新旧の書籍および映画の批評,作品解説.
Augustrait





看護覚え書


 専門職の内部と本質は、「知識」「技能」「価値観」から構成される。看護の臨床と学問の貢献に尽力したフローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale)の著作の中でも、本書は看護養成学校のバイブルとして継承され続けてきた。当然、これからもその立場は不変にして普遍。ナイチンゲールは、看護技術の体系化とともに、当時としては高度な分野で労働する“職業婦人”としての看護婦*1 の地位向上に全霊をあげた。看護は人類の「生の営み」を支え続けた実践的な技術であるのに、その歴史が原理的、理論的に大きな声を社会に向けて発することはなかった。
 ナイチンゲールが長年の看護臨床経験をもとに、看護学や後人の陶冶に努めたかと思えば、案外そうではなく、現役の看護婦として活躍したのはわずか3年間だけである。その後、150とも200ともいわれる著作と1万2,000もの書簡やメモを残し、看護の側面にとどまらず、病院、建築、福祉、そして統計データに基づく事実認識で、専門職としての看護の社会的意義を訴え続けた。その活動の大半は、病床に就いた36歳から90歳で歿するまでの間、ベッド上の生活から生み出された。実に半世紀に及ぶ年数である。老境に達してもなお、彼女が人間の「生活の質」(QOLという概念はまだない)を向上させるための政策を次々に立案していったのは、かのクリミア戦争に従軍したわずか2年間、そこでの成功と失敗の体験が常に脳裏から離れず、彼女を急き立てていたからに違いない。より深く、より広く、より科学的に、実証的に位置付けなければならない。これまで不当な低評価に甘んじてきた「看護」という領域を、と。

訳者まえがき
凡例
はじめに
要旨(細目次)
序章
 1 換気と保温
 2 住居の健康
 3 小管理
 4 物音
 5 変化
 6 食事
 7 食物の選択
 8 ベッドと寝具類
 9 陽光
10 部屋と壁の清潔
11 からだの清潔
12 おせっかいな励ましと忠告
13 病人の観察
おわりに
補章
[付録]赤ん坊の世話
訳者あとがき


 本書は、1つの現象と1つの行為に一般論と定義を与えることから始まる。前者は病気、後者が看護である。「病気」とは、いかなる種類と段階にあっても、“回復過程”にある現象である。そして、「看護」とは患者の生命力の消耗を最小に整えることを意味する技術、すなわち人の自然な治癒力を邪魔せず、適切に促す手助けである。この取り組みは、言い換えれば生命の「潜在力」を引き出し高める技術と考えることができるだろう。看護という名称に、ナイチンゲールはこだわらなかった。それに代わる言葉がないためにこの言葉を使う、と堂々と宣言しているくらいである。他方、看護の内容に含まれるべきものとそうでないものを区別することを明確に示唆する。

<毒されたり衰えたりする過程を癒そうとする自然の努力のあらわれであり、それは何週間も何ヵ月も、ときには何年も前から気づかれずに始まっていて、このように進んできた以前からの過程の、そのときどきの結果として現れたのが病気という現象なのである>*2

<看護とは、新鮮な空気、陽光、暖かさ、清潔さ、静かさを適切に保ち、食事を適切に選択し管理すること――こういったことのすべてを、患者の生命力の消耗を最小にするように整えることを意味すべきである>*3

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《聖トマス病院》

 人間にとっての病気を敵対的なものとみなさず、1つの「状態」としてナイチンゲールはとらえていた。このことを、病気とは「形容詞」であって存在している「名詞」ではない、と主張したのである。いま、これに反論を加えることはいくらでもできる。病気という状態が回復の過程であるなら、どのような病気であれ、必ず患者は快方に向かうはずである。看護がその治癒としての「潜在力」に手を貸そうが貸すまいが、長期的には病は快癒する。では、悪性新生物(ガン)の異常増殖は?AIDSによる免疫不全。日和見感染で発症したカンジダ症やニューモシスチス肺炎が命取りになる状態が自己治癒するのだろうか?不可逆的で自発的な生命維持が不可能な脳死状態は?…これらは、人間の有限の時間を目いっぱい費やしたとしても、治癒するものではないことは明らかだ。これが意味することはただ一つ、ナイチンゲールの提示した「病の定義」は不完全だったということである。「病とは何か」という問いは、「医療とは何か」「生命とは何か」「QOLとは何か」などの哲学的な命題に連結するものである。それゆえ、ここではこれ以上立ち入ることはできない。
 ナイチンゲールの両親はユニテリアンであり、ナイチンゲール自身は国教に傾いた時期もあった。けれども、彼女は独自の神秘主義にもとづいた宗教観をもっていた。しかし、看護について「神秘」が介入することを排除する道を彼女は選ぶ。あたかも、イエス・キリスト(Iēsūs Khristos)が病人に手をかざして治療するかのように、看護婦の中でも患者をある方向に導くことのできる者とそうでない者が存在したとしても、看護に神秘などは全く存在しない、と断言する。

