新旧の書籍および映画の批評,作品解説.
Augustrait





[提供:東京テアトル]
 ハリウッド映画の脚本家として成功を収めつつあるリック.しかし,ふと「自分はどこで道をまちがえたのだろうか」と疑問を抱くようになる.弟のビリーが自殺して以来,父親は罪の意識に苦しみ,もうひとりの弟は悲しみに勝てずに落ちぶれていた.やがてリックの前に,次々と6人の女性たちが現れる.奔放な女性,別れを告げる妻,夫のいる女性….

 ギリシアの叙事詩では,文芸を司る複数の女神ムーサにエピグラフを捧げ幕を開ける物語が多くある.『オデュッセイア』では「詩の神ムーサよ,かの人をわれに語れ.あまたの艱難を体現したかの人を・・・」.霊感の源泉を御する女神たちへの果てしない敬慕である.ハリウッド脚本家として成功した男の富・名声,個性的な6人の美女と順に交わす性愛――彼は魅力的な女性と出会うたび,紳士的な態度で好意を表すが,いずれの関係も短期で破綻する.

 その回想の中でしか彼女たちは微笑まず,喜びや悲しみの表情も,この男の記憶の奥へと追いやられていく.原題"KNIGHT OF CUPS"は,タロットカードによる正位置(誠実・好意)と逆位置(不誠実・裏切り)で,彼は自分の意思で女性との位置関係を入れ替える.膨大なモノローグで冗長な語りでありながら,身の処し方はプラグマティックでしかない.本作の冒頭に引かれるのは,ジョン・バニヤン(John Bunyan)『天路歴程』.妻子を捨て重荷を背に,破滅の町から巡礼に出発した基督者の「魂の研鑚」を描いた作品である.

 魂が天の都へと辿り着くのであれば,文芸の女神ムーサが語りうる篤実な物語になりうるだろう.しかし,本作の主人公は所詮俗物であるので,破滅の町からせいぜい虚栄の市を経巡る寓話にすぎない.テレンス・マリック (Terrence Malick)による幻視画(ジオラマ)にロマンを見出すのか,主人公のおびただしい独白に不合理と女々しさしか甘受できないのか.どちらをとっても,世界観にパノラマ要素が与えられていないため,主人公をマージナル・マン(周辺人/境界人)としか理解できないのである.


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原題: KNIGHT OF CUPS
監督: テレンス・マリック

製作:ニコラス・ゴンダ サラ・グリーン ケン・カオ
脚本:テレンス・マリック
撮影:エマニュエル・ルベツキ
プロダクションデザイン:ジャック・フィスク
衣装デザイン:ジャクリーン・ウェスト
編集:ジェフリー・リッチマン キース・フラース A・J・エドワーズ
音楽:ハナン・タウンゼント
出演:クリスチャン・ベイル ケイト・ブランシェット ナタリー・ポートマン ブライアン・デネヒー アントニオ・バンデラス
  • 118分/アメリカ/2015年
    (C) 2014 Dogwood Pictures, LLC







  • [提供:キノフィルムズ]
     敏腕ロビイストのエリザベスは,クライアントの要望を叶えるため最適な戦略を立て,妥協を許さない完璧主義者だ.そんな彼女は銃擁護派団体からの仕事を依頼されていた.新たな銃規制法案に対し,女性の銃保持を認める働きをして,廃案に持ち込んでくれというものだ.だが,その仕事を断った彼女は,上司から解雇を通告されてしまう.その翌日,自分のチームから4人を引き連れて,銃規制法案に賛成する小さな会社に転職する….

     1940年代から50年代にかけ,下院非米活動委員会によって作成された「ハリウッド・ブラックリスト」に対抗するため,現代のハリウッドには興味深いプロジェクトがある.映画製作マッチングの脚本プロジェクト「ハリウッド・ブラックリスト」.わざわざ前リストと同じ名前にしてある.まだ映画化されていない脚本をThe Black List, LLCに登録し,250人以上の映画関係者の評価をベイズ推定を用いて点数化されスコアが公表される.その脚本に興味をもった映画製作関係者とのマッチングで映画製作化を狙う取組みである.2017年時点で,過去10年のアカデミー脚本賞およびアカデミー脚色賞を受賞した20作品中10作品はブラックリスト登録作品であるという.

     本作の脚本もこのリストから生み出され,担当のジョナサン・ペレラ(Jonathan Perera)は,共和党系ロビイストが不正行為で逮捕された事件に刺激を受け,「アメリカ民主主義を蝕む汚いネズミたち」を駆除する女性ロビイストの奮闘をスクリプトに書き込んだのである.本作の主人公スローンは,インドネシア産パーム油にかかる税金「ヌテラ税」をめぐるロビー活動を通じて,パーム油消費を大企業が控える事態を防ぐ活動に関与した.これでパーム油をふんだんに使うスナック菓子のアメリカ消費は落ち込むことはない.インドネシア政府を安堵させたスローンは,連邦議会や企業の取締役会の中で秘密裏に行われる談合と,ロビイストの旨味を学習する.

