Be Natural

気取りも なんのてらいもなく  あるがままの自分を 感性の赴くままに そんな独りよがりの書き捨て日記です。

今さらながらFilipino Hospitalityに感激した旅 前半

2022-07-07 18:12:31 | 旅行

【いつもながらの備忘録がわりの思い出を残してるだけですので予めご了承ください】

現在から遡ること35年前の

1987年から1989年の間

当時日本の政府開発援助の中でその予算と規模において2番目と言われた

巨大プロジェクトのプロジェクトコーディネーターとして

赴任していた時代がありました。

(フィリピン共和国のレイテ島)

(レイテ島は、第二次世界大戦末期にレイテ沖海戦がありマッカーサーがプライドかけて上陸した土地)

(またマルコス大統領夫人のイメルダの出生地)

その島の北東部、隣のサマール島の間にかかるサンファニコブリッジの袂に

マルコス(イメルダ)プロジェクトとして1980年17ヘクタールの敷地に船員の再教育機関として訓練所が建てられ

1985年に日本の政府開発援助(ODA)のプロジェクトとして

当時日本のODAで二番目(一番目は中日友好病院)となる巨費を投じ

鳴り物入りで開始されたのですが・・・

翌年の1986年のEDSA革命によってマルコス政権が打倒され

マルコス一族とそのブレイン達はみなハワイに亡命し

 

大統領令によって船員全てが再教育を受講してSTCW条約に則った免状を持って

世界の海運界へ船員を送り出そうとしていたその矢先に

革命が起こる原因となったアキノ大統領暗殺後

 

ただの素人のオバサンであるコラソン・アキノが大統領となり

マルコス=イメルダ憎しで出身地であるレイテ島への支援などなるものかと

始まったばかりのプロジェクトも暗礁に乗り上げてしまったのです。

 

(毎朝朝礼と国歌斉唱&国旗掲揚のセレモニーがありました)

(↓このメインビルディングの二階、バルコニーにあるロゴの隣の部屋が私の執務室)

そんな背景からプロジェクト計画が頓挫してしまい

約2年間の赴任中

日本大使館、JICA事務所、現地側関係省庁(労働省、教育省、運輸局、船員保険機関などなど)

と業務調整するためにマニラを往復すること数十回(たぶん6・70回じゃきかないかも

 

なんせ当時は、マニラとの直通電話も通じない時代で

急ぎの要件があれば電話局に行って申し込みをしてブースから電話するだけ

相手が不在だったら通じないしで埒が明かず

 

関係機関の動向を探ったり、月例のボードミーティングに備えて根回しのため

一日に2往復、それも3・4時間遅れが当然の飛行機を使って

直接出向くしか方法がありませんでした。。。

(そんな訳で、実際には月の1/3をマニラで過ごしてました

 

↓ これは赴任前に調査団の一員として訪問した時の写真

公式な会議となると 交換公文が交わされるのですが

日本側はJICAの事務所長に大使館の一等書記官

フィリピン側は一時は大統領候補ともいわれたフランクリン・ドリロン労働省長官と事務次官と錚々たる面々

そんな現地生活だったのですが

お休みが取れると 家内と息抜きにCebuでゴルフやボホールなどへ国内旅行にも出かけていましたが

普段は定時でほぼ全員が帰宅する中、一人残って書類作成や事務処理に追われてました。

まだ若干29歳で当時最年少専門家と言われ

日常会話はそれまでの経験で不安はなかったものの

公文書を作成したり国際会議で議論できるほどの能力を持たず

前任者が年齢も40代で阪大法学部出の英語力も達者な人物だったので

比較されて見下されないかなぁと不安を感じながらの二年間だったのですが

 

なんせ大雑把な性格なので

得意の”なるようにしかならん”精神で

マルコスのブレインだった人物の別荘

(5ベッドルームの豪邸でマニラの日本大使公邸より広いかもと言った人もいました)

を借りて

若くして身分不相応な高給がいただけるのも、みんなのおかげと

普段もレイテ島に居る時はほぼ毎日にように来客があり

年に数回は職場のインストラクターは勿論のこと、

事務職の職員や地元の知人達百人以上のゲストを招いて

 

ケータリングの食事と数十ケースのビールやソフトドリンク

出張ディスコまで頼んで大パーティーを開いていたため

多くの人から親しみを感じてもらい

いつまでも覚えていてくれていたのもあって

 

 

半年ほど前、レイテ島の現地インストラクターの一人で

その後仕事関係でもずっと世話になってきたフィリピン人の友人から

FBのメッセンジャーで連絡が入ってきました

 

内容は

ボホール島で昔の仲間が集まる企画があって

共通の仲良しであるMYさんとMNさんからも

『Masaさんと奥さんも参加しませんか?』とのお誘いがあるですけどどうしますかとのこと

 

まだコロナ禍で海外に出られるかもわかない状態だったので

もしフィリピンも日本も入国・出国に支障なかったら

参加したいと思ってるけどねぇ~

 

と回答したところ

 

アレヨアレヨと言う間に

話がすすみ 5月23日~27日の日程に決まったので

マニラ~ボホールの航空券とホテル予約しとくからね との返信

 

