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台湾・京都中心に最新のニュースをお届けします

新元号 京都市内で号外

2019年04月01日 | 京都のニュース

新元号が「令和(れいわ)」に決まったことを受けて、京都市では地元の新聞が号外を配りました。

京都市中心部の四条通では、大きな字で「新元号『令和』」という見出しが付けられた号外が配られると、買い物客や観光客たちが集まり、競うように受け取っていました。

新しい時代と昭和を重ねる人も多く、大津市の男子大学生は「自分にとって初めての元号が代わる機会なので違和感があります。昭和と似ている響きがあってなじみやすいような気がします」と話していたほか、京都市内の40代の女性も「『和』は昭和とも同じ字なので昭和を引き継ぎながら次の時代に向かっていくような思いが込められているように思います」と話していました。

京都市内に住む8歳の男の子は「『和』という字が入っているので、戦争のない平和な時代が続いてほしい」と話し、母親も「発表されてすぐに万葉集の本をめくって子どもたちと一緒に出典の和歌を探しました。子どもたちが生き生きと過ごせるような幸せな時代になってほしいです」と期待を込めていました。

また、横浜市から観光で訪れたという70代の男性は「やわらかい響きだなという印象を持ちました。『令』は意外で、意味が難しいですが、『和』は『和をもって貴しとなす』とか平和の和とか、日本らしさと良い印象を持っているのでいい元号だなと感じます」と話していました。

京都市内の50代の女性は「きれいな音だなと思いました。令という字にどういう意味があるのかと気になっています。『和』の字のように助け合えるような時代になってほしいと思います」と話していました。

また50代の男性は「『令』も『和』もきれいな美しい元号だと思いました。礼節をわきまえて、平和を求めるような印象を受けています。日本が世界により羽ばたいていけるような時代になってほしいです」と話していました。

一方、男子中学生は「『へいせい』の4音に慣れているのでリズムが悪いように感じます。災害などのない、平和な時代になってほしいと思います」と話していました。

【自動車税納税通知書も「令和」に】
京都府は、府内の自動車税の納税通知書およそ70万通を、新しい元号「令和」で来月1日に発送することにしています。
新元号に対応できるよう印刷業者と調整を重ね、今月12日までにシステムを改修するめどが立ったとしています。

【京都新聞】

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新元号 令和キャンディーを販売

2019年04月01日 | 京都のニュース

新元号が「令和(れいわ)」に決まったことを受けて京都市内のキャンディーの専門店では「令和」と書かれたキャンディーの販売を始めました。

京都市東山区のキャンディーの専門店では新元号の発表を受けて漢字で「令和」と書かれたキャンディーの製造と販売を始めました。

細長い棒状にのばしたキャンディーをカットすると、白い断面に黒字で「令和」の文字が現れ、訪れた人は写真や動画に収めていました。

7歳の娘とともに大阪・枚方市から訪れた30代の男性は「記念になるので買おうと思いました。『令和』は意外な感じがしましたが、平成に決まった時のようにしばらくしたら慣れてくるのではないかと思います。一人ひとりが輝くような時代になってほしい」と話していました。

宇治市の20代の女性は「『令和』には、平和につながっていく願いがこめられているように感じました」と話していました。

【京都新聞】

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新元号 仁和寺の駒札に書き入れ

2019年04月01日 | 京都のニュース



世界遺産に登録されている京都の仁和寺では、法要を知らせる駒札に新元号が書き入れられました。

宇多天皇によって平安時代の仁和4年(888年)に創建された京都の仁和寺は、元号を寺の名前とする「元号寺」として知られています。
仁和寺は、国の重要文化財に指定されている観音堂の修理を終えて、来月、落慶法要を行う予定ですが、日程を知らせる駒札には「元年」とだけ記し、元号の部分は空欄にしたまま残していました。

1日は、午前11時40分すぎに新元号が決まったことが伝えられると、仁王門の近くに立てられた駒札に僧侶が筆で「令和」と書き込みました。
集まった人たちは新元号が入った駒札にカメラを向けて撮影していました。