     次に彼女が取り組むのは,銃規制をめぐる政治的モメンタム.ニューヨーク市のように支持者からの豊富な資金提供と,全国草の根ネットワークに支えられた主要な銃規制団体は,ほとんどが民主党が支配する州で勢力を保っている.一方,議会の共和党によって数十年にわたって築き上げられ擁護されてきた全米ライフル協会(NRA)と加担するロビーの構造的優位性を切り崩すことは容易ではない.所属する大手ロビー会社が銃擁護派団体と組むことに反発したスローンは,部下4人を引き抜いて弱小ロビー会社に移籍,銃規制法案を可決させるべく奔走する.彼女は目的のためには部下や同僚を監視し,プライバシーを暴いて切り捨て,自分はプレッシャーを払拭するため強度の精神刺激薬を手放せない.

     敏腕ロビイストが,銃擁護派の議長が支配する聴聞会で吊上げにあったとき,白馬の騎士のように現れた男が致命的に野暮.ただし彼女の居直りは速く,胆力もある.5年の刑期,しかも旧知のアクターの尽力で短縮が見込まれるペナルティと引き換えに,彼女がNRA擁護派に与えたダメージは小さくなかったはず.だがそれも継続的波状攻撃にはつながらない.表沙汰になるかどうかは別にして,このような生き方のロビイストを描く脚本を,ハリウッド・ブラックリストの審査者は少しは痛快と思ったのだろうか.聴聞会を晴舞台のように嬉々として立つロビイストに,主客転倒の大逆転.フィルム・ノワールにしてほしいとはいわないが,この題材でこの展開はやめるべきと,ハリウッドで進言する製作者はいないようだ.


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    原題: MISS SLOANE
    監督: ジョン・マッデン

    製作:ベン・ブラウニング クリス・サイキエル アリエル・ゼトゥン
    製作総指揮:クロード・レジェ ジョナサン・ヴァンガー パトリック・チュウ アーロン・ライダー
    脚本:ジョナサン・ペレラ
    撮影:セバスチャン・ブレンコフ
    プロダクションデザイン:マシュー・デイヴィス
    衣装デザイン:ジョージナ・ヤーリ
    編集:アレクサンダー・バーナー
    音楽:マックス・リヒター
    出演:ジェシカ・チャステイン マーク・ストロング ググ・ンバータ=ロー アリソン・ピル マイケル・スタールバーグ
  • 132分/フランス=アメリカ/2016年
    (C) 2016 EUROPACORP FRANCE 2 CINEMA







  • [提供:コピアポア・フィルム]
     1930年代後半のローマ.機能不全に陥った中流家庭で育ち,少年期に異常な出来事を体験した青年マルチェロは,「正常」な人生を送ること,すなわちファシズムへの同化を希求するようになっていた.彼は秘密警察の一員として,現在パリで亡命生活を送っているクアドリ教授の動向を探る役割を自ら買って出る.クアドリはマルチェロの大学時代の恩師で,反ファシズム運動の精神的支柱の一人でもあった.マルチェロは結婚したばかりの娘ジュリアを伴い,パリへと赴くが….

     社会主義的ファシズムを痛撃したジョージ・オーウェル(George Orwell)は,1936年末にPOUM義勇軍(マルクス主義者統一労働党)アラゴン戦線分遣隊に参加し戦った際,反ファシズム勢力内部での欺瞞に憤慨して記録に残した.「人間狩り」と称するコミンテルンとスターリン主義による圧力,逮捕,監禁,拷問,銃殺を目の当たりにすれば,ファシズムに身を委ねる"体制順応者"への冷笑も生まれて当然だっただろう.まさに,体制順応における「正常」は「ファシスト」であることが代名詞的に観念されていた.そうした政情を舞台に,ファシスト党に入党した大学哲学講師の青年の心の闇と自我崩壊を本作で描いたベルナルド・ベルトルッチ(Bernardo Bertolucci)は,製作当時なんと弱冠29歳.「自分と同じ人間が好きで,自分と違う人間を警戒する.正常な人間とは,真の兄弟.真の愛国者」.

     盲目の友人イタロに感化された青年マルチェロは,「真のファシスト」たりうることで,無意識に抑圧した精神的葛藤を無毒化しようとする.彼が党から与えられた最初の任務は,反ファシストでパリに亡命した恩師クアドリ教授の身辺探査であった.新婦を伴う新婚旅行の体で渡仏したマルチェロは,教授の美しい妻アンナと情を通じつつ,標的となった夫妻が深い森にさしかかったところで,ファシスト党刺客が2人を惨殺する現場をつぶさに見る.しかし彼は眉ひとつ動かさない.真のファシストという自己像を得た彼にとって,「ムッソリーニの死」以外に動揺する事態はあり得ないためであるように思えた.しかし,真実はそうではなかった.この青年が無意識のうちに最も恐れているのは,「正常(ファシズム)からの逸脱」.それは肉親からの負の影響を激しく憎悪する心理反応として描かれる.彼の実父は,ミュンヘンでナチズムに感化され破壊活動に関与した結果,無機質な精神病院に収容され廃人となった.実母は,お抱え運転手を愛人にしながらモルヒネ中毒で人格崩壊が進んでいる.

