新旧の書籍および映画の批評,作品解説.
Augustrait





ブリキの太鼓


 ギュンター・グラス(Günter Grass)による同名の原作(1959年『ブリキの太鼓』)はドイツ語版だけでも300万部を売り上げ、20ヵ国で翻訳された。奇怪で牧歌的な言語世界を確立したその作品は、2つの大戦を挟んだ時期のポーランドを舞台に、汚い世界を拒絶する少年の目を通して、社会の身勝手さに幻滅する人間性を描いていた。同作の世界観を映画という新たな盛り付けで再現するには、紆余曲折を経ることになるが、完成した映画版「ブリキの太鼓」は、1979年のカンヌ映画祭でフランシス・フォード・コッポラ(Francis Ford Coppola)の「地獄の黙示録」(1979)と評価を二分するほどの賞賛を受け、結果、両作品にグランプリが与えられることとなった。スラブの湿った風が吹き抜けるような全体的雰囲気の本作は、700万ドル(約7億円)の予算で製作されたが、これは「地獄の黙示録」の10分の1の製作費であった。しかし、ドイツ映画のルネッサンスを呼び込んだニュー・ジャーマンシネマの旗手、フォルカー・シュレンドルフ(Volker Schlöndorff)は本作でマジック・リアリズムを世に知らしめ、ドイツの映画作家たちを大いに勇気づけたのである。

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左 《ギュンター・グラス》
右 《フォルカー・シュレンドルフ》


※以下、作品細部の言及が含まれます。


 1899年、ポーランドの北端、ナチスが台頭する直前のバルト海を臨む自由都市ダンツィヒ。郊外のカシュバイで4枚のスカートを履き、芋を焼くカシュバイ人のアンナは、警官から逃亡している放火魔コリャイチェクをスカートの中に匿った。寸時の間に結ばれた情交により、アンナは娘・アグネスを生む。後にコリャイチェクは失踪する。第一次大戦が終わり、成長したアグネスはドイツ人アルフレートと結婚するが、従兄のポーランド人ヤンとも逢引を重ね、1924年に息子オスカルを生んだ。3歳の誕生日を迎えたオスカルは、かねてより約束していたブリキの太鼓を母から受け取る。しかし同日、大人たちの醜態を目にし幻滅したオスカルは、その日から1cmたりとも成長しないことを決心した。故意に階段から転げ落ちて事故の後遺症として身長が伸びなくなったと大人に信じさせる。同時になぜか一種の超能力がオスカルには備わり、奇声を発してガラスを割る力を身に付けた。この日以来、彼はいかなる時もブリキの太鼓を手離さなくなった。ポーランド郵便局に勤めるヤンと情事を重ねる母の姿を目撃してしまったオスカルは、太鼓を連打しながら奇声を張り上げ、市立劇場のガラス窓を全て粉々に割る。その日、第三帝国を成立させ、照準をポーランドに定めるヒトラーの声が町に響いた。


(C) Argos Films,Artémis Productions,Bioskop Film,Film Polski Film Agency,Franz Seitz Filmproduktion,GGB-14,Hallelujah Films,Jadran Film 1979

 両親とサーカス見物に出かけたオスカルは、そこで小人症のリリパット団・団長ベブラに出会い、小人の生き方を聞いた。ベブラは10歳で成長を止めたという。ヤンの子を身籠ってしまったアグネスは、精神に失調をきたし、ニシンの缶詰や生魚をむさぼり食った挙句、自殺する。ナチスによりユダヤ人の家や店が焼き払われ、1939年9月、ポーランド郵便局襲撃事件でヤンは銃殺される。オスカルの家に母親代わりとしてやってきた16歳のマリア。オスカルは彼女に恋をし、ベッドを共にするもマリアは父の妻となってしまう。マリアは息子クルトを生むが、その父親は自分だと信じるオスカルは、クルトが3歳になったらブリキの太鼓を買ってやると約束するのだった。再会したベブラ団長と従軍慰問の旅に出たオスカルは、慰問団のヒロイン、ロスヴィーダと幸福な恋の日々を送る。だが、連合軍の爆撃でロスヴィーダは命を落とす。オスカルが故郷に帰った日は、ちょうどクルトの3歳の誕生日でドイツ敗戦の前夜だった。ソ連兵に射殺されるアルフレート。父の葬儀の日、オスカルは肌身離さず身につけていたブリキの太鼓を墓穴に投げ入れ、これからは成長することを決心する。その瞬間、クルトの投げた石が頭に命中し、オスカルは気を失う。オスカルを介抱しながら祖母アンナはカシュバイ人の生き方を語り、「西へ行け」と説く。アンナに見送られ、オスカルを乗せた汽車はカシュバイの荒野を後にし、真っ直ぐ西方へと進んでいくのだった…。