仁和寺の瀬川大秀門跡は、「仁和寺は元号から名前をいただいた寺ですが、また『和』という字をいただき非常に感激しています。未来に夢が持てる時代になるよう、仁和寺から『和』の心を発信していきたいです」と話していました。

【京都新聞】

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平成最後の花街絵巻、芸舞妓ら祝意の舞 京都・祇園甲部と宮川町

2019年04月01日 | 京都のニュース

京おどりの前夜祭で華やかに宮川音頭を披露する芸舞妓たち
(31日午後、京都市東山区・宮川町歌舞練場)






春の京都を彩る花街の舞踊公演、祇園甲部の「都をどり」(1~27日)の大ざらえと、宮川町の「京おどり」(1~16日)の前夜祭が31日、京都市内で催された。華やかな衣装の芸舞妓が桜花の咲き誇る舞台に立ち、天皇代替わりへの祝意も込めて踊りを舞った。

 都をどりは、祇園甲部歌舞練場(東山区)が耐震化に向けて休館中のため、67年ぶりに近くの南座で公演する。

 大ざらえは稽古の総仕上げで、歌舞伎の始祖とされる出雲の阿国にまつわる演目などからなる「御代始歌舞伎彩(みよはじめかぶきのいろどり)」(全8景)を披露した。フィナーレは皇室ゆかりの門跡寺院、大覚寺の桜を背景に、全出演者が登場。かつての南座公演の着物を模した復刻衣装を芸舞妓がまとい、平成最後の公演を彩った。

 京おどりの前夜祭は宮川町歌舞練場(同区)であり、創作舞踊劇と天皇代替わりをことほぐ踊りなどの「夢叶(ゆめかなう)京人形」(全8景)を上演した。

 前半が、児童小説「不思議の国のアリス」を基に、歌舞伎の「京人形」を取り入れた舞踊劇。姫のまりを取り戻そうと、小姓が人形たちとあやかしの住む洞穴に入って探すあらすじで、踊り舞いながら描く。フィナーレは恒例の「宮川音頭」で、桜満開の京都御所を背景に総踊りを繰り広げた。

 いずれも連日3回公演。祇園甲部歌舞会075(541)3391、宮川町歌舞会075(561)1151。

【京都新聞】

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小野小町めぐる悲恋、かれんに舞う 京都・隨心院「はねず踊り」

2019年04月01日 | 京都のニュース

薄紅のはねず色の小袖をまとい踊りを披露する子どもたち
(京都市山科区・隨心院)



小野小町の伝説にちなんだ「はねず踊り」が31日、京都市山科区の隨心院で開かれた。薄紅色を意味する「はねず色」の小袖をまとった子どもたちが、愛らしい踊りを披露した。

 はねず踊りは、深草少将が小町を慕い、小野の里に通い詰めた悲恋の伝説にちなむ。大正時代に廃れたが、1973年に地元有志が復興した。毎年、梅の花が咲くころに小町ゆかりの同寺で開かれている。

 この日は、地元の小学4~6年生15人が、境内に設けられた舞台に、花がさと薄紅色の小袖を身につけて登場。伝説を基にしたわらべ歌に合わせ、かれんに舞った。参加した小野小6年平野凛さん(12)は「全員で合わせて踊るのが難しかった」、同6年戸井千尋さん(12)は「きれいな色の着物がうれしかった」と話していた。

【京都新聞】

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天保生まれ「嘉多丸君」初のお出かけ 京都・祇園祭の稚児人形

2019年04月01日 | 京都のニュース

函谷鉾保存会役員らに抱えられ運ばれる「嘉多丸君」



祇園祭の函谷(かんこ)鉾(京都市下京区)の稚児人形「嘉多丸君(かたまるきみ)」が31日、京都文化博物館(中京区)での展示のため1839(天保10)年の制作以降、巡行以外で初めて町外へと「外出」した。普段着の嘉多丸君は函谷鉾保存会の役員らに慎重に運ばれ、同館に向かった。

 嘉多丸君は祇園祭の稚児人形の先駆けとされ、身長約120センチ。稚児人形制作の依頼を受けた仏師七条左京が、昭憲皇太后の兄で当時子供だった一条実良(さねよし)(1835~68年)をモデルに手がけた。通常は蔵のある函谷鉾ビルに安置され、前祭(さきまつり)巡行でのみ鉾前部に乗り京の町へと出掛ける。祇園祭が始まって1150年の節目であり、嘉多丸君制作180年でもあることから、同館の「祇園祭―函谷鉾の名宝」展での陳列が決まった。