     両親の異常が自分にも遺伝していることへ怯えをもつマルチェロは,いわれのない梅毒疑惑にも過剰に反応し,そうした恐怖を完全払拭すると信じられるのがファシズムへの忠誠であり,信仰なのである.共産主義ドクトリンの横暴なプロパガンダの本質を,「人を見て法を説く」ものであると喝破したズビグネフ・ブレジンスキー(Zbigniew K. Brzezinski)は,人類の進歩を可能ならしめるという共産主義の飛躍は,単純化されたドクトリンが変容する社会に適合できなかった点で,画餅に終わったとみた.中央当局が不磨の大典の如く唱えた「科学的真理」を結集し,最良の理想主義的精神で掲げた「真に公正な社会」.西側諸国が共産主義の欺瞞を制圧するまで,ユートピア的価値観に埋もれた大衆は,専横する共産主義に高いモラルと連帯を夢見ていた.それはマルチェロの夢であった.だが,彼には自分でも無意識化に抑圧していた"少年時代のトラウマ"があった.暗殺の森の血しぶきにも微動だにしなかった彼が,1943年7月27日に解散した国家ファシスト党の行く末を案ずる矢先,盲目の友人イタロに呼び出されて夜の街を徘徊した時,それまで露ほども疑わなかったファシズムへの忠誠と信仰を打ち砕く人物に邂逅する.

     混乱の極みに陥ったマルチェロは錯乱し絶叫する.その叫びはとめどなく,いつまでも木霊する.大学時代にクアドリ教授の下で書いた哲学の卒論は,プラトン(Platon)「洞窟の比喩」だった.暗殺の前,再会したクアドリはマルチェロに言った.洞窟に映る炎の影は事物の投げる影,"幻覚"は"現実"と呼ばれ,人々は現実の影を現実と思い込む.それがイタリアで起こっていることだ――予見どおり,現実の影を過去の記憶とともに白日の下に引きずり出されたとき,正常をカムフラージュし続けた青年の自我は耐え切れずに崩壊したのだ.1930年代の退廃的なイタリア体制順応者の相克と内面的闘争を,妖艶な美しさを帯びて静かに描く傑作.「光で書く」(Writing with Light)と自称するヴィットリオ・ストラーロ(Vittorio Storaro)は,この作品以後,詩的な構図と陰翳のあついシンメトリックな撮影でベルトルッチ作品に欠かせない撮影技術者となった.


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    原題: IL CONFORMISTA
    監督: ベルナルド・ベルトルッチ

    製作:ジョヴァンニ・ベルトルッチ
    原作:アルベルト・モラヴィア
    脚本:ベルナルド・ベルトルッチ
    撮影:ヴィットリオ・ストラーロ
    音楽:ジョルジュ・ドルリュー
    出演:ジャン=ルイ・トランティニャン ドミニク・サンダ ステファニア・サンドレッリ ピエール・クレマンティ イヴォンヌ・サンソン
  • 115分/イタリア=フランス=西ドイツ/1971年
    (C) 1971 Minerva pictures Group







  • [提供:ザジフィルムズ]
     18世紀のイギリスで流行した家族の団らんを描いた肖像画.ローマの広大な邸宅でコレクションであるその「家族の肖像画」に囲まれ一人で暮らす孤独な老教授.ある日,裕福な実業家の妻ビアンカが愛人のコンラッドのために,彼の邸宅の2階の部屋を強引に借りてしまう.その日から,静かな教授の生活は崩れていく.孤独だった教授に,新しい家族が加わったのだ.しかし,教授は若いコンラッドを理解できず,それはやがて葛藤へと変わっていく….

     前作「ルートヴィヒ」(1972)完成間際,血栓症に倒れたルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti)は,左半身マヒの過酷なリハビリに耐え,車椅子を押して本作のメガホンを取っている.回復後の運動能力を考慮し,彼は美術のマリオ・ガルブリア(Mario Garbuglia)とともに,蝋燭の炎に照らされる数千冊の蔵書,飾られた象徴主義絵画や骨董品に埋もれた高級アパルトマンの教養空間を造り上げた.息をひそめ隠遁生活を送る老教授の室内に置かれているのは,18世紀イギリスで流行したカンヴァーセーション・ピース(家族団欒図).その静寂を,不穏な雰囲気をまとった者たちが乱しにかかる.

