになりかけている。

付き合い

2010年12月11日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
人付き合いには「和」がいちばんと言う人がいる。
「和」を唱える人にもいろいろあって、自分の思いどおりにさせたいから相手に異論を述べる機会を与えずに従わせていく和もあれば、面倒だから誰にでもハイハイと言っておく和もある。

和もよいが、それより、なんとしてものし上がろうという人もいる。
のし上がり成立の3条件は、人に見せつけること、相手がいること、相手より常に上にいること。
のし上がり成功の3条件は、自分の方に向く人の範囲をひろげること、競争相手には弱点をずっと持たせておくこと、相手を意のままに操ること。

人間どうしの場合は、相手にしないという手もあるが、国と国の場合で、しかも隣り合っていれば、のし上がりを横を向いて見過ごすわけにはいかない。
外交とはそれがゆえに必要なのであって、黙ってニコニコおとなしくしている外面友愛などは、有効な外交方針にも外交手段にもなりえないのである。

どうして長い題にした

2010年12月10日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
森山直太郎の「どうしてそのシャツえらんだの」という歌を聞いてパクリを思いつき、この題になった。
ブログの題名、ドラマの題名、映画の題名、本の書名、長いのはむやみに長く、短いのはごく短い。
長くても10文字ぐらいが感じが好い。「どうして長い題にした」このぐらいが好いと、源泉に敬意を表しておこう。
いつだったか、メーリングリストで気に入った言葉があって、それを褒めるつもりで「そのうちパクらせてもらう」と書いたら、むきになって「パクリはいけません」とすぐさま返事を寄越した方がおられた。
「パクリはおよし」ぐらいなら、ああ、わかってくれているなとなるのだが、咎めの言葉にその説明まで親切に書いてもらうと、有難くてあとが続かない。
「どうしてそんなにお怒りか」と書こうものなら、キマジメ一本刀でまた斬り返してこられそうだ。
それでは空気が汚れるだけなので、シャット・アウトということになる。

およそ説明というものは、未来のことに対するものなら有効である。
いま言うことのついでの説明は、半分バカにしているようにも聞こえる。
過去のことに説明を求めるときは、言い訳を述べさせてそれをまた突付こうといういやらしい魂胆を持っていると思われても仕方がなかろう。

どこがわからないと言わずに、ただ説明責任を果たしてないとののしるだけでは、「どうしてそんなことをきく」であとが繋がらないではないか。

どうして数をくらべるの

2010年12月09日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
「日本の読解力 改善8位」新聞記事の見出しである。
改善の字を見てほっとするか、まだまだと思うか。
どちらにも「そうだ」とは言えない。

○×ゲームで採点して数値を比べたところで、白書原稿作成者の気持ちが多少和らぐだけのことでしかない。
心ある先生方は気を緩めてはいられない。

「上海、3分野で首位独占」という見出しが隣にある。そんなことは問題外。
むき出しの欲望だけをエネルギー源にして、ルールを守ることを知らず、盗賊工業に励む人々が集まっている1都市のテスト結果と、数の競争をしても仕方がないのだ。

何の用意もさせずに、道で何かをたずねたとき、どういう返事が返ってくるか。
それが学力のあらわれなのだから。

心得違い

2010年12月08日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
盲導犬は、公園でご主人といるとき、のどが渇いても何も飲ませてもらえない。
それは、決まった時間に飲食させないと、食べ物飲物に気を取られて、つとめがおろそかになるからかと、勝手な想像をしていた。
だがそれよりも、人の集まるところでの待機には、他の人に迷惑をかけないことがだいじなのだと盲導犬のご主人は言う。
だから、口に入れるものは、場所も考えてコントロールするのだそうである。
時のコントロールは主人と犬とのあいだのことだが、場所のコントロールは世間とのかかわりの、もっとだいじなことなのだ。

狭い歩道でベタベタこぼれそうなアイスクリームを子供に食べさせる親、電車の中で鏡を持ち出し目の縁の塗装作業を始める女、世の中には、場所のコントロールを忘れた、目はついてあいているだけの人間がずいぶん増えてしまった。

