Augustrait



わが特異の詩形


小川未明童話集


 児童文学者として初の日本芸術院会員、文化功労者。しかしその素顔は、権威主義から遠く離れた、奔放にして無邪気な少年のような人だった。


§のびやかな「日本近代童話の父」
 小川未明(1882-1961)の自由奔放さは、幼少のころから筋金入りだった。新潟県中頚城郡高城村(現上越市幸町)に生まれた彼は、小学校時代には自然を相手に遊び回り、学校の授業に縛られることはなかった。また、中学時代ではさすがに勉学を放棄するわけにもいかず、仕方なく勉強に従事するものの、数学的素養を身につけることを嫌い、代数・幾何学等を捨て去って文芸や政治関連の雑誌を読み耽っていた。その結果、当然のように成績は下降し、3度も落第する憂き目に遭っている。
 しかしながら、江坂香堂(unknown)、佐久間象山(1811-1864)の高弟、北沢乾堂(unknown)らに添削指導を受け、漢詩を深く攻究することに目覚めていったのもこの時期である。

 この辺りは、同じように数学が全くできず、入試科目に数学がないという理由で大阪外国語学校に進んだ司馬遼太郎(1923-1996)と同じである。だが、彼らに共通していたのはそれだけでなく、一芸に通じるために専心努力し、他の追随を許さぬレベルまで昇華したことである。当然のことながら、好きなことだけやれば、誰でも大成することが約束されているわけではない。やはり彼らのような道を究めた人物は、選ばれた存在だったと評価するべきだろう。

 小川の才覚を早くから見抜いていたのは、前述の小・中学校の教師2人であったが、その頃の小川は、いってみればまだ脹らみはじめたつぼみに過ぎない。そのつぼみに涵養を与え、花開かせたのは東京専門学校(現・早稲田大学)時代の彼に影響を与えた2人の文学者である。
 1人には「小川君は作られたる作家にあらずして生まれたる作家である」と述べ、「未明(びめい)」の号を与えた坪内逍遥(1859-1935)、もう1人は、当時早稲田大学英文学講師の職にあった小泉八雲(1850-1904)であった。彼ら2人の薫陶を受け、1904年、在学中に処女小説『漂浪児』で小川は新ロマン派自然主義の新人作家としてデビューした。

 翌年には『霰に霙』を『新小説』に発表した小川は、小説家としての地歩を固めつつあった。その彼が童話作家へと転向しなければならなかった理由は、どこにあるのだろうか。彼自身の言葉によると、世界に寄せる彼の理想が語られている。
 「もし、美と正義の世界が、現実に存在するものなら、それはまさしく『童話』の世界でなくてはならない。そして、この美しく、やさしく、平和なる世界の主人公はもとより子供であるが、また、美と正義と平和を愛する人々でもある。この世界ばかりは、一切の暴虐をゆるさなかった。
 いかなる権力も圧制も、かつてこの世界を征服することは能わなかった。これ、我が理想の世界である...」*1


§時代、社会、文明の批判
 大正デモクラシーから昭和初期にかけて、コムミュニズム系とアナーキズム系に児童文学の流れが大きく傾いていったことは通説となっている。小川が自由芸術家連盟に加盟し、
 「新興童話の名の下に、児童等を階級闘争の戦士たらしめんとする。闘士たることの悪いというのではない。それが、自からの意志であり、自由に選ばれたる確信であるなら、真に、それを革新の熱火と見做すことができる。しかし、それが強制であり、目的意識のために、認識なき者への指導であったなら、資本主義的暴力の児童を毒すことを憎む我等は、同じく、これをも否とし戦わなければならぬ」*2

 と、かなり激しい調子で書いているところをみると、彼が童話作家に立脚する意義は、1つにはアナキストとしての表明であると解釈するべきだろう。

 代表作「赤い蝋燭と人魚」「野ばら」「金の輪」には、それぞれヒューマニズムとリアリズムが息づいている。これらは優しい言葉で語りかけてくるその文体とは対照的に、ニヒルな結末を迎えるものが多い。その両義性が小川児童文学の真髄でもあるのだが、あらゆる強圧に抵抗し、児童の性質と心情を擁護し、発達を遂げさせることに童話の意義があると考えた小川の脳裏には、かつての奔放な青春を送った自分と、そんな自分を理解し庇護してくれた何人もの恩師への深謝があったに違いない。
 児童に対する一方的な強圧や教化を強く警戒し、批判した背景には、文化を嗣ぐべき児童への限りない愛着がある。

名作童話 小川未明30選
春陽堂書店
 
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▽『小川未明童話集』/小川未明/新潮社/1961年
© Suzue Okanoe 1951

*1 小川未明を訪ねる
*2 『新興童話の強圧と解放』昭和4年8月号