新旧の書籍および映画の批評,作品解説.
Augustrait





[提供:新潮社]
 戦時下の日本で秘密裡に進められていた,陸海軍の「原子爆弾製造計画」.戦局の挽回を期し,軍部が命じ科学者の叡智を極めたその営みは,しかしやがて頓挫するのだった…科学者の内なる葛藤,軍人との駆け引き,そしてその後の彼らの生き方とは?戦後,原発立国へと大きく舵を切った日本の,原子力との「前史」を繙く.今,問うべき昭和史の一断面――.

 オットー・ハーン(Otto Hahn)とフリッツ・シュトラスマン(Friedrich Wilhelm "Fritz" Strassmann)が,1938年12月に原子核分裂の際の破壊的エネルギーを発見――中性子をウラン235の原子核にあてることによる――してから,広島に投下される原子爆弾「実用化」まで,6年ほどしか要していない.戦後は原発立国の1つとなった日本も,戦時下において陸軍の「ニ号研究」及び,海軍の「F号研究」という名で原爆製造計画が始まっていた.理化学研究所(仁科芳雄研究室)と京都大学(荒勝文策研究室)には巨額の研究費が支給され,ガダルカナル,アッツ,マリアナ沖海戦の敗退後,敗色濃厚となった戦局を一挙に打開する新兵器開発へ,過重な期待がかかった.

 原爆の製造には,ウラン濃縮によって高濃縮ウランを得る方法と,天然ウランを用いる原子炉の照射済核燃料の再処理によってプルトニウムを抽出する方法の2つがある.1930年代半ばから,原子核・宇宙線の研究に国内でも巨費を投じるようになったが,ドイツのハイゼンベルク並の設備を持たず,ウラン鉱石が入手できない国内事情にあっては,マンハッタン計画に先んじることは到底敵わなかった.「マッチ箱ひとつで大都市が吹き飛ぶ新兵器」という風説が日本国民の間に流れ,陸軍将校は「軍学提携」の極秘計画として,理研や京大を急かした.実現可能性の低さを冷静に理解しながらも,研究者は陸軍の要請と資金力の前に開発の断念は許されなかったのである.

 “3.11”で露見した東電と原子力行政の隠蔽体質は,70年前の原爆製造時代から受け継がれてきた「遺物」ではないかという根本的な疑いが,保阪正康の執筆動機となっている.荒勝グループの湯川秀樹は「国に捧ぐ いのち尚ありて 今日も行く 一筋の道 限りなき道」と詠んで軍学協力を受け入れた.戦後1955年,反核運動と原子力研究者の良心ともいうべき「ラッセル=アインシュタイン宣言」には,湯川をはじめ朝永振一郎,武谷三男らが賛同を表明している.彼らは仁科研究室で育った物理学者となり,国際的名声を得ていった.

 原子力平和利用の三原則「自主・公開・民主」を提唱した武谷は,放射線利用の「許容量」を「原子力発電論争」で述べてもいる.それは「やむをえず放射線の照射をある利益のためにがまんする量」ということであり,IAEAのコスト論との整合性を保つ意味で,隠蔽体質を温存しながら原発立国化が進んだ.歴史的意味合いの意義では,「ヒロシマ」「ナガサキ」「フクシマ」を同列に論じることはできないと,本書で保坂は力説する.しかし現実には,原子力の行使という因果として,明らかに3つの被爆地域には連続性があるというべきである.

日本の核開発:1939‐1955―原爆から原子力へ
山崎 正勝
績文堂出版

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原題: 日本の原爆―その開発と挫折の道程
著者: 保阪正康

ISBN: 9784103136729
  • 『日本の原爆―その開発と挫折の道程』保阪正康
    --新潮社,2012.4, , 269p, 20cm
    (C) 2012 保阪正康




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