贈る人

2010年12月07日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
日曜日の午後、ふだんはあまり見ないゴルフの中継録画が放送されている。今年最後というので、面白そうかなと思って付き合った。

賞金王の座を譲らなかった金、ゲームが終わった韓国人の柔らかい顔、なかなかよかった。
41歳の藤田が優勝、17・18番はさすが真摯歴戦のプレーヤーの戦い方だった。

それにしても、賞品を「贈る人」の姿は、ただ「渡す人」でしかなく、いかにもぶざまであった。
表彰するとき、受賞者の顔を見たか見ないか、おめでとうも言ったか言わないかのうちに、カメラのほうに気を取られてキョロキョロするだけ。それが二人出てきて二人とも。個性なら、これほど見事に合致するのも珍しい。

TVに映るなら、もう少しそれらしい振る舞いがあるだろう。
できなければ稽古をすればよい。
それもビッグイベントへの参加行為なのだから。

カネを出すこと、モノを贈ること、それでスポンサーの役が終わるわけではない。
こういう立派なスポンサーが、この大きなイベントを支えているのだと、見ている人みなが思わなければ、折角作った大型模型のキーの価値もぐっと落ちてしまうのだ。

環境

2010年12月06日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
鉄道線路の脇に、夏には涼しい木陰になる、静かな道があった。
ゆっくり歩いても1~2分で通り過ぎるほどの短さだが、そこを歩くと心が休まるのだった。

暑い夏が過ぎ、遅めの紅葉の季節に行ってみるとあの並木がない。
背丈を詰められ、大枝をもぎ取られた木が、これだけ残したぞと申し訳ふうに何本か、寂しげに立っているだけ。
落ち葉を踏んで歩くことのできた道は、これから舗装されるところ。
ふだんはほとんど車が通ることもなさそうな道だったが、舗装されて通りやすくなれば、抜け道を選んで走る車がすぐに増えるだろう。

エコ、エコと唱えながらの景気対策、失業対策。
排気ガス製造機をわざわざ呼び込んでくる、これが多分、環境整備と名のついた公共事業。

2010年12月05日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
風が強いので海の眺めが良いだろうと海岸に出る。
セイルを立てて波乗りを試みる、元気な二人のウインドサーファーがいた。
沖に出てしまえば波は砕けないから、強風に乗って早く走るだけで面白くないらしい。
岸に向かって波の高くなったときに乗りこなす、乗ったぞという気分はそのときにこそ味わえるのだろう。
何度か試みるが、立ったまま岸にはたどり着かない。
ひっくり返って、体は海に残され、道具だけが岸に打ち上げられることもある。
こういうことを危ないからと禁じてしまえば、計算しかできない若者が増える。

そのうちに諦めたか、厭きたか、二人揃って沖に行ってしまった。
沖は休息の場所であるのに、そこがまた危ないだろうと気遣うのは禁止眼。

プロアマ

2010年12月03日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
プロアマというプロとアマ混合の余興ゲームがときどき行われる。
野球ではこれが禁止されていた時期もあったらしい。

プロとアマとでは、技の差、力の違いは当然だが、ゲームの場に臨んだときに考えることの違いがいちばん大きいのではないかと思う。

プロはこうしようと考え、アマはこうなると嫌だと考える。
プロは立ち向かうほうに、アマは逃げるほうに、だから両者の差はどんどん開いていく。

何かといえばまず逃げを考える政治屋さんは、プロでなく、ただ担ぎ上げられただけのアマなのかもしれない。

参る

2010年12月02日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
何年も前のことだが、「海老様参る」こんなせりふをどこかで目にした。
それはかつて海老様だった父君へのファンの言葉だった。
参る、参りました、マイルはいろいろに使われる。
親にはファンの憧れの言葉であったが、子は威張って殴られぼやく言葉に。

さんざん持ち上げておいて、いきなり突き落とす。
三文芝居に似た筋書きを仕立て育ててドカンとやる。
この手は、囲碁で、相手の石を大きくしてから殺せという、あのやり口にどこか似ている。
図られとるのに気付かんのがボンボンのアカンとこや、と言われても仕方なかろう。