新旧の書籍および映画の批評,作品解説.
Augustrait





在りし日の歌―中原中也詩集


<おまへはもう静かな部屋に帰るがよい。
 煥発する都会の夜々の燈火を後に、
 おまへはもう、郊外の道を辿るがよい。
 そして心の呟きを、ゆっくりと聴くがよい>*1

 このわずか4行の詩に、中原中也の想念が凝縮されているように、わたしには思える。生前に彼が刊行した詩集は、正式なものでは本書と『山羊の歌』、その2冊しかない。本書の冒頭には「亡き児文也の霊に捧ぐ」とある。
 中原の愛児は、『山羊の歌』が刊行される2ヶ月前の1934年10月に生まれ、本書が編集・清書される10ヶ月前に病気で死んだ。2歳と1ヶ月の短すぎる命だった。このことが中原の過敏な神経をいためつけた。同年12月に次男・愛雅が生まれるも、中原の神経衰弱はよくなることはなく、結核性脳膜炎を発病し、翌年1935年に文也の後を追うように逝った。『在りし日の歌』の原稿を預かり、出版することを託されたのは小林秀雄である。小林は青山二郎の助けを借り、1938年にこれを創元社より世に出したのだった。



 中原中也の生涯で、重大な意味をもつ事件は2つある。1つは何よりも愛息・文也の死である。この子に対する中原の愛情は、取り立てて検証するほどのものでもあるまい。だが、やや偏執的な愛情をわが子に向けていたところがあった。
 1936年7月24日の日記には、『遺言的記事』と題して中原はこんなことを書いている。
 <文也も詩が好きになればいいが。二代がゝりなら可なりなことが出来よう。俺の蔵書は、売らぬこと。それには、色々書込みがあるし、何かと便利だ。今から五十年あとだつて、俺の蔵書だけを十分読めば詩道修行には十分間に合ふ。迷はぬこと。仏国十九世紀をよく読むこと。迷ひは俺がさんざんやったんだ>*2

 このわずか3ヶ月半後には、この愛くるしい子が他界するなど、父の想像の外でしかなかっただろう。ここに『遺言的記事』と題してあるのは、わが子と自分の死を予感していたわけではまったくない。その可能性の匂いを嗅ぎつけていたわけでもない。むしろたった2歳の子に対して、「将来は詩人になれ」「詩道修行には父の残した蔵書をしっかり勉強するだけで十分」「迷わずして詩の道をゆけ。迷いは父だけでたくさんだ」などと、およそ詩人らしからぬことを強いている。
 誰にとっても、親としてのエゴイズムを自覚することは非常に困難なわけだが、それが子にとっての幸せと当人は信じきっているのだから無理もない。このような記述の中で、中原は、愛児にほとんど自分の自身を見ているといえる。しかし、現実はそう甘くはない。その苦い結果を知るのも数十年先になるはずだった。しかし、中原親子にはそれすら許されなかったのだ。

(C)中原美枝子 (C)創元社
左 《長男文也と遊ぶ中也》 1935年 
右 『在りし日の歌』 創元社 1938年 題字は青山二郎


 詩人の親子ということで思い出したのだが、谷川賢作の父は谷川俊太郎である。だが父と同じ職業には就いていない。ジャズ・ピアニストで作編曲家なのだ。確か、彼は「お父様と同じ職業(詩人)になろうとは思われなかったのですか?」という、くどいほど繰り返されてきた質問に対し、正直言って詩人は得体が知れないもの、という趣旨のことを答えていた。何の雑誌だったか忘れてしまったけれども、俊太郎の「男の子のマーチ」という詩がある。
 <おちんちんはとがってて 月へゆくロケットそっくりだ
 とべとべおちんちん
 ・・・中略・・・
 おちんちんはかたくって どろぼうのピストルに似てる
 うてうておちんちん>*3

