AWA311-MCW

安房医療介護福祉連携・東日本大震災支援の会

Report:4/7~8=東北に花を届ける活動に参加して(by 鳥居萌さん)

2012-04-19 10:36:43 | 日記
今回、父の付添いという形でこの被災地に花を植える活動に参加させて頂きました。
鳥居萌と申します。普段は大学で日本文学を勉強しております。

大震災から一年、初めて被災地に足を踏み入れ、
この目で実際に宮城県の現状を見ることになりました。
私の中でとくに強く印象に残ったのは廃墟と化した建物たちのことです。
気仙沼で、震災の被害を受けた病院に入らせて頂く機会がありました。
地震や津波の影響で部屋の中は荒れ果てているものの、
微かに残る生活感がそこにはありました。
廃墟というのは、時間が止まった場所です。
そこで暮らしていた人の影だけ残して、沈黙した場所。あまりにも静かです。
でも、そこに取り残されたものがあるような気がします。
普段は過ぎゆく季節とともに流れてゆく人の想いが、
時を止められてしまったばっかりに、そこに閉じ込められてしまっているような。
それらが建物の壁や床、ひとつひとつの部屋のドアに、椅子に、机に、人形に、
同じように閉じ込められた物たちに染みついて、その存在を主張してくる。
とても静かなのに、たくさんの声が聞こえた気がしました。
ここはいま、町全体がそんな状態です。

そんな場所がたくさんある被災地に、私たちは花を植えに行きました。
正直なところ、花は心を癒しても、傷は癒してくれないというか、
この廃墟と化した町の現状を見れば、気休めにしかならないのではないかという思いがありました。
(もちろん、気休めだとしても心が安らいで明るい気持ちに一瞬でもなれるのなら、
その価値は十分にあるし、やるべきだと思っていましたが、
被災地の方々の反応が全く想像できなかったので…。)
しかし、意外なほど喜んでくれた仮設住宅の方々に驚いてしまいました。
植えた花や苗木をとても優しい目で見つめ、嬉しそうに顔を綻ばせるその姿に、
こちらも温かい気持ちになりました。花によって心が通った気がしました。
花の力を実感させられたと同時に、不思議な気持ちにもなりました。
どうして人は傷ついた人に花を見せたくなったり、何もなくなってしまった場所に
花や木を植えたくなるのだろう。
私の好きな本の中に、こんな言葉があります。それは戦争を描いた物語で、
その中のひとつの台詞なのですが、以下がその引用文です。

「みんな争いに傷ついている
心を痛めて弱ってる
 だけど はっきりと壊れてしまった君を目の前にするとね
 みんな君に何かを見せたくなるんだ 何かいいものを
 例えば人を好きになるようなもの
 手の温もりの価値とか
 花をきれいだと思う心とか
 そんなに捨てたものじゃないんだって教えたくなる
 そして気が付いておどろくんだ…
 君に見せたいものが まだ自分の中にいっぱい残ってるんだって事に」
              (なるしまゆり『プラネット・ラダー』より)

 花や木を植えることは、自分の気持ちをそこに残すことなのだと思います。
癒すだけではなく、自分の中にある優しい気持ちに気づかせてくれる花。
たくさんの色んなものを失くしても、
自分の心の中には確かに残っているものがあるということを気づかせてくれる花。
そこに自分の気持ちを託すように、土に植えていく。
花を植えることは、その人の想いも一緒に、そこに残すことなのだと思いました。
やがて根付いて、その地で大きく育つように願って。
 ここには、時間がいくら流れても流されない「想い」があります。
廃墟に残された強い想いもいつか土に還って、根を下ろし、
花とともに芽吹けばいいなと思います。

稚拙な文章の上、長文になってしまいすみません。
今回私は役に立てたかどうかわかりませんが、花を植えることができて、
実際に被災地をこの目で見ることができて本当に良かったです。
参加させて頂いたことを感謝します。

 鳥居萌