ただこの私

先先から予定を立てると何故かポシャってしまう運命にあるようで

その昔も仲良しの恩人と旅行の計画を立てていたところ

断れない海外での緊急要請が入ってしまい

ドタキャンしてすっかり信用を無くした経験があったため

 

行きたい気持ちはありながらも

直前まで確定はしておかないように

との予防線を張るクセがついていたのですが・・・

 

その後ウクライナ情勢も加わって

仕事も急に予定が入りだし

果たして無事出発できるだろうかと不安になりつつも

 

状況をみて5月の第一週頃に航空券を買うから待っててねと回答したところ

フィリピン国内での移動許可やホテルの受け入れ確認の手続きをしてくれることになり

お尻に火がついてようやく国際線のチケットを購入

 

現地の航空券をネット購入しようとしたところ

最近ハッカーに狙われてたようで

どうにもクレジットカード決済ができず

現地で支払うから立て替えて予約してくれる?と頼んだところ

快諾してすぐにE-チケットを送ってくれて一安心

 

搭乗にはワクチンの接種証明が必要とのことで

奈良市の保健所に電話して

通常郵送で数日かかると言われた英文の証明書を

保健所に乗り込んで翌日発行してもらい

フィリピンの検疫WEBサイトに登録し

出発48時間以内の抗原検査の陰性証明を取得

当日、無事成田でチェックインを済ませ

現地で感染が判明した場合の滞在延長や医療費を含む諸費用が担保されるように

海外旅行保険の加入も必須アイテムだったので

空港の自動加入機で加入したところ 

いまどきのことでペーパーレス(和文のメールが届いただけ)

 

マニラの検疫で保険加入の証明の提示を求められたらどうしよう?

と焦って空港内の保険代理店に電話して英文の紙を作成してもらい

とりあえずホッと胸を撫で下ろしました

 

マニラの空港検疫が厳しかったら相当時間かかるだろうなぁ

と覚悟していたところ

 

なんとワクチンの接種証明と抗原検査の陰性証明書類を確認しただけで

アッというまに入国できてしまいビックリ

 

さて、話を戻しまして

今回は遊びなので格安航空券を探したため

ANAながら 伊丹→羽田・・・・成田→マニラの乗り継ぎ便 それも羽田から成田の移動込み

 直行便なら4時間程度のフライトなのに

なんとこの日は 伊丹~マニラまでの所要時間 なんと11時間

(自宅からだと約14時間)

 

今回初めてのT3だったため

ターミナル内のトランジットホテルを探すのに相当手間取りましたが

ようやく見つかり ホッと一息

料金は、夜中の23:00~朝の6:00までだったかな?

カプセルがP1,000で 2段ベットP1,800

(日本円で約5,000円弱

安普請でほとんど防音効果なしのうえ

マナーの悪い客の大声での話し声や子供の笑い声が響き

とうとうほとんど寝られませんでした。。。

 

当初は、空港周辺のホテルを使うことも考えたのですが

翌朝はボホール行の飛行機に乗るためにトンボ返りしなきゃいけないし

面倒臭いタクシーの値段交渉に移動時間、ホテルでのチェックイン/アウトの手間

そのうえターミナルへの入場の大行列を思うと

『ベンチよりかマシか』とこのトランジットホテルを決めたのですが

悩ましいところです。

 

ということで

朝5時起きしてシャワーを浴び

どこかで朝食食べよかなぁと

たしか9時半ごろのフライトだったから

チェックインはのんびりしたらいいやとタカをくくっていたところ・・・

トランジットホテルに泊まるから 早朝のフライトでいいやと

6:00発の便を予約してもらってたのをすっかり忘れてて

チェックインカウンターに並んでいたところ

搭乗締め切りのアナウンスが流れ 大焦り

 

結局ゲートが閉まってしまい

 

ボホールに先着しているフィリピン人の友人に電話して事情を話し

航空会社のカウンターで乗り遅れたことを説明して

次の便を予約してもらいましたが

歳とって思い込みが激しくなっちゃったんだなぁ。。。とガッカリ

そんな経緯もあって

今度は、航空会社のCebu PacificからSMSでしっかりリマインドしてくれました

ようやく飛行機に乗れてホッとしました~

 

マニラのNAIA(ニノイアキノ国際空港)もすっかり手狭になって

2本の滑走路では 3つのターミナルを発着する飛行機をさばききれず

離陸も着陸も順番待ちで30分程度の遅延は日常茶飯事

この日も結局 30分ほど遅れて到着

空港に出迎えを頼んでいると聞いてたため

到着ロビーを出てウロチョロしていると



名前が書かれた紙と今回のツアーメンバーが全員で待っててくれてビックリ
 

午前中からツアーが計画されていたようで

何度も乗り遅れたことをお詫びしてバンに乗り込み

最初に向かったのがLobocの教会

丁度年に一度のFiestaで

この教会特有の踊りながら祈りを捧げている信徒達の姿に思わず微笑んでしましました

このBoholで二番目に古い歴史ある教会

2013年10月15日にマグネチュード7.2の大地震によってほぼ倒壊し

2021年5月に7年の歳月を経て修復され再開されたものの

2021年12月に再び台風によってLoboc Riverが氾濫し

周辺の家屋を含め水没してしまったのですが

そんな被害に遭ってたとは微塵も感じさせませんでした。

 