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《谷川親子》

 こんなことを書いているおれの親父はいったい何なんだ、大人なのに、ばかやろう。こう思ったらしい。賢作が小学生の時だったが、こういったことを理由に同級生にからかわれたりしたことも悔しかったのだと語っていた。その気持ち、よっく分かる。おとなげない男を父に持つと、苦労するのだ。もっとも、いうまでもなく谷川俊太郎は素晴らしい詩人だ。しかし、息子の気苦労も少しは偲ばれるというものではないか。
 俊太郎が息子に詩人になってほしいと願ったかは不明だが、中原親子も将来は同じ道をたどったかもしれない。今では谷川親子は互いのコンサートにゲストとして呼ばれることが多く、いい感じの創作活動を展開している。こんな親子もおもしろい。けれど、息子の死が父に与える衝撃、そしてあたえられる打撃に太刀打ちできるほど、中原の神経は強靭ではなかったのである。そして、息子の成長を見守ることも、親子の葛藤を詩に託すこともかなわなかった。



 中原に衝撃を与えたもう1つの出来事、それが小林秀雄との三角関係であった。その中心は長谷川泰子。中原が13歳の時に出会った3歳年上の女優であった。意気投合した2人は、長谷川が所属していた劇団・表現座から解雇されたのをきっかけに同棲生活に入った。この頃は、学業というものに失望していた時期だった。なんといっても、本を読めば1日ですむところを1年かけるということに我慢も納得もいかなかったのだ。
 名門・山口中学(高校)を落第して、京都の立命館中学に転校した。この時の心境を「詩的履歴書」で「生まれて始めて親元を離れ、飛び立つ思い」と書いている。詩人永井叙を通じて知ったのが長谷川泰子だった。

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左 《山口中学時代》
右 《中原中也記念館》


 人のつながりは続いた。そのほとばしる才能そのものが驚きだったのは、富永太郎だ。互いに才能を認め合いながらも嫌悪しあい、フランス近代詩を介して富永は独自の象徴詩の世界を固めつつあった。富永が特に影響を受けたのは、ボードレール(Charles Pierre Baudelaire)だった。中原の方は、抒情詩の世界を固めていく。主に、ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine)とランボー(Jean Nicolas Arthur Rimbaud)の叙情性を吸収していった。富永との出会いがなければ、フランス近代詩のエッセンスをわがものに消化することはできなかっただろう。
 その富永の引き合わせで出会ったのが、小林秀雄だった。当時は東大の学生で、23歳にしてすでにとんでもない批評眼をあちこちに振りまいていた。中原は小林と親交を結び、小林との論争によって批評と詩の対立を決定づける以前に、不幸にして泰子を小林に奪われるのである。

 なぜ泰子が中原のもとを去ったのか、よく分からない部分が多い。『ゆきてかへらぬ』(講談社、1974年)でも、その本質的な理由ははぐらかされているような感じがする。秋山駿と長谷川泰子の対談でも、それが明らかになることはなかった。ただ、秋山の推測によれば、それは中原のかなわぬ部分を小林が多く備えていたからではないか、ということだった。
 <まず、小林は好男子であった。いまも写真が映す鋭気のあの顔。それに知的には、時代の最尖端を行くハイカラ者であった。同時代の文学青年が、小林秀雄に学んだ。つまり、一世代前の、芥川龍之介みたいなものだった、と思えばよろしい。
 私はスポーツ新聞記者のとき、文士野球を観戦したが、たしか小林は二塁手で、けっこう身ごなしは軽快であった。これじゃ女が惚れるのも無理はない、と思ったものだ。中原中也は、逆立ちしたってそんなことはできない>*4