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 ニュー・ジャーマンシネマは、映画産業の光となってドイツを照らした。1962年2月8日、オーバーハウゼンでの国際短編映画祭で、若い映画作家のグループが「オーバーハウゼン・マニフェスト」を宣した。「古い映画は死んだ。われわれは新しい映画を信じる」と宣言したそのグループに共感し、同盟を結んだ映画作家の中に、シュレンドルフはいた。商業に転んだ映画製作よりも、低予算でも芸術的な映画を創る決意でアート・フィルムに打ち込む。このニュー・ジャーマンシネマは1980年代に入るまで続くが、シュレンドルフは資金繰りの面で、アメリカ資本の援助を受けながら芸術面を損なわない映画の製作に努めた一人である。
 本作の実現に立ちはだかった壁を、シュレンドルフは忍耐強く解決していく。まず、原作者のグラスは自分が作劇に介入できないのなら映画化は認めないと強硬だった。その条件を呑んで、当時としてはグロテスクで猥褻な描写が盛り込まれることになった。これは原作の世界観を尊重したグラスの妥協しない発案によるものだった。シュレンドルフが原作を読んだのは、発刊後20年近く経ってからのことだというから、読んですぐに映画製作に着手したことになる。自身ドイツ人であり、6歳で終戦を迎え、叔母がナチと共に自決した背景を持つシュレンドルフは、ナチスがポーランド侵攻し人間性を破壊する原作を読むことを躊躇っていたようだ。しかし、原作を読み終えた彼は、これを映像化するには大変な労力を要することを覚悟した。企画倒れになるリスクを熟考した6ヶ月後、ついに原作者のグラスに会って映画化の成否を自らに問うことにした。彼との面談の感想をこんな風に語っている。

<「グラス氏は言葉についてではなく、事実について話をしてくれました。彼は、〈いいですか、この街路はこんな風で、この店はここにあり、これはわたしの通学路だったんです〉というようなぐあいに話してくれたのです。突然わたしは、あの作品のあらゆる言葉の向こう側に一つの真実の物語を発見しました--この物語が(何かの抽象的な比喩ではなく)一人の特定の人物によって体験された経験であり、グラス氏はこの特定の人物をオスカルという子供=小人の主人公に変形したのだということがわかったのです。それでわたしは自分に言いきかせました--グラス氏がそのような経験のすべてを一冊の本に変えることができたのなら、わたしにもその経験を一本のフィルムに変えることができるにちがいない」と>*1


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 ところが、シュレンドルフの原案を見たグラスは、ほぼ全否定の言葉を投げつける。いわく、そこには「理性的でデカルト的すぎ」「不合理性的な側面が完全に欠如している」ということだった。そこで、自分が作劇に介入して冒頭の唐突な性描写、カエルを生きたまま茹でる特製スープ、馬の生首を使ったウナギ漁、母親の不倫、幼児と少女の生々しい性の戯れなど、奇天烈なファンタジー要素をふんだんに盛り込んでいったのである。おそらく、この映画は悪趣味なファンタジー、意識的に成長を停める幼児、超能力を交えたマジック・リアリズムの範疇にある。その一方で、いくつもの暗喩が散りばめられてもいるのである。撮影は原作の舞台であり、グラス自身の故郷でもあるダンツィヒで行うことをシュレンドルフは強く希望し、ポーランド当局との長期の交渉を経て撮影許可を得た。


 シュレンドルフは、オスカル役の俳優を誰にすればよいのか思い悩んでいた。撮影当時、11歳の俳優ダーフィト・ベンネント(David Bennent)との巡りあわせがなければ、映画化は実現しなかっただろうといわれている。オスカルは3歳にして成長が停まった男児であるが、シュレンドルフは本当にそのようなことが有りうるのか医者に相談した。すると、理由なく成長が停止する例があることが分かった。ベンネントの父親はシュレンドルフの作品「カタリナ・ブルームの失われた名誉」(1975)に出演していた。シュレンドルフから息子ダーフィトの出演交渉を受けた父親は了承し、オスカル役が決定したのである。ダーフィト少年は、11歳の年齢だったが身長は6歳児ほどにとどまっていた。しかし、その特異な存在感はまさにオスカル役に適材で、グラスも絶賛したほどだった。目元がアンソニー・ホプキンス(Anthony Hopkins)にそっくりで、また子どもらしからぬ冷淡さが実に素晴らしい。


