新旧の書籍および映画の批評,作品解説.
Augustrait





[提供:誠信書房]
 マスローは『動機と人格』をはじめ多くの著書,論文を出しているが,一貫してみられるのは,精神的に健康で自己を実現しつつある人間の研究である.とくに本書においては,これまでのかれの論ずるところを,もっとも総合的,集約的に要領よくまとめあげたもので,心理学者,教育者はいうまでもなく,その他人間科学を追求しつつある学究,あるいは実際に人間の問題ととりくんでいる人びとの一読に価する――.

 人間の精神的異常と病理に重点を置く精神分析と,人間と動物を区別しない行動主義心理学.両方のアプローチへの“反論”――「第三の勢力」――として,アブラハム・マズロー(Abraham Harold Maslow)によって提起された人間性心理学では,「自己実現」という用語を好んで使う.この言葉が強調するのは,完全な人間性――すなわち生物学にもとづいた人間の本性の発達であり,人類全体にとって普遍的,規範的な意味をもつとされている.人間の高次動機としての創造・健康・道徳など全体的性格に視点を定めるならば,人間性心理学とは,「精神的に健康で自己を実現しつつある人間の研究」ということになる.
‘完全なる人間性ということは,「人間」という概念規定,つまり類の基準がみたされる程度に応じて,はっきりしてくるだけではない.それはまた,記述的,カタログ様のもので,測定できる心理学的規定をもっている.われわれはこんにち,若干の緒についてばかりの研究と無数の臨床経験とによって,完全に発展をとげた人間やよく成長している人間の特徴について,ある程度の概念をもっている.これらの特徴については,ただありのままに記述できるだけではない.主観的にも報いられるところの多いもので,喜ばしく勇気づけられるものである’*1
 人間の尊厳,また人は生涯成長する存在,としたマズローの人間観は,有名な「欲求5段階説」として,人文科学を越え自然科学や社会科学からの支持を得るに至る.本書は,マズローが名声を高める時期,つまり1951年にボストンのブランダイス大学に移ってからの研究業績の1つである.ここで「至高体験(peak-experience)」という概念を提示していることが重要である.これは,最も感動的で至福に包まれた恍惚の体験のことである.たとえば,少年時代のロマン・ロラン(Romain Rolland)がバールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza)の『エチカ』を読み耽った時に襲われた「大洋感情」(名付けたのはロラン本人)のような体験であろう.大洋感情が冷却しないうちに,ロランが『ジャン・クリストフ』に着手したとされるように,至高体験は既存の自己を超越し新たな自己をもたらすという.

 この強烈な幸福感や歓喜の奔流を味わう<体験>は,時に神性,真善美のイメージすら伴う神秘の瞬間である.マズローは,この瞬間には「疑念・恐怖・抑制・誘惑・弱さはなく,また自己意識の感覚もない」と述べた.至高体験は,自己実現を可能にした人間に訪れることが多くあり,その場合には,体験者は利己主義を克服し,他者の悲しみや苦しみに対する想像力を豊かにし,愛と思いやりに満ちた行動を積極的にとることに喜びを見出すようになる.人間の自己実現を超越して実存的な領域に踏み込む人間性心理学は,本書「本書第二版への序文」にあるように,純粋に記述的でもなければアカデミックでもない.個人の内面的精神のみならず,その人が社会でどう生きるかを定める――存在する――ための助けになる道具なのであろう.
‘自己実現あるいはそれに向かうよい成長の主観的確認あるいは強化がある.これらは生活における妙味,幸福,陶酔,静穏,喜び,冷静,責任の感情であり,またストレス,不安,問題をとり扱う能力に確信を抱く感情である.自己欺瞞,固着,退行の,そしてまた成長よりむしろおそれで生きることの主観的徴表は,不安,失意,倦怠,快楽不能,本質的罪悪感,本質的羞恥心,無目標,空虚感,統一性の欠如などの感情である’*2
 1968年,マズローはチェコスロバキアの精神医学者スタニスラフ・グロフ(Stanislav Grof)と出会う.精神分析の手法に限界を感じていたグロフは,LSDを用いたサイケデリック・セラピーを行っていて,グロフ自身もLSDを用い神秘体験を得た「意識の爆発」を記録している.グロフとの議論で,それまでの人間性心理学は過渡的なものだとみなすようになったマズローは,グロフと共同で1969年にトランスパーソナル心理学会を創設した.トランスパーソナルは,「第四の勢力」となりうる心理学,“人間を超えた心理学”と位置づけられるものと想定し,人間の欲求や利害よりも宇宙を論ずる範疇において,人間性やアイデンティティ,自己実現などをも超える学問をマズローは構想していた.それは,人間の善悪や倫理,人類知に及ぶ哲学的展望であったが,マズローは1970年6月8日に心臓発作で他界し,それとともに構想の全容も葬られてしまった.

完全なる経営
アブラハム・マズロー
日本経済新聞社

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Title: TOWARD A PSYCHOLOGY OF BEING
Author: Abraham H Maslow

ISBN: 4414304105
  • 『完全なる人間―魂のめざすもの』アブラハム・H・マスロー ; 上田吉一 訳
    --誠信書房,1998.9, 314p, 20cm
    (C) 1968 Van Nostland Rainhold Company Inc.

    *1 本書
    *2 本書




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