 嘉多丸君の移動は、ほかの展示品の積載が終わった後に始まった。普段着の青い着物に、はかま姿の嘉多丸君は函谷鉾保存会の役員らが押す台車に乗せられビルを出て、抱きかかえられトラックに乗った。

 「函谷鉾の名宝」は6日から6月16日で、嘉多丸君は5月12日までの前期のみ展示(毎週月曜と5月7日休館。4月29日と5月6日は開館)。入場料が必要。

【京都新聞】

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新元号は「令和」 出典は「万葉集」

2019年04月01日 | 国内のニュース



平成に代わる新しい元号について、政府は1日の臨時閣議で「令和(れいわ)」とすることを決め、菅官房長官が発表しました。また、「令和」の典拠、いわゆる出典は日本最古の歌集である万葉集であると発表しました。元号は、皇太子さまが天皇に即位される来月1日に「令和」に改められます。

政府は1日午前、総理大臣官邸で、各界の代表や有識者からなる「元号に関する懇談会」を開き、新しい元号の複数の原案を示し意見を聞くなどしたうえで、臨時閣議で新しい元号を「令和」とすることを決定し、菅官房長官が午前11時半すぎからの記者会見で発表しました。

この中で、菅官房長官は「さきほど閣議で元号を改める政令、および、元号の呼び方が閣議決定された。新しい元号は令和であります」と述べ、書を掲げて、平成に代わる新しい元号を「令和」に決定したと発表しました。

(出典・万葉集の梅花の歌、三十二首の序文)

『初春の令月にして気淑(きよ)く風和(かぜ やわらぎ)梅は鏡前(きょうせん)の粉を披き蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす。』から引用しました。

菅官房長官は記者会見で、新しい元号の考案者について「考案者ご自身が秘匿を希望していることに加え 考案者を明らかにすれば新元号と特定の個人との結びつきが強調されることになりかねないため、お答えは差し控えたい」と述べました。

また、懇談会で出された意見や原案の数について質問されたのに対し、「意見聴取の場でどんなご意見があったかについてお答えすることは差し控えたいと思う」と述べました。

また、「新元号が日本人の生活の中に深く根ざしていくためには、他の案と比較して議論されることは適当でないと考えており、新元号として決定されたもの以外の案については、その数も含めてお答えは差し控えたい」と述べました。

そのうえで、「いずれにしても、今般決定された新元号が広く国民に受け入れられ、日本人の生活の中に深く根ざしていくよう努めていきたい」と述べました。

日本の元号は、研究者によりますと、「平成」までの247すべてが中国の古典を典拠としているとされていますが、日本の古典から引用されたのは初めてだということです。

新元号を定める政令は1日中に天皇陛下の御名・御璽(ぎょめい・ぎょじ)、いわゆる署名・押印を得て公布され、元号は、皇太子さまが即位される来月1日に「令和」に改められます。

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【速報】新元号 発表

2019年04月01日 | 国内のニュース

菅官房長官による新元号 「令和」 を発表しました



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横浜中華街の華僑学校、老朽化した校舎建て替えへ 4月に着工

2019年04月01日 | 台湾ニュース

着工式に参加する謝長廷代表(右側の真ん中)



横浜中華街の華僑学校「横浜中華学院」現在の校舎



2021年4月の運営開始を予定する横浜中華学院の新校舎



(横浜 31日 中央社)122年の歴史を誇る横浜中華街の華僑学校「横浜中華学院」が30日、新校舎の起工式を行った。同校の羅鴻健理事長代理は、横浜の華僑界は新校舎建設を心待ちにしていたと述べ、2年前から寄付を募り始め、やっと起工式にこぎ着けられたと喜びを示した。

同校の前身は、中華民国建国の父、孫文が1897(明治30)年に日本に初めて創設した「中西学校」で、数度の改名を経て現在の名称となった。校舎は関東大震災や第2次世界大戦などで幾度も失われ、その都度建て替えられてきた。現在の校舎は1968(昭和43)年に完成したもので、すでに老朽化が目立ち、改築が待たれていた。着工は4月1日で、来年12月に落成する予定。