 要するに、小林はスマートだったのであるから、そうでない中原から泰子が去っていったのもうなずけると、そういいたいのだろう。だが、本当にそうか。ここには秋山の欲目が働いている。むろん、小林に対する畏敬の念がこのような思考に秋山を走らせている。だから話半分に聞いておいて間違いはないと思うのだが、小林も泰子の病的な潔癖さに辟易して窮屈な思いをさせられたり、泰子に愛想を尽かされたと思って大島に自殺に赴いたり、苦労は絶えなかったのだから男女の仲はなかなかうまくいかないものだ。
 この2つの出来事が、中原の心身に及ぼした影響は計り知れない。けれども、北側透の指摘するように、男女の愛憎というような強い情念の持つ不確かさ、そしてそれが詩の言語にまで昇華する過程における断絶と屈折と飛躍が、直接的に詩の反映とみるべきではないのかもしれない。つまり、泰子の果たした役割を過大に評価することの危惧である。とはいえ、断絶と屈折において、中原の詩に三者の愛憎関係は映し出されており、小林の評論の根底にも、1つの深刻な経験としてこれらの情念は内蔵されているはずである*5。その理解はないがしろにされるべきではない。

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左 『中原中也全集』 全5巻+別巻 角川書店 
右 《秋山駿》




 中原は、第二次大戦の幕開けを見ることなく死んだ。したがって戦後、詩の評価を見ることはなかった。実際、戦後詩の立場から、黒田三郎の中原中也批判は激烈なものだった。
 <中原中也の詩に不思議な浸透力があるとすれば、それは彼の詩が、殆ど誰でも一寸書いてみたいと思うような心境詩に通じているところから生じてくるのではないか。でまかせや思いつきを意味あり気に並べてみるのは、文学青年にありふれた陋習であり、その結果が奇妙な断片として現れるのは、書くべき何者をも生むことのない市民的無為の生活のせいである>*6

 これだけでも、目をむくほど攻撃的であることが分かるのだが、黒田は中原を「私小説詩人」として位置づけている。中原評としては、黒田はさらに「酔っ払いで怠け者で、恐ろしく貧乏で、無頼の徒で、しかも底なしの善人、というタイプの性格破産者」で、「作家という名前の下に、許されて住む動物園をつくりあげた」として中原を斬り捨てている。
 文学上の評価とはいえ、死者に対して向けられる言葉とはとても思えず、もし中原が生きていたら自殺にでも追い込みたいのか、と勘ぐりたくなるような文章だが、ここには個人的な嫌悪感があるとは思えない。

 戦後詩の民主主義詩運動にとっては(黒田の「市民的」立場はここにある)、モラリズムに反する中原の詩は許せないものだった。日本の小市民的な風土や秩序を重んじることなく近代への不安や不満、倦怠的な土着化は、市民的モラリズムの敵対的対場にあると目されてきたからである。
 ところが黒田の誤りは、そのような中原の詩を異常なまでに攻撃することによって、本来の主張よりも誤解のほうが強く広まってしまったということにあった。創元社より『山羊の歌』『在りし日の歌』の二詩集が合体し、大岡昇平の解説で発行されたのは1947年である。だが、戦後初めて中原を論じたのは宮本治(いいだもも)が旧制一高の「向陵時報」に発表した「中原中也の写真像」(1946年)であった。確かに戦争化において中原中也は読みつがれ、そして、戦争下の青年たちの間に共感を与えていた。加藤周一は「『現代詩』第二芸術論」(1949年)、「現代詩・用語とリズムの問題」(1950年)でくりかえし中原にふれ、窪田啓作も、1949年の「詩学」に中原の「清潔、鉱石のような素肌の稟質」「そこには高く明るい精神はないにしても、傷ついた魂のかすかな響きのやうなものが通つてゐる」と述べていた*7。

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左 《中原中也》
中 《大岡昇平》
右 《小林秀雄》


 このように取り上げられることの多い中原の詩が、「でまかせや思いつきの浸透力」だけに支えられているのだとすれば、その軽侮されるべき浸透力が、なぜこれほどまでに長続きしているのかが説明されなければならない。それは容易なことではないだろう。
 中原文献はおびただしいが、もっとも誠実に真実に近づこうとした作家は、大岡をおいてほかにはない。1958年の中原中也伝『朝の歌』(角川書店)を筆頭に、中原の生涯に言及した大岡著作物は20点を越えている。中でも、『在りし日の歌:中原中也の死』(角川書店、1967年)、『中原中也』(角川書店、1974年)は必読文献であろう。中原の生涯を丹念に再現しようとした大岡の姿勢は、中原と過ごした青春を忘れることが出来ないという友情めいた感情と、中原中也研究の基礎資料を作っておかなければという使命感がそうさせたとみることができる。

