・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

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オールドファッション

2010年08月15日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
論理と修辞を統合した文章作法を編み出したい、そしてそれを教え広めたいと唱える人がいる。
はて、そんなことができるのか、と考えてみた。

論理とは、正しい思考の形式、法則、思考の法則的なつながり、推論の仕方、論証の筋道ぐらいで説明がつくだろう。
しかし、こういう抽象的なことを指す言葉の説明は、食べ物の味の説明のようなもので、文字ですっかりあらわしきれるものではない。
それが証拠に、料理番組、グルメ番組などで口をもごもごやっている人から、適確な味の表現を聞いたことがない。食べてみなければ味はわからないのだ。
だから、論理とは何かなどと言って、いろいろ言葉を並べてみても、とことんわかるような説明などできるものではない。
文字を並べる方法では、これぐらいで説明がつくだろう程度のことしか言えないということになる。

では、修辞とはどういうことだろうか。
それは、修飾的な言葉を巧く適切に使って表現すること、言葉を上手に飾って、言葉の上だけでも表現対象が良いもの優れたものに見えるようにすること、言葉を読んだり聴いたりした人に、感動を与えるように、ある考えを有効に表現すること、ぐらいで説明がつくだろうか。
言えることは、修辞には、よく見せようという心が根底にあるということだろう。あることをこき下ろす手段をさして、修辞とは呼ばないだろうから。

ものごとを表現するとき、あるときは論理的に、あるときは修辞的にということはよく用いられる方法だと思う。
しかし、論理的、且つ修辞的などということができるだろうか。
そういう方法をとってみたいと考えるのは、論理では太刀打ちできない、あるいは受け容れられ難いから、別の表現方法で行こうというときではないかと思う。
よく言えば上手な話し方、悪く言えば口先でごまかすやり方ではないだろうか。
きれいな色や、甘い味のついた、形の良いものや、のどを通りやすいカプセルに包み込んだものにも、うっかり噛んだら大変だという苦い薬もある。正露丸糖衣のように。
だから、論理と修辞の合体も考えられなくはないが、薬は薬、カプセルはカプセルなのだ。一粒にまとまって一緒に口には入っても、薬とカプセルはやはり違うもの、統合も統一もされていない、組み合わさっているだけの状態なのである。

論理と修辞の統合などと、もっともらしい方法を編み出して、口当たりのよさを望む若い人に勧めれば、短期的には受け容れられるだろう。しかし、長持ちはすまい。
和風四川料理のようなもの、あるいは道徳的誘惑法のようなことは、一風変わった面白みがあっても、うその皮はすぐはがれる。
しかし、今ごろになって気が付けば、それに似た論法、舌鋒、文章作法は、決して新しい方法ではなく、既に永田町あたりの紳士方が、とうの昔に愛用し、むしろ脱がせ難いオールドファッションとして定着してしまっているではないか。