式典には中華民国僑務委員会(僑委会)の呉新興委員長や謝長廷駐日代表(大使に相当)も出席。謝代表は、華僑界で活躍する卒業生を輩出する同校の重要性を強調。僑委会や華僑界に対し、同校の教育や日台文化交流を支持してほしいと呼び掛けた。

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台北MRT、利用者100億人達成 該当者は「名乗り出」が必要

2019年04月01日 | 台湾ニュース

混雑する台北メトロ



(台北 31日 中央社)台北メトロ(MRT)は31日、累計利用者数が同日午前11時35分に100億人を突破したと発表した。100億人目が現れたのは中和新蘆線の新荘駅。該当者には記念として、1年間無料で台北メトロに乗車できるほか、3万台湾元(約10万7000円)相当のノートパソコンが進呈されるが、自分から名乗り出る必要がある。

1996年3月に開業した台北メトロ。現在は文湖線、淡水信義線、松山新店線、中和新蘆線、板南線の5路線に117駅が設けられている。この中からどのように100億人目となる人を確定したかについて、同社の広報担当は通勤・通学に広く普及している交通系ICカード利用者を対象とし、駅に「入って出た」場合を1回と見なして統計を取ったと説明。

一方で、無記名のカードも多く、個人の特定が難しいという難点にも言及。同社のホームページで番号が公表されているとし、ぜひ自身のカード番号と照らし合わせて名乗り出てほしいと呼び掛けている。

ホームページには、惜しくも前後した計10人の番号も併せて公表されており、該当者には記念品として、90日間有効の無料パスが贈られる。

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米津玄師、台北でツアー最終公演「またすぐ来る」とファンに約束

2019年04月01日 | 台湾ニュース

台北でツアー最終公演を行う米津玄師



(台北 31日 中央社)日本のシンガーソングライター、米津玄師が30日、台北市内で、アリーナツアー「米津玄師 2019 TOUR /脊椎がオパールになる頃」の最終公演に臨んだ。台湾でのライブは初めて。会場となった台湾大学総合体育館には、約3000人のファンが詰め掛けた。

ステージは新曲「Flamingo」でスタート。米津は約2時間にわたり、「LOSER」「Lemon」「打上花火」など24曲をほぼ休みなく立て続けに熱唱。途中に挟んだ短いMCでは、当日の会場について「これまでのツアーの中で一番小さい」と一言。会場からは失笑が漏れたが、続いての「小さいからこそみんなの熱気が伝わる」という一言で場の雰囲気が瞬時に加熱し、後半はさらに盛り上がった。

最後のあいさつでは、口下手だからと言葉を選びつつ、「今日は最高な1日になった」とはにかんだように語った米津。「またすぐ来るから、その時を楽しみに」とファンに約束すると、大きな拍手と歓声が沸き起こった。

客層は若い世代を中心に、台湾人のほか、日本人や西洋人の姿も見られた。2人連れの台湾人女性は「とても良かった」と親指を立て、そのうちの一人は流暢な日本語で「日本語が早すぎて聞き取れない部分もあったけれど楽しめた」と語った。台湾で仕事をしているという日本人女性は、チケットを入手するのがとても大変だったというエピソードを明かしつつ、「それでも見る価値があった」と満足げに笑った。

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外交部、日本の新元号「通知されない」とする一部報道を否定

2019年04月01日 | 台湾ニュース

発表と同時に台湾に通知される



(台北 31日 中央社)台湾の一部メディアが30日、日本の外務省が新天皇の即位に伴う新元号を諸外国に周知する際、台湾は通知してもらえないと報道した。これを受け、外交部(外務省)は31日に書面で、発表と同時に通知される旨の連絡を日本の対台湾窓口機関、日本台湾交流協会から受けていると説明。検証をしていないとして報道内容を否定した。

日本の外務省は、4月1日に新元号が発表された後、日本が承認する195カ国や国際連合、欧州連合(EU)などに一斉に通知をする方針を明らかにしている。報道では、195カ国には中華民国(台湾)やパレスチナ、北朝鮮が含まれていないと伝えられていた。