その後、今回の同窓会ツアーの立案者であるプロジェクト時代の友人のファミリーの

おもてなしをご馳走に

到着が遅れてしまったため 

レチョン(豚の丸焼き)は皮がほとんど残っていませんでしたが

それでも久しぶりのフィリピン料理に舌鼓を打たせていただきました

 

Fiestaでは、家族親類縁者は勿論のこと、通りすがりの知らない人でも家に招き

お腹いっぱい食事をふるまうのが喜びとされているため

 

ほぼ毎日にように全国各地で催されるFiesta巡りをしていれば

飢え死にすることはないと言われるほどなんですよ。

(フィリピン人のHospitalityの原点って感じです)

 

このバナナの葉に包まれた糯米をココナッツミルクで炊いたデザート(Suman)

がまた絶品なんです

https://pilipinasrecipes.com/suman-malagkit-recipe/

 

 

このお宅でおもてなしを受けてから

市長の家に行こうと言うことになり

そこでも またまたおもてなし

 

はち切れそうなお腹を抱えて

Bohol 最古のキリスト教会(Baclayon Church)を見学

この教会も地震の被害と半年前の台風でも川から離れているため

水没するようなことにはならなかったものの

屋根が壊れて修理に追われていました。

続いてお土産物屋さんに

(日本と同じように多分キックバックがあるのかな?)

そして これまたBohol島の名所のひとつ

Blood Compact Marker

侵略者スペインの初代総督レガスピとボホール島の酋長が

互いの血を注いだ盃を交わしたところで

友好の証なんだそうですが

普通なら憎むべき侵略者となる筈じゃないの?って思いながら眺めてました。

 

その後

レイテ島の航海訓練所で機関科の長をしていた職場仲間の家を訪問

ほとんどのインストラクターと同じように

船乗りとして復帰し、長年機関長として働いてから

地元でガソリンスタンドを経営しているのですが

既に築20年のプール付きの大豪邸でビックリ

 

ホームバーにシアタールームもあり

広々としたリビングやダイニングに驚かされました

御年93歳の義母(奥さんのお母さん:元教師)の食前のお祈りで

またまた おもてなし料理

 

いや~ 食べて飲んでの一日でした。

 

その後ようやく宿泊先のリゾートホテルにチェックイン

一人なのに コテージのこんな広い部屋に泊めていただきました

 

サンゴの島で塩分濃度の高いシャワーでしたが

汗を流してエアコンの効いた部屋で

前日からの移動疲れと 寝不足もすっかり快復

 

二日目は、朝6時に出発なので朝食は5時半

メンバーの一人がツアーガイドさんに『それは日本時間かフィリピン時間か?』

と尋ねると、『勿論日本時間(時刻通り)』と言っていたのですが

レストランの提供が遅れて やっぱり出発は6時半となりました(笑)

ホテルのビーチにBangka(フィリピン特有のダブルアウトリガーボート)が迎えてきていて乗船

西南西に向けて船を走らせていると

前方にマンタがジャンプする光景が目に飛び込んできて大興奮

 

そして多くのBangkaやボートが集まっている海域に到着すると

イルカの群れが現れ 約一時間 Dolphoin Watchingを堪能

その後、キリスト教会や神話のモニュメントが名物だった無人島に立ち寄り

(台風ですっかり壊滅状態となってしまってました)

続いて砂洲だけの Virgin Island経由して

SnorkelingのできるBalicasag Islandに上陸し

若者たちはSnorkelingに興じ シニアはビーチのレストランでビールとSeafoodを堪能

運よく天候に恵まれ ピーカンの太陽の下は暑いのですが

オーニング(覆い)と海水でボートの中は超快適

約7時間のボートツアーの後は

ビーチのレストランでランチ

この日も 朝からずっとお腹いっぱい(笑)

午後2時過ぎにホテルに戻り

シエスタ(お昼寝)タイム

この日はホテルのレストランでの晩御飯となりました

動画にしたため画像ではお見せできないんですが

フィリピンのいいところのひとつが

レストランなら大抵生バンドの演奏があるところ

 

美味しい料理に美味しいビール

生演奏の歌を聴きながら仲良しの仲間達との賑やかな会食

 

”文句のつけようがない”ってこんな事を言うんだろうなぁ

 

翌日は、朝8時出発とのことでしたが

しっかり休めたのと日本との時差で 朝5時には目が覚めてしまい

WIFIの繋がるビーチレストランで翌日のマニラでのホテルを予約

トンガ時代から早朝のビーチが大好き

黎明の時間に打ち寄せる波の音を聴きながら 

夜明けの風景をボーッと眺めてるのが至福の時間なんです

これぞリゾートって感じで

 

【調子にのって30,000字を越えてしまったので後編に続く

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