<よい看護というものは、あらゆる病気に共通するこまごまとしたこと、およびひとりひとりの病人に固有のこまごまとしたことを観察すること、ただこの二つだけで成り立っているのである>*4

 クリミア戦争(1853-1856)から帰国後、1860年にナイチンゲールは聖トマス病院(国教派)にナイチンゲール看護養成学校を創設するが、いかなる宗派によるスクリーニングも行わないことを原則とした。その理由は、看護婦の行動原理が宗教的根拠により異なり、それが困った事態を引き起こすことを熟知していたためである。38名の看護婦を率いる総責任者(監督)としてクリミアに赴任した彼女を最も悩ませたのは、看護婦による患者への改宗の勧誘だった。看護団の内訳は、カトリックの修道女10名、国教会の修道女8名、国教会派の看護婦6名、無宗派の病院看護婦14名で構成されていた。平尾真智子(帝京平成短期大学)によると、19世紀の半ばは、イギリス国内では1830年から1850年にかけて国教会内部でいわゆる「オックスフォード運動」(国教会改新運動)が行われた直後にあたり、国内での複雑な宗教的な動きの影響を受けていたという。加えて、フランス軍のようにカトリックの修道女による組織的な看護を持たなかったイギリス軍にとって、兵士の看護をどの宗派に属する看護婦が行うかは深刻な問題となった。
 この苦い経験をもとに、ナイチンゲールは自身の作った看護養成機関においては、学生の宗教的背景も、養成の内容においても、中立性を保ったのだった。「クリミアの天使」「白衣の天使」「ランプの貴婦人」…これらすべてナイチンゲールの姿から始まった形容詞である。特に、ランプの貴婦人とは、一晩に1,200人もの傷痍軍人が運搬されてくるイギリス軍の病院において、治療に当たるため8時間もひざまずき続け、夜はランプを灯して就寝している兵を巡回した彼女の姿への崇敬から生まれた言葉である。もともと、アメリカの詩人ヘンリー・W・ロングフェロー(Henry Wadsworth Longfellow)が、そんなナイチンゲールの姿を自詩で「ランプを持つ貴婦人」と紹介したのだったが、彼女自身はある種神格化された自己像を嫌った。そして、宗教的立場とかかわりなく、「鋭い観察力」と「よく動く手」を持った看護婦こそが世に必要とされていることを確信し、「天使とは、美しい花をまき散らす者ではなく、苦悩する者のために戦う者である」という言葉を残している。

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《クリミア戦争で傷ついた兵士を巡回看護するナイチンゲール》


 フローレンス・ナイチンゲールは、1820年にイタリアのフィレンツェ(英語でフローレンス)に生まれた。両親はイギリスの裕福なジェントリで、フローレンスの出産は新婚旅行中だった。とはいえ流行りのデキ婚ではなく、当時の上層階級では、3,4年かけて新婚旅行をするのが一般的だったのである。ちなみにフローレンスの姉パーシノーブ(unknown)も同じ旅行中にナポリで生まれている。ナイチンゲールは12歳から父の英才教育を受けて育った。それは当時の女性としては最高水準のものだった。語学はラテン語、ギリシア語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、英語が施され、これにギリシア哲学、天文学、歴史学、経済学、文学、心理学、地理、数学、美術、音楽、絵画、詩や文学の創作まで、あらゆる教養をリベラルアーツとして叩きこまれたのであった。
 30歳過ぎまでぶらぶらして過ごすが、その美貌から男性にはかなり人気があった。しかし、生涯独身を貫いた。ある男性から9年間の求愛を断り続け、記録魔と言われるほどこまめに著述する癖のあったナイチンゲールは、この時の心境を次のように記している。因習として結婚制度を攻撃し、その願望が皆無であったことをノートにも記したナイチンゲールに対し、同性愛者であるとの風評も立った。