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台湾の火葬率過去最高の96.3%=内政部 墓参りの日間近

2019年04月01日 | 台湾ニュース

お墓参りする人々



(台北 31日 中央社)先祖のお墓参りをする4月5日の清明節を前に内政部(内務省)は29日、台湾での火葬率は2017年の時点でこれまでの最高となる96.32%に達したと発表した。

かつて土葬が主流だった台湾。面積の割に人口が多いため、政府は2001年から火葬率の向上に取り組んできた。そのかいあって火葬率は1993年の45.71%から2017年にはその2倍強ほどの水準にまで上昇した。

同部によると、高齢化に伴った死亡者数の増加により、近年、埋葬に関する人々の考え方が変り、従来の土葬より環境に優しい樹木葬や水葬を受け入れる人も増えている。現在、各地で自然葬を実施できる場所は計36カ所あるという。

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お寺でショパン、ツバキも満開 芸大生の演奏楽しむ 亀岡市

2019年04月01日 | 京都のニュース

「椿コンサート」(亀岡市曽我部町・真福寺)



京都府亀岡市曽我部町の真福寺で30日、「椿コンサート」が催され、訪れた人たちは満開となった境内のツバキを眺め、ピアノのメロディーを堪能した。

 ツバキの観覧とともに、クラシック音楽を楽しんでもらおうと毎年開催。満林晃典住職(49)の知人が教員を務める縁で、京都市立芸術大の学生を招いている。

 演奏したのは、ピアノを専攻する2年東坂萌里さん(21)と、3年増永弦さん(21)。本堂内にショパンやシューマンの旋律が流れ、約70人が美しい音色に聴き入りながら、窓越しに雨に濡れるツバキを見つめていた。

 亀岡市中矢田町に住む東坂さんは「2人で演奏するのが夢だったので、とてもうれしい。コンサートを機にクラシックに親しんでもらえれば」と話していた。

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改元めぐる京都秘史 京の学者、幻の「文思」案 平成誕生前

2019年04月01日 | 京都のニュース

日本の公年号に使われた漢字と頻度



時を司(つかさど)る。その伝統はかつて京都にあった。

 時代を名付け、時代を区切り、世の空気を変えようとする古いしきたり。元号は時代の歯車を動かす象徴とされた。海亀の甲羅を焼き占った江戸期の大嘗祭(だいじょうさい)の仕儀や「改元部類記」を、京都の社家や旧公家は伝えてきた。昭和まで京都は「即位の地」だった。

 中国の影響を受けて、日本では孝徳天皇の「大化元年」(645年)から、元号制度を始めた。珍しい亀が見つかった、天災や不吉なことがあったなどの理由で1人の天皇の治世で何度も改元した例も多い。漢字4字の年号もあった。日本の古典から引用した例は過去ない。

 江戸時代、京都の公家が中国の古典から年号を選ぶことを「難陳」といい、当時から「閑議論なり」などと批判があった。「平成」は元治2年(1865年)にも年号候補の一つになっている。明治政府により、中国の清朝にならった「一世一元」が制度化された。

 「平成」に年号が決まったプロセスは極秘裏に進められた。昭和天皇が亡くなったその日の午後、新元号が発表された。誰が、どう関わったのか。なぜ深く秘する必要があったのか。

 1984(昭和59)年。京都市左京区北白川を、内閣内政審議室長が密かに訪れた。訪問先は貝塚茂樹・京都大名誉教授宅。東洋史の碩学(せきがく)で、弟はノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹。

 貝塚氏は、新元号案の考案者になるよう依頼された。貝塚氏は仏文学の桑原武夫・京都大名誉教授らと元号法制化への反対声明に署名したこともある。しかし、元号考案を引き受けた。


「文思」 「天章」 「光昭」

 提出した3案。第1候補は、書経から選んだ「文思」だった。

 過去に使用例がなく、国民の理想にふさわしい漢字2字。出典も問われる。元号案は難題だ。孫は「平成になってから、祖父が元号考案に関わったと祖母から聞いた。『文思』だけ教えられ、祖母と2人でいい字だと話した記憶がある」と振り返る。