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 醜悪な戦争や荒廃したモラルを嫌悪し、抗議する意味で大人になることを拒むオスカル。社会の野蛮さは、知性が退廃した不快さに満ちている。そこに嫌々、存在しなければならないフィーチャーがオスカルの存在理由となっている。本作が打ち出す結局の含意と立場とは、2つの大戦やナチズムの台頭など社会の不条理が人々に混乱をもたらし、それに傍観目線で無言のうちに抗議する「寓話劇」ということになろうかと思う。ドイツ人(アルフレート)、ポーランド人(母の従兄弟ヤン)、ユダヤ人(玩具屋マルクス)、カシュバイ人(祖母アンナ)が入り乱れ、大国ロシアとドイツに挟まれたポーランドは、常に戦火の降りかかり、争奪の対象となる位置にあった。オスカルはアルフレートとヤンのどちらが本当の父親か判らず、クルトはオスカルとアルフレートのどちらが父親か判らない。これは民族的なアイデンティティの不在と混乱を暗示するものだ。ダンツィヒの市民はドイツ人でもありポーランド人でもある。つまり、ゆるぎない母国を市民は持っていなかったのである。
 サーカス団の団長・ベブラは、団に入らず観客席で芸を磨きたいというオスカルに「小さい人間の生き方」を説いて聞かせる。

我々には観客席はない。我々は芸を見せ演技をする。でないと舞台を奪われるんだ。彼等がやって来ると、祭りの舞台を占領して松明行列をする。演壇を作り、人を集めて、我々のような者を滅ぼそうとするんだよ。

 「彼等」とは理不尽な権力を振りかざす支配層=ナチスであり、「我々」とは被支配層=本来ならばメインアクターのことを示唆する。アクターは演壇を奪われれば無力な存在に貶められる。そのことの危険性、すなわち自警すべき魂を失うなと警告するのである。また、オスカルは教会の彫像に自分の太鼓を持たせ、演奏するよう発破をかける。しかし像は黙して動かない。苛立ったオスカルは叫ぶ。「できないのか!?それともするつもりがないのか!!」当時の教会はナチスの勢力拡大に歯止めをかけなかったばかりか、バチカンはナチスと「政教条約(コンコルダート)」を結び、独裁政権を獲得したナチスを祝福し、聖職者には政権に忠誠を誓わせたのである。
 ドイツの敗北とナチス党員だったアルフレートの死後、21歳になったオスカルは再び成長することを決める。成長の停止と再開。停止に際しては故意に気絶し、再開に際しては偶然に気絶する。成長には一定の「儀式」が必要で、記憶の途切れる時間が必要となる。しかし、自由都市ダンツィヒは1952年にポーランドが独立を回復すると、159年ぶりにポーランド領を取り戻し現在の港湾都市「グダニスク」となった。ナチスが去ったことでファシズムは終焉し、オスカルはもはや成長を拒絶する必要がなくなったことを知る。したがって、運命共同体の象徴としてのブリキの太鼓を投げ棄てるのである。だが、この地が踏みにじられた記憶は消えず、オカルト的でシュールな群像が記憶の風化に激しく抵抗し続けるのだ。


(C) Argos Films,Artémis Productions,Bioskop Film,Film Polski Film Agency,Franz Seitz Filmproduktion,GGB-14,Hallelujah Films,Jadran Film 1979

魔王 キング・フォー・バーニング 黒い警察

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Title: DIE BLECHTROMMEL
Director: Volker Schlöndorff
Cast:
 Mario Adorf
 Angela Winkler
 David Bennent
 Katharina Thalbach
 Daniel Olbrychski
▽142分 / 西ドイツ=フランス / 1979年
(C) Argos Films,Artémis Productions,Bioskop Film,Film Polski Film Agency,Franz Seitz Filmproduktion,GGB-14,Hallelujah Films,Jadran Film 1979

*1 ブリキの太鼓




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