新旧の書籍および映画の批評,作品解説.
Augustrait



燦然たる光の下で



§全てはうまくいくはずだった
 主人公は陽光の降り注ぐ中で、「太陽がいっぱいだ」と誇らしげに呟く。次の瞬間に彼の運命は決していた。
 幕が降りたスクリーンの背後で、それまで静かに進行していた主人公の計画は白日の下にさらされる。その映像は、観客の瞼に克明に映し出され、泡沫のように尾を引きながら遠くへ去ってゆく。
すでに画面には「Fin」の3文字しか残されていないにもかかわらず。
 彼の運命のもの哀しさは、哀切なメロディと、イタリアの眩いばかりの光がそれを際立たせている。

 噛みくだいた評論で映画の魅力を伝え続けた淀川長治(1909-1998)は、「太陽がいっぱい」で富裕層の放蕩息子と貧困層の美青年の間に流れる感情は、同性愛的なものであると評した。
 「淀 川  
  ・・・それに、あの映画はホモセクシャル映画の第1号なんですよね。
 吉 行(&和田誠ら同席の男性も)
  え、そんな馬鹿な。
 淀 川
  あれ見たら完全にそうですよ。貧乏人の息子のアラン・ドロンが金持ちの家に、
  坊ちゃんを連れ戻しに行く。彼は金持ちの坊ちゃんの全てが好きになっちゃうのね。(中略)
  片っ方はネクタイから靴から全部欲しい。片っ方はそんなことをいう感覚の男が欲しい。
 吉 行
  違うと思うんだがなぁ。
 淀 川
  ちょっと待って(笑)。どっちも無いものねだりで、憎らしいけど離れられない。
  それがだんだんクライマックスになってくるとエキサイトしてくるのね。(中略)
  エキサイトして片っ方は死んだ。そして、死体になっても、二人は離れられないのよ」*1
 

§意図的なものか、偶然のものか
 淀川の解説によれば、同性愛関係にあったがゆえに、アラン・ドロン(1935- )扮する貧しい青年は、放蕩息子を自分と一体化させるため殺害する。しかし、死体を捨てきれずにクルーザーに繋いでいた。アランが浜辺で「太陽がいっぱいだ」と嬉しそうにつぶやくラストシーンは、捕まって死刑になれば愛しの彼に会えるという“喜び”を表現しているのだという。
 「最後のシーンが来るでしょ。そのときに、ヨットが一艘沖にいる。あれは幽霊なの。お前もすぐ俺のところへくるよ。という暗示なのね。
 で、電話がかかってきて、そうかと言ったときに、ワインのグラスを持った彼の手が若くて美少年らしい。それと一緒にモーリス・ロネの死体の手が一緒に写るのね。ダブって。握手してるのね。そこへ、また呼ばれていっちゃう。・・・あれは後追い心中なのよ」*2

 貧しい青年トムは、その罪の重さが死刑に相当すると裁かれるだろう。富も恋人も手中に収めたが、そこで計画は終了し、あとは真の恋人フィリップに会うだけが目的となったのか。それとも、これから先もずっと彼の名を騙り生きていくつもりだったのか。そのどちらにも解釈できる描き方になっているように思える。
 恋人マルジュを誘惑して自分のものにするトムは、マルジュを愛する自分を演じることによって、フィリップと同一化を図ったのである。常にフィリップに支配されていたトムは、彼を殺してその肉体と未来を支配した。そして今は彼との融合を達成しようとしていたのである。トムは常にフィリップだけを見ていた。


§食の暗示
 トムは殺人を犯すたびに、その場にある食物を口に押し込んで飲み下す。これが象徴しているのは、「貧しさからくる卑しさ」と「殺人という欲求と日常的な欲求の近しさ」である。
 いかに金持ちの息子に取り入り、近くで観察して同様に振舞おうとしても、出身の貧しさは隠すことができない。逆に、放蕩息子がいかに奔放不羈に振舞おうとも、身についた習慣や品性が拭い去られるわけではない。ここに、両者は決定的な違いがある。
 
 「テーブルマナーくらい知っておいたらどうだ」と、トムはフィリップに冷笑される。うんざりした表情で無知と品のなさを軽蔑されるのである。その時のトムの表情には何とも痛切な色が浮かぶ。焦慮して動顚してしまう彼の姿は哀れである。
 この場面では、品性のなさ=卑しさは、貧しさからきており、鵜の真似をする烏は、結局鵜にはなれないことを示している。富裕なフィリップの口からは、蔑みの評価しかトムに与えられることはない。

 殺人の後に食物を口に運ぶシーンは、罪を犯す欲求と食欲が非常に近い関係にあることを表している。第1の殺人の後は果実を無心に貪り、第2の殺人の後はナプキンを広げ、七面鳥を食いちぎる。食欲を満たすための行為は、直前の動物的な行為と人間性との隔たりを曖昧にするための1つのスイッチである。同時に、パターン化した行動は自分を安定させるための儀式としての役目を持たせることにも役立つ。そのようにして、トムは殺人の自覚を鈍化させる手段を自ら講じていたのである。

 フィリップの友人を撲殺したトムは、フィリップの服装に身をまとい、死体を投棄して自分に言い聞かせるように呟く。
 「そうだ、殺したのは俺じゃない。フィリップがやったんだ」


§太陽は知っていた
 完全に思われた犯罪も、やがては眩しい太陽の光の下に、全てをさらけ出す。貧窮から脱け出そうと必死に画策した青年の野望は、はかなくも砕け散るのである。建物の陰から虎視眈々と彼を狙う刑事の存在を知ってか知らずか、青年は人生最高の瞬間を迎えていた。
 淀川の評論に沿わない解釈でいえば、全てを隠蔽し、うまく立ち回って危機を回避した自分に怖いものはもう何も無い、人生は自分の思うがままだと幻想を抱いたとしても無理はない。そしてこの見方は、多くの人に支持されるものである。なぜなら、クライマックスにふさわしいのは期せずして頂上から転落する美貌の犯罪者の姿だからである。
 もっとも、その狼狽する姿をみることは誰にもできないのであるが。

 太陽は全てを知っていたと知る観客のみが、深い余韻に浸りながら、哀しい運命を背負った青年の行く末に思いを馳せることができるのである。

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Title:PLEIN SOLEIL
Director:Rene Clement
Cast:
 Alain Delon
 Maurice Ronet
 Marie Laforêt
 Erno Crisa
 Frank Latimore
▽122分 / イタリア=フランス / 1960年
(C) Robert & Raymond Hakim Company, Paris Film, Paritalia
Titanus 1960

*1 『恐怖対談』 / 吉行淳之介. -- 新潮社, 1980年.
*2 『別冊小説新潮』昭和50年4月号




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