 だが貝塚案は幻に終わった。

 「平成」の元号制定に関わった当時の竹下登首相、小渕恵三官房長官(のち首相)ら限られた数人のうち1人が、内閣内政審議室長となった的場順三氏。大津市出身で膳所高から京都大卒。前任者から引き継がれ、元号を提出した後の貝塚氏宅を密かに何度も見舞った。「候補案は目にしましたよ。しかし、経緯を自分の口からは言えない」と的場氏は語る。

 「お願いした学者の方々にも迷惑がかかるので。しかし20年が過ぎたら、誤った話が流布しないよう、一定明らかにしようと竹下さんと約束した。『平成』の考案者は山本達郎さん=東京大名誉教授、東洋史=です」。元号に込めた思いとは何か。重い口を開いた。

 「元号は新しい時代へ向かう縁起が良いものなので、物故者の案はふさわしくないとの声があった。一方で、この人なら、と学者の間で納得する方でなければならない。秘匿しようということになった。別の京都の学者にも依頼したが、断られた。『名誉なことだけど』と少し考えておられたが、重かったようだ」。昭和天皇の病状が重くなる中、「当時、私は常に漬物石が頭にぶら下がった状態だった。前任者からは『自分でなくてよかった』と言われましたよ」。

 最終的に官邸にあったのは3案。「正化」「修文」「平成」だった。昭和天皇が崩御した日に有識者懇談会を経て竹下登首相らが決定、官房長官が新元号を発表した。即日改元ではなく翌日に改元したことや「皇室行事」といった言葉使いに対し、的場氏は「関西の右翼団体から、何度も脅しを受けましたよ。不敬だと。命の危険もあった」と話す。

 四書五経を声に出して読む素読。かつて東洋の文人共通の教養だった。元紀州藩士だった祖父に、小学校へ通う前から素読をたたき込まれた貝塚茂樹氏は、京都大卒業後、京大人文科学研究所で甲骨文字に代表される出土資料に着目した研究に没頭した。「史記」「論語」の訳注を始め、日中の比較文化や中国近代史にも造詣が深い大家だ。

 元号案は昭和の終わりごろ、首相が選んだ数人の有識者が各2~5案を提出した。元号法に基づき、国民の理想としてふさわしい良い意味▽漢字2字▽過去に元号として用いられていない-などと1979年に閣議決定されている。貝塚氏もこれを踏まえ、「文思」「天章」「光昭」の3案を提出したとされる。

 3案のうち、文思は、中国の代表的な古典である五経の一つ「書経」の中の「放勲欽明 文思安安」から取った。

 天章は、中国最古の詩集「詩経」の一節にある「倬彼雲漢 為章于天 周王寿考 何不作人」を引いた。「大きく浮かぶ天の川は、天上界にあやをなす。周王よ、いつまでも人の命をながらえたまえ」と訳され、次の時代への希望を込めたと考えられる。

 光昭は、「春秋」の解説書である「左氏伝」のうち、「光昭先君之令徳 可不務乎」が出典。

 貝塚氏は、62年に出版した著書「山荘旬日」の中で、元号について触れている。

 ≪昭和の年号をつけるか、西暦によるかなどというような問題は、われわれの年代の人間にとってはかなり重大な問題である。年号は日本、中国では天皇制、皇帝制に直結した重要な制度であったのであるから≫

 「われわれの年代」。中国文化に親しみ、漢学者を尊敬していた貝塚氏の目に、日中戦争へと突き進む日本はどのように映ったのか。戦争で仲を切り裂かれた、学問を通して交流した中国人の友人たち。第2次世界大戦では、末弟の小川滋樹氏を戦病死で失った。

 「貝塚先生も軍人が威張っている世の中や、軍事的主張を嫌っていた。当時の学者はみんなそうだったでしょう」と教え子はつぶやいた。「文という字を元号に使ったところに、貝塚先生の強い気持ちが表れている。平和への願いを込めた案だったのでしょう」

 改元は「天皇の崩御」が前提となるため、昭和に政府から考案者として委嘱された学者たちは口を閉ざした。貝塚氏は87年に他界した。

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