     ファシズムを支持する右翼の過激派と通じた夫をもつ伯爵夫人ビアンカとその娘リエッタ,学問を投げ出し過激な左翼思想に傾倒する青年コンラッド.名前も明かされない教授――知識人ヴィスコンティの精神的象徴――とは,本来相容れない人間たちである.自意識と美意識を研ぎ澄ませた教授は当惑する.ところが,放埓無比に思えたコンラッドと対話を重ねるうちに,彼の内面には思いのほか豊かな教養が隠れていることに気づくのだ.ヴォルフガング・A・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)のアリアK.418《あなたに明かしたい,おお神よ》レコードに耳をそばだてたコンラッドは,バーンスタイン盤ではなく「ベーム盤が好きだ」という.さらに,アーサー・デービス(Arthur Bowen Davies)の肖像画を瞬時に見抜き,独自解釈を披露してみせる.

     まさか,美術史に造詣深い貴族階級の自分が,共産主義に傾く青二才と価値観を通じ合うとは――教授の驚嘆はやがて悦びとなり,恐れに変わる.コンラッドは若く,美しい.それだけの知性を秘めながら,ファシストの実業家夫人の愛人となって自虐的に時間と肉体を持てあましているかと思えば,同世代の若者たちと乱交を愉しむ堕落生活に浸っている.彼らの我慢ならない乱痴気騒ぎに愕然としながら,教授は自分の凝り固まっていたはずの美意識やモラルというものが,自分で信じていたほどに強固なものではなかったことに気づかされるのだ.あたかも教養の上に積もっていた埃が舞い上がるように,彼は不可解な混乱に呑みこまれる.

     教授の心理的変遷を魅せるバート・ランカスター(Burt Lancaster)は見事.ヘルムート・バーガー(Helmut Berger)による退廃的な青年コンラッドは,ナイーブで危うい美しさで挑戦的というほかはない.貴族階級の連帯をもち出さずとも,老い先短い一教授の動揺を綿密に描き出すことで,デカダンな美意識の意外な脆さをヴィスコンティは巧みに主張している.しかし,その崩壊の兆しと進行,そしてコンラッドの悲運を知って「本当の家族になりたかった」とつぶやく教授の寂寥の境地は,また別の美しさを感じさせ唸らせるものだ.晩年のヴィスコンティ作品の代表となる雄篇といってよいだろう.


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    原題: GRUPPO DI FAMIGLIA IN UN INTERNO
    監督: ルキノ・ヴィスコンティ

    製作:ジョヴァンニ・ベルトルッチ
    原案:エンリコ・メディオーリ
    脚本:スーゾ・チェッキ・ダミーコ エンリコ・メディオーリ
    撮影:パスクァリーノ・デ・サンティス
    美術:マリオ・ガルブリア
    編集:ルッジェロ・マストロヤンニ
    音楽:フランコ・マンニーノ
    出演:バート・ランカスター ヘルムート・バーガー ドミニク・サンダ クラウディア・カルディナーレ シルヴァーナ・マンガーノ
  • 121分/イタリア=フランス/1974年
    (C) 1974 Rusconi Film,Gaumont International







  • [提供:20世紀フォックス映画]
     バレリーナのドミニカは,事故によりその道を絶たれてしまう.失意のドミニカは,母を守るために,自分の意に反してロシア政府が極秘裏に組織した諜報機関の一員になることを決意する.そこで彼女は,自分の肉体を使った誘惑や,心理操作などを駆使して情報を盗み出す女スパイ<スパロー>になるための訓練を受ける.そして,持ち前の美貌と明晰な頭脳で頭角を表したドミニカは,ロシアの機密事項を調査するCIA捜査官ナッシュに近づくミッションを受ける….

     ドイツ諜報機関の女スパイ・コード名「H21」で諜報活動を行う一方,フランス防諜機関に協力して二重スパイとなった歴史上の女スパイが頭をよぎった.フランスの政府の軍事上の失敗を招いた罪,ドイツ海軍のUボートに撃沈されたフランス輸送船も,諜報活動によるものと喧伝された高級娼婦は,「日の眼」を意味するムラユ語“マタ・ハリ”を名乗り,オリエンタルな踊りで観る者を魅了した. "Red Sparrow"は隠語で「女スパイ」のことか.CIAに33年勤務したという原作者によれば,人間のもつ動機で主要なものは金,思想,良心,エゴの4つ.

     これらのいずれかを必要としている人に対して与えてやれば,相手は興奮あるいは中毒状態になって,裏切ることを楽しむこともあるという.マタ・ハリが妖艶な姿態と宗教的香気を身につけたように,ヒューミントの"スパロー"には,標的を誘惑し,欲望を操り,ターゲットを篭絡する性的技巧がプログラムされていく.アクシデントに乗じてロシア情報庁勤務の叔父に「お前の身体は国家のものだ」とスカウトされた悲劇のプリマを,童顔で肉感的なジェニファー・ローレンス(Jennifer Lawrence)が巧みに演じている.ソビエトを仮想敵国として設定する映画が激減する中,かつてKGBで盛んに行なわれたハニートラップを引っぱり出し,スパイ養成所のトレーニングの様はコメディタッチで笑えてしまう.

