・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

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些々放言:17 訳文

2020年11月18日 | つぶやきの壺焼

訳文は、大意に齟齬がなければ一語一語にはさほど気を使わなくてもよいとする、おおらかな文化習性がある。

それは、訳される文章がどういうものであるかによって、適否が判断されなければならないのだが、文章を読み取る人の性格に、すべてその判断が依存されてしまうと、甚だ危険な条件を抱え込んでしまうこともある。

例えば国際間の協議事項で、もともと「自由」と表現されていた部分が、翻訳を繰り返しているうちにいつのまにか「平和」という言葉に入れ替わっていたらどうだろうか。
「自由」と「平和」は親戚のようなものだからと、あまり気にせずに「平和」という表現のままで多くの人に認められ普及されてしまう。

その協議のグループに、自由とは無縁の共産主義独裁国が入っていたとする。
独裁者から見れば、平和とは自分の思い通りに事が運び、さからいも争いごとも起こさせない状態であるから、自由を平和に書き換えれば協議の結果は大成功ということになる。

自由の定義には制限が伴っても、平和の定義は無制限野放しであれば、協議事項を盾にとって独裁行動は縦横無尽ということになるではないか。
くわばらくわばら。

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