新旧の書籍および映画の批評,作品解説.
Augustrait





[提供:岩波書店]
 『夏の花』で知られる作家・詩人,原民喜(1905―51).死の想念にとらわれた幼少年期.妻の愛情に包まれて暮らした青年期.被爆を経て孤独の中で作品を紡ぎ,年少の友人・遠藤周作が「何てきれいなんだ」と表した,その死…生き難さを抱え,傷ついてもなお純粋さをつらぬいた稀有な生涯を,梯久美子が満を持して書き下ろす,傑作評伝――.

 1951年3月13日,詰襟の国民服を暗色に染め直した服を着た男が,国電の中央線西荻窪-吉祥寺間で鉄道自殺を遂げた.本書は,その原民喜という文学者の死に様から描写をはじめる.原は生前,自我を説明することのできる言葉は「死と愛と孤独の三つ」と記している.他人と接するのが極端に苦手で「世間との回路」をなかなか持つことができず,中学校時代の4年間,学校で原が声を発するのを聞いた者はひとりもいなかったという.彼はおよそ社会性というものが欠落していた.

 病的なまでに内向的な精神の拠り所は,父や姉,慶応・三田の文学者たちとの限られた交流,そして彼を唯一理解し包容してくれた妻.中学校の嘱託英語講師を3年ほど務めただけ,生涯出した本はわずか2冊.そのうち1冊は自費出版に近い.愛する近親者は,原を置いてひとりずつ他界する.愛情の対象をすべて喪失してしまった原は,愛する死者をいわば“聖別”することを生涯を通じて行ない,『鎮魂歌』あるいは遺書など作品に思いのたけを籠めることしかできなかった.愛妻の死の翌年,故郷広島に帰っていた原は被爆するが命を取り留める.被爆直後,野宿をしながら避難生活をつづけた原は,死に覆われた広島市街地の様子を鉛筆でノートに書きつけていた.
‘物語を構築するのではなく,自身の記憶と感覚を頼りに独特の世界を描き出す原の作品には,内面における重要な出来事――その最たるものが父,姉,妻の死である――が形を変えて繰り返しあらわれてくる.ほとんどの作品が自身の心象の変奏曲なのである.多様性や広がりはないが,そのぶん,透明度の高い湖のような美しさがある’
 その被爆体験を小説「夏の花」(「原子爆弾」改題)『三田文学』に掲載した.当時,三田文学はGHQの検閲(言論統制10カ条のプレスコード)が緩かったのである.著者は,被災時の自筆ノートと『夏の花』の文章を比較し原の内面を推察していく.生来の繊細さ,表現者としての理性,死と死者に対する謙虚さ――私小説の形をとらずとも,文学世界には彼の悲劇的体験が横溢している.それでもやはり,大江健三郎が「現代日本文学の,もっとも美しい散文家のひとり」と評したごとく,原はポエトリーな人だった.「私は歩み去らう 今こそ消え去つて行きたいのだ 透明のなかに 永遠のかなたに」.


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原題: 原民喜―死と愛と孤独の肖像
著者: 梯久美子

ISBN: 9784004317272
  • 『原民喜―死と愛と孤独の肖像』梯久美子
    --岩波書店,2018
    (C) 2018 梯久美子




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