     鬼校長は,仕事を選ばないことで有名なシャーロット・ランプリング(Charlotte Rampling).「娼婦になるための養成所だわ」とぼやくヒロインを,般若の形相で圧する校長にも,同じ感想を抱いた若かりし頃があったのだろう.ウィーン,ブダペスト,ロンドンの華麗な建造物は,ボリショイ・バレエ団のステージを奪われたドミニカには,格好の代替物だろう.標的のCIAエージェントとのロマンスが至極あっさりとしているのは,中毒状態にさせて情報を引き出す以上の価値をターゲットに見出さないからだ.

     本作は,ローレンスのキャリアに傷をつけた「ハズレ作品」とみなされることも多いという.とんでもない話だ.プリマドンナの夢を絶たれたやり場のない悲しみ,住宅保障と医療保険を失効した要介護状態の母を放置する国家への怒りと幻滅.突きつけられた切迫した現実と戦うために,彼女が選んだヒューミントという職業は,常識外れの図太さと開き直りが必要で,若さによる甘さを感じさせない度胸ある女優を条件に,ヒロインをキャスティングしたはずだ.凡作ではあるが,力量ある若手女優の健闘が確認できて満足を与えてくれる.


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    原題: RED SPARROW
    監督: フランシス・ローレンス

    製作:ピーター・チャーニン スティーヴン・ザイリアン ジェンノ・トッピング デヴィッド・レディ
    製作総指揮:メアリー・マクラグレン ギャレット・バッシュ
    原作:ジェイソン・マシューズ
    脚本:ジャスティン・ヘイス
    撮影:ジョー・ウィレムズ
    編集:アラン・エドワード・ベル
    音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
    出演:ジェニファー・ローレンス ドミニカ・エゴロワ ジョエル・エドガートン ネイト・ナッシュ シャーロット・ランプリング
  • 140分/アメリカ/2018年
    (C) 2018 Twentieth Century Fox Film Corporation







  • [提供:パルコ]
     郵便配達人ジョゼフ・ルーランの息子アルマンは,パリ宛の一通の手紙を託される.それは父の友人で自殺した画家ゴッホが,彼の弟テオに書いたものだった.アルマンはテオの消息をたどり,彼の死を知るが,それと同時にある疑問が募る.ゴッホの死の本当の原因とは?そして,この手紙を本当に受け取るべき人間はどこにいるのか….

     「トゥーン・シェーディング」あるいは「ロコスコープ」という手法を用いて実写の輪郭にデジタルペイントを施し,非現実感の溢れるタッチで人物を動かす.そうしたCG処理は,「スキャナー・ダークリー」(2006)でも見られた手法だった.本作の圧巻な職人技は,それをはるかに凌ぐ.ポーランド北部港湾都市グダニスクのスタジオに125人の現役アーティストを集め,フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh)の筆使いを模した油絵で,計62,450枚にも及ぶセル画を1コマずつ描いた.

     毎秒12コマの油絵が使用され,62,450枚は約86.7分に相当する.映画の1秒には,平均12枚の手書きフレームが使われるが,アーティストらが1日に制作できるフレーム数平均6フレーム.一般的なシーンの0.5秒分であるという.恐ろしいほどの手間をかけて製作されたわけだが,燃え上がる炎のような曲線美をビジュアルとするゴッホの画技を,アーティストたちは厳かな面持ちで真摯に描き続けた.キャンバスに塗り込められたゴッホの情念までは再現できていないが,それでも,見るものをゴッホの芸術観に引き込む効果は絶大だった.

     月と星の輝く鉄紺の夜の遠景がズームし,雲が流れ星は瞬く(《星月夜》).豊かな麦畑から羽ばたく鴉の群れ(《カラスのいる麦畑》).姿勢の悪い医師ポール・ガシェ(Paul-Ferdinand Gachet)のアンニュイな独白(《医師ガシェの肖像》).そして何より,遍歴のすえ,精神病を抱えながらオーヴェール=シュル=オワーズで画業に執着した晩年のゴッホが,彼の描き出した油絵世界で息を吐き,あてどもなく彷徨し苦悶している.これを目の当たりにできた驚きに比べれば,「ゴッホの死因の推理」という本作のもうひとつの売りなど些細なことだ.