(C)中原中也記念館
《冬の長門峡・草稿》 1936年

 大岡がそこまで中原にこだわり続けたのはなぜか、幾度かそれを彼自身の言葉で語ったことがある。「私が中原中也を完全に理解した時は、こんどは人生と私自身の方が不可解になるのではないか、という疑いが生まれている」(『在りし日の歌』末尾)、「少しばかり亡友の偉業を人に知ってもらいたい気があったのですが、仕事を進めるうちに、私の中にある衝動はそれだけではなく、自分自身の青春を検討したいというエゴイズムがあることがわかって来ました」(前掲書、あとがき)*8
 中原は26歳で結婚し、30歳で没するのだが、四谷の青山二郎の家に小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平、中村光夫らとサロンを開いていた。この会合を彼らは、「青山学院」と称していたのであった。
 <中原中也は常連だった。文学論争をし、気に食わない人間には喧嘩をふっかけた。・・・中略・・・中原は友人たちの前で自作を朗読することが多かった。大岡昇平はそんなときに中原の様子を、「仰向いて眼をつぶり、口を突き出して、独特に唄った」と言っている>*9

art-random.main.jp (C)里文出版
左 《富永太郎》
右 《青山二郎》


 中原と青春をともにした男の1人は、友の作品と生涯を世に残すことを重要なライフワークの1つとして打ち込んだ。眼をつぶったまま世界をみようとした詩人・中原中也の作品には、自然や動物をうたったものがほとんどない。それは、外界の美しさや醜さよりも、自己の内部からのエモーションにこの詩人が眼を向けてきたからだった。彼が感銘を受け、世界に向けて発信してきた営みを、友として伝えようと考えた文人がいた。
 もう1人は、批評家として抒情詩との邂逅を実現することなく道を歩み去った。中原の死後、その男は追悼文を書き、「死んだ中原」という詩を書いた。どう考えてもまずい詩であり、夭折した抒情詩人の才能を認めるとは書きながら、「鼠でも死ぬ様に死んだ」と、友人の孤独病を哀れんで終わった。この友人が中原の作品に言及したのは、追悼に寄せた文集のわずか数行、それから優れた批評と至近距離にあった稀有な詩は、あいまみえることなく途絶えた。

 <あゝ、死んだ中原
 僕にどんなお別れの言葉が言へようか
 君に取返しのつかぬ事をして了つたあの日から
 僕は君を慰める一切の言葉をうつちやつた

 あゝ、死んだ中原
 例へばあの赤茶けた雲に乗つて行け
 何んの不思議な事があるものか
 僕達が見て来たあの悪夢に比べれば>(後半部)



汚れつちまつた悲しみに…―中原中也詩集 中原中也との愛―ゆきてかへらぬ 中原中也の手紙

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▽ 『在りし日の歌』中原中也 ; 佐々木幹郎編
-- 角川書店, 1997年
(C) Tyuya Nakahara 1938 (lapse)

*1 本書、p.232
*2 『中原中也の世界』北川透
-- 紀伊國屋書店, 1978年、p.126
*3 『あなたに』谷川俊太郎
-- 東京創元社, 1960年
*4 情報紙『有鄰』No.412 P4
*5 北側透、前掲書、p.182-183
*6 『内部と外部の世界』黒田三郎
-- 昭森社, 1977年
*7 『中原中也』中村稔
-- 筑摩書房, 1990年、p.205
*8 中村稔、前掲書、p.170
*9 本書、p.250




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