<立派な男性が求婚すれば、女性がそれを受諾しない理由はない、という考えにはまったく賛成できない。神の摂理もそうではないと思う。女性たちのうち、妻になるのが神の定めであるものもいるように、独り身でいるよう、明らかに定められているものもいる。
 今年で30歳になる。キリストが伝道を始めた歳だ。もはや子供っぽいことは終わり。無駄なことも、恋も、結婚も。さあ、主よ、あなた様のご意志のみを考えさせてください>*5

 社交界でどこに出しても恥ずかしくない淑女となることを父から期待されたナイチンゲールだったが、数学にのめりこみ、1837年2月7日、「神に仕えよ」と啓示を受ける。この時はまだ16歳だったため行動に移すことはなかったが、24歳で啓示に答えようと考えた。慈善訪問で貧しい農民の悲惨な生活を見聞し、看護の仕事に興味を抱くようになったのである。知人の紹介でロンドンの病院に就職するが、ほぼ無給という待遇だった。唯一の理解者、父が援助してくれたが、母と姉はナイチンゲールに目を覚ますよう説得を続けていた。それほど、当時の看護婦は専門性が確立されておらず、病人の身の回りの世話をするだけの召使と同等と見なされていたのである。しかし、だからこそナイチンゲールは看護の専門的深化の必要性があると食い下がった。
 1854年にイギリスはクリミア戦争に加わった。ロンドンタイムスの報道では、負傷した兵士を匿う後方部隊で、いかに酸鼻を極める状態であるかがリポートされ、事態を重く見た戦時大臣は、ナイチンゲールに団結した看護婦を率いて従軍するよう働きかけた。これが件の38名の看護団である。ナイチンゲールはその監督職につくことになった。有り体にいえば、彼女がこれほどの重責を担うよう請われたのは、実力とともに家柄が見込まれたためである。ナイチンゲールが庶民の生れであったなら、一団員として従軍することはあれ監督を依頼されることは無かったであろう。

www.winstonisback.com
《クリミア戦争の死線》 1881

 黒海のトルコ側スクタリの野戦病院に到着した看護団に対し、軍医長官は拒絶の態度を示す。彼女たちなど必要ないというのだ。戦時大臣の命に対し、矮小なテリトリー意識が戦地の幹部を覆っていたのである。しかし、病院の部署のうち便所だけはどこにも管轄されていないことに目をつけたナイチンゲールは、便所の清掃婦から始めて病院内部に侵入することに成功する。そうしてみて一同は目を疑った。収容過剰で混乱した施設、不衛生なベッドや医療器具、縦割り行政からくる連携不足と物資の不足。ネズミが走り回り、シラミの痒みに悶える兵士の姿がそこにあった。彼らに供給される飲料水は、1人当たりわずか1パイント。病院とは言い難いこの施設での死亡率は、42%にも達していたのである。
 ロングフェローが詩に残すほど献身的な看護を昼夜問わず行ったナイチンゲールは、赴任から半年で死亡率を2%にまで下げた。兵士の異常な死亡率は、戦傷によるものではなく、運び込まれるまでの過酷な風雨と栄養状態、そして満身創痍を癒すことのできない劣悪な療養環境によるものだった。さらに、死亡統計も3種類存在しており、これでは正確な人数が把握できない。これら一連の無策にナイチンゲールは憤り、軍司令部や政府の無能さ、病院管理者の怠慢と危機管理のなさを痛烈に批判した。だが、無理が祟り彼女自身がクリミア熱にかかり帰国を余儀なくされる。帰国後、統計学者ウィリアム・ファー(William Farr)の協力を得て、統計分析を行い1000ページにも及ぶ『英国陸軍の健康、能率及び病院管理に関する諸問題についての覚書』(1859)を著した。そこには、2万5,000人の兵士のうち1万8,000人の命を奪った主な原因は、戦傷や疲労困憊ではなく野戦病院の過密さと不衛生であったと述べられている。これを「鶏のトサカ」と呼ばれるダイアグラムを用いて、イギリス陸軍の兵士の死亡率を実証的に示して見せた。病人を救うのは適切な衛生と栄養と投薬、そして休養であることが再認識され、ナイチンゲールは史上最初の看護専門書を書き上げた。それが本書なのである。