     原題"LOVING VINCENT"は,ゴッホの唯一の理解者で彼を献身的に支え続けた弟テオドルス・ファン・ゴッホ(Theodorus van Gogh)の嘆きと悲しみに思えて仕方がない.そのため《花咲くアーモンドの木の枝》が出てこなかったのが実に残念.この絵は,精神病院に入院中のゴッホが,弟夫婦に生まれたはじめての子どものために,精一杯の祝福とやさしさを篭めて描いたもの.狂気と孤独,怒りと悲しみからのがれ得なかった天才の作品のなかで,稀有なほど可憐で慈しみに満ちた絵だった.アーモンドの木の枝から,生まれ出る生命の蕾を,手書きアニメーションフレームで見ることができたなら――個人的で贅沢な注文かもしれないが――特別な感慨を沸き起す作品になったと思う.

    ロダン カミーユと永遠のアトリエ [DVD]
    松竹

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    原題: LOVING VINCENT
    監督: ドロタ・コビエラ,ヒュー・ウェルチマン

    製作: ヒュー・ウェルチマン ショーン・ボビット イヴァン・マクタガード
    製作総指揮: クローディア・ブリュームフーバー ガード・シェパーズ イアン・ハッチンソン シャーロッテ・ウベン ラウリー・ウベン エドヴァルト・ノルトナー デヴィッド・パーフィット
    脚本: ドロタ・コビエラ ヒュー・ウェルチマン ヤツェク・デネル
    撮影: トリスタン・オリヴァー ウカシュ・ジャル
    編集: ユスティナ・ヴィエルシンスカ ドロタ・コビエラ
    音楽: クリント・マンセル
    出演: ダグラス・ブース ジェローム・フリン ロベルト・グラチーク ヘレン・マックロリー クリス・オダウド
  • 96分/イギリス=ポーランド/2017年
    (C) 2017 Loving Vincent Sp. z o.o/Loving Vincent ltd.







  • [提供:キネマ旬報社]
     朝の散歩の途中で捨て子を拾ってしまったチャーリーは,その子を育てるはめに.5年後,成長した男の子はチャーリーの仕事を手伝い始める.一方で赤ん坊を捨てた女性はその後成功し子供を捨てたことを後悔する日々を送っていた….

     母の精神病発症と父の死,極貧時代を過ごしたチャールズ・チャップリン(Charles Spencer Chaplin)は,8歳で芸人の初舞台を踏む.17歳でフレッド・カーノ劇団一座に入り,喜劇の基礎となるダンス,身振り,ものまね,パントマイムの技術と基本スタイルを体得.その喜劇に社会風刺を吹き込む作風は,ミューチュアル社に所属していた時代の作品から見られるようになる.イギリス新救貧法の欺瞞を批判するメッセージ性を基幹に置きながら,喜劇性と両立させる作品は,1918年にファースト・ナショナル社に移籍してから加速度的に生み出されている.

     チョビひげに山高帽,だぶだぶのズボンにどた靴,ステッキを振り回す.小さな路上生活者"Little Tramp".そのキャラクターの造形とドタバタ劇から醸し出される,人生のペーソス.極貧にあえぐ庶民の生活に救いをもたらす情愛は,高度資本主義社会の人間疎外を告発を描く後年の作品より以前に確立されたチャップリン映画の特色である.本作の撮影は,1920年に終了しているが,チャップリンの私生活は不調の極みにあった.製作直前,最初の妻ミルドレッド・ハリス(Mildred Harris)との間に生まれた第一子は,わずか5日後に死亡している.妻を「知的興味の乏しい女」とみたチャップリンに対し,ミルドレッドは夫を「身勝手な仕事人間」とみており,信頼関係は破綻していた.

     ファースト・ナショナル社との契約トラブルに辟易したチャップリンは,1919年にD・W・グリフィス(David Wark Griffith)らとユナイテッド・アーティスツ社を創設する.その心労に追打ちをかける泥沼の離婚劇は,チャップリンが慰謝料と共有財産の一部を支払うことで終結する.ミルドレッドはファースト・ナショナル社に働きかけ,離婚訴訟に乗じて本作の未編集フィルムの差押さえを目論んだが,それを察知したチャップリンは,フィルムをコーヒーの缶につめてソルトレイクシティのホテルの一室で編集作業を行ったという.製作期間は9か月,取り直しを重ね,撮影フィルムの長さは公開された部分の 53 倍にも及んだ.

     サイレント時代の名子役となったジャッキー・クーガン(Jackie Coogan)の無邪気な演技は好評で,当時ヴォードヴィルの一芸人にすぎなかったクーガンはこの時期に最も著名な子役として知られることとなった.ドラマは,疑似的な父子愛がいつしか真実のものとなる過程を典型的に描いている.撮影に使われた下町のオルベラ・ストリートは,撮影より10年ほど前,観光客向けにメキシコ風に改装された街.チャップリンの故郷ケンニントン・ロードの煉瓦の街づくりを彷彿とさせるような,レンガの小口面を積み上げた家の街並みである.

    ライムライト Limelight [Blu-ray]
    KADOKAWA / 角川書店

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    原題: THE KID
    監督: チャールズ・チャップリン

    製作: チャールズ・チャップリン
    脚本: チャールズ・チャップリン
    撮影: ロリー・トザロー
    出演: チャールズ・チャップリン ジャッキー・クーガン エドナ・パーヴィアンス カール・ミラー チャック・ライスナー
  • 52分/アメリカ/1921年
    (C) 1921 Charles Chaplin Productions







  • [提供:キネマ旬報社]
     1930年,9月.エリオット・ネスが,財務省から,ここシカゴに特別調査官として派遣されてきた.禁酒法下のシカゴでは密造酒ともぐり酒場は実に10億ドル市場といわれ,ギャングたちの縄張り争いは次第にエスカレートし,マシンガンや手榴弾が市民の生活を脅やかしていた.中でもアル・カポネのやり方はすさまじく,シカゴのボスとして君臨していた….

     世紀の悪法「禁酒法」は,第一次大戦後の穀物相場を下げるため,またアメリカ建国を自負する"潔癖主義者"ピューリタニストが,アイルランド系やイタリア系移民の酒癖の悪さに苛立って議会に訴えたことで成立した.アルコールの禁止には,国内のビール醸造に関与するドイツ市場に経済的打撃を加える意図もあったが,法施行以前の酒は取締り対象から外れ,当然混乱を招いた.アングラ経済の温床となったスピークイージー(ヤミ酒場)が乱立し,ニューヨークだけで10万軒以上あったと推計されている.ウイスキー製造のケンタッキー,ビール醸造のミルウォーキーを結ぶ大都市シカゴを拠点に,暗黒街の犯罪組織を拡大させていったアル・カポネ(Al Capone)は,その買収工作でも勢力を伸ばした.

     買収に屈しなかった酒類取締局捜査官エリオット・ネス(Eliot Ness)の特別捜査チームを,メディアは"アンタッチャブル"と持ち上げた.カポネ逮捕後,政治的野心を露わにしたネスは逆に足元をすくわれ,禁酒法廃止後にはアルコールに溺れ,不遇の晩年を送っている.本作は,彼の自伝にもとづく映画ということではあるが,ネスの叙述には信頼性の面で疑わしい点が多い.それでも本作が名作と名高いのは,ブライアン・デ・パルマ(Brian De Palma)の技巧が随所に光る演出によるところが大きいのだろう.「ボディ・ダブル」(1984)の成功後,サスペンス・スリラーに飽きを感じたデ・パルマは,国民から喝采で迎えられるヒロイズムを扱うことに興味を抱き,本作製作のメガホンをとる.

     シカゴ・ユニオン・ステーションでの銃撃戦は,ソビエトの古典映画「戦艦ポチョムキン」(1925)モンタージュ技法のオマージュだが,単にエピゴーネン(模倣)とはいえない完成度を誇る.いわゆるデ・パルマ節ともいえる長回しも,老警察官の殉職を描く痛々しい匍匐(ほふく)でしっかり存在感がある.しかし,本作で何より凄いのは,今も時代を感じさせないスタイリッシュで清潔感ある衣装(アルマーニ)である.しばしば,ジョルジオ・アルマーニ(Giorgio Armani)はファッションデザイナーでなければ映画監督になりたかった,と語っている.

     ネス役のケビン・コスナー(Kevin Costner)のチャコールグレーのスーツと赤ワイン色のネクタイにV字型ベスト.カポネに雇われた暗殺者は眩しいほどのホワイトスーツに身を包み,ストライプのシャツと黒いラインのパナマハットの調和が美しすぎる.禁酒法時代,乱立したヤミ酒場の多くは犯罪カルテルとつながり,イタリア系マフィアの肥しとなった.移民抑圧策としての禁酒法は,結果的にマフィアを育て莫大な利益をもたらす結果になってしまったわけだが,血なまぐさい世界に身を置く男たちの勝負衣装が,場面をきりりと引締め,隙を感じさせない.潔癖を自任していながら,インモラルを招くザル法を求めたピューリタニストの薄汚さを,嘲笑うほどの清潔感である.

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    ワーナー・ホーム・ビデオ

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    原題: THE UNTOUCHABLES
    監督: ブライアン・デ・パルマ

    製作: アート・リンソン
    原作: オスカー・フレイリー
    脚本: デヴィッド・マメット
    撮影: スティーヴン・H・ブラム
    編集: ジェリー・グリーンバーグ
    音楽: エンニオ・モリコーネ
    出演: ケヴィン・コスナー ショーン・コネリー アンディ・ガルシア チャールズ・マーティン・スミス ロバート・デ・ニーロ
  • 120分/アメリカ/1987年
    (C) 1987 Paramount Pictures







  • [提供:東宝映像事業部]
     「Forever love」をはじめ,数多くのヒット曲を発表,アメリカにも進出し世界的なロックバンドとなったX JAPAN.世界への挑戦,メンバーの脱退やバンドの解散,HIDEとTAIJIの死,そしてToshlの洗脳など,いくつもの悲劇,騒動を経たX JAPAN は,2007年に再結成を遂げる.その後,バンドは精力的な活動を行い,2014年にはアメリカのマディソン・スクエア・ガーデンでの公演を成功させる.映画は,その公演の様子や舞台裏を追う….