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《兵士の死亡率を表すダイアグラム》

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上 《ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー》
下 《フローレンス・ナイチンゲール》
右 《ウィリアム・ファー》



 看護が学問としても実践としても高まるために、ナイチンゲールは信念を傾ける場所を捜し当てた。それは、事実を系統立てて説明する手立てに基づいた主張でなければならないということである。その目的に統計学的手法を活用した。ナイチンゲールの場合、統計と看護を結びつけて人間の生活に不可欠な要素を提示したという、それまで誰にも成し遂げられなかった偉業は永く讃え続けられるべきである。また、病院の建築構造にも多大な功績を残した。今日のナースコール、病室の水と湯の出る蛇口、ナースステーションを中心とする病棟のシステム、すべてはナイチンゲールの考案によるものだ。病院の構造が空気や空間の面で患者に害を与えるという経験則から、後年の『病院覚え書き』には理想的なベッドの配置と人間一人の療養空間、窓の配置について詳細な数値(面積では約6畳ぶん)が述べられた。特徴的なことは、「面積に対しての人数」ではなく、「一人に対しての面積」という発想が一貫されていることだ。
 クリミア戦争に従軍したのは、わずか2年間のことだった。しかし、今思えば、それは近代的な看護の夜明けを告げる、短くとも極めて重要な期間だったといえるだろう。低俗な職業として上層階級の人々が忌み嫌い、不衛生と不道徳がまかり通っていたこの領域に風穴を空けた女性の志には、常に改革と専門教育には科学的な実証性が有効であるという信念が宿っていたように感じられる。看護学校の戴帽式では、かつて戦地で毎晩見回りを行ったナイチンゲールにあやかり、キャンドルに灯した火のやわらかい光が講堂を照らす。その中で、ナイチンゲール誓詞が読み上げられる。誓詞はナイチンゲールが自ら作ったものではなく、ナイチンゲールの偉業を称え、その教えを基にアメリカ・デトロイト市のファランド看護学校の校長リストラ・グレッター(Lystra Gretter)を委員長とする委員会により「ヒポクラテスの誓い」にならって作詞された。看護の精神「博愛」「責任」「清潔」を象徴する帽子を卒業生が戴き医療界へ巣立っていく。看護の実践と教育の社会的意義が結集し、まばゆい光を放つ瞬間でもある。

<われはここに集いたる人々の前に厳かに神に誓わん。
わが生涯を清く過ごし、わが任務を忠実に尽くさんことを
われはすべて毒あるもの、害あるものを絶ち、悪しき薬を用いることなく、また知りつつこれをすすめざるべし
われはわが力の限り、わが任務の標準を高くせんことをつとむべし
わが任務にあたりて、取り扱える人々の私事のすべて、わが知りえたる一家の内事のすべて、われはヒトにもらさざるべし
われは心より医師をたすけ、わが手に託されたる人々の幸のために身を捧げん
>*6

www.jrc.or.jp
左 《フローレンス・ナイチンゲール記章》
右 《フローレンス・ナイチンゲール賞記》


ナイチンゲール 看護の倫理資料集 第2版 成人看護学〈1〉

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Title: NOTES ON NURSING
Author: Florence Nightingale
▽『看護覚え書』フローレンス・ナイチンゲール ; 小玉香津子訳
-- 現代社, 1968
(C) Florence Nightingale (lapse)

*1 今日的見地では、男女の隔てを意味に含まない「看護師」であるが、
 時代背景を考慮して以下「看護婦」と記す。
*2 本書、p.1
*3 本書、pp.2-3
*4 本書、p.187
*5 偉人道 フローレンス・ナイチンゲール(1820-1910)
*6 ナイチンゲール誓詞




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