     本作のオリジナル・サウンド・トラックは,日本で全国公開された2017年3月3日にソニー・ミュージックからリリースされている.30年前からX(1992年からX JAPAN)のファンであれば,およそ信じがたい決定だったはずだ.1988年に1作目のアルバム『Vanishing Vision』は1万枚という異例の初回プレスを売り上げ,Xとメジャー契約を結んだのはCBSソニーだったが,リーダーのYOSHIKIは同社への不信と嫌悪感を隠さなかった.インディーズ時代ライブの過激なパフォーマンスが知れ渡り,いくつものライブハウスは出入り禁止.関東の「粗大ゴミバンド」とレッテルを貼られたほど,かつてのXは素行が悪かった.

     YOSHIKIの来歴を中心としたバンドの苦悩や葛藤を見事に映像化した本作のOSTが,古巣ソニーから出されたことに,何より感動を覚えた人も少なくないのではないか.YOSHIKIが11歳の頃に父親は自殺,YOSHIKIとは幼なじみでX JAPANをともに結成したToshlの洗脳騒動,信頼していたギタリストHIDEの突然の死,それに続くベーシストTAIJIの脱退と死――悲しみを振り切るように作曲と演奏にのめり込むYOSHIKIが,まとわりつく死の影を感じ,常にそれに怯えていることを率直に自分の言葉で語る.X JAPANはアメリカでは「プログレ・メタル」とカテゴライズされることもあるが,彼らの音楽は英米圏で芳しい評価を得てこなかった.

     今は,マリリン・マンソン(Marilyn Manson)やジーン・シモンズ(Gene Simmons),マーティ・フリードマン(Marty Friedman)から,YOSHIKIの音楽性を高く評価する言葉が聞かれる. 彼の作り出す音楽は,繊細ながら独特の力強さがあり,年を経るごとに深みを増している.その意味で全うな評価であり,ドキュメンタリー映画として陥りがちなバイアスもない.とても良質な作品なのだが,Toshlの成長に若干のフォーカスがあってもよかったかもしれない.啓発セミナーの洗脳に苦しみ放浪の日々を送った彼は,老人ホーム慰問など地道な歌手活動で,自分なりに真実を探り当てようとしていたのだ.再結成後の彼の歌声にも,以前にはなかった深みと美しさが備わり,本作のエンディング・テーマ《La Venus》(サントラTrack.1収録)は,讃美歌のように聞こえる.

    X-JAPAN THE LAST LIVE 完全版 [DVD]
    ジェネオン・ユニバーサル

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    原題: WE ARE X
    監督: スティーヴン・キジャック

    製作: ジョン・バトセック ダイアン・ベッカー
    撮影: ショーン・カービー ジョン・マリングワン
    編集: マコ・カミツナ ジョン・マリングワン
    音楽: YOSHIKI
    出演: X JAPAN
  • 96分/アメリカ/2016年
    (C) 2016 PASSION PICTURES LTD.







  • [提供:シンカ]
     晴れて大学生となったジョシュ・ウィートンは,ラディソン教授の哲学のクラスでいきなり難題を突きつけられる.無神論者のラディソンは,学生に「神は死んだ」と,その存在を否定する宣言書の提出を求める.単位欲しさに言われるままにする学生たちを横目に,ジョシュだけは,クリスチャンである自分にはそんなことはできないと拒否する.するとラディソンは,ジョシュに神の存在を証明してみせろと迫るのだった….

     アメリカ合衆国憲法修正第一条の国教禁止条項によれば,アメリカ合衆国議会は宗教に関する法律を制定しない.紙幣や硬貨に"IN GOD WE TRUST"と刻んでおきながら,合衆国最高裁判所は,これを宗教的な意味を持たせたものではないとして容認する.1920年代の論争的保守運動を経て,敬虔なクリスチャンといえば保守的な「福音派」が含意されるが,福音派はアメリカ全人口の約3分の1を占め,リベラルなプロテスタントを数で凌いでいる.

     本作では,積極的無神論を標榜しながらも,学生の「信仰の自由」を一方的に圧殺しようとする愚物として教授を描いた.これにより,信教の自由は,神の存在を信じなくてよい権利も含まれている事実を無視する"救いようのない馬鹿"と彼を性格づけた.そのように描かなければ,ルートヴィヒ・フォイエルバッハ(Ludwig Andreas Feuerbach)やスティーヴン・ホーキング(Stephen William Hawking)ら無神論者への反駁がかなわないからである.

     そもそも,神の存在/非存在はいずれかが「真」であるという主張の論証が不可能であると同様に,真理は覆われ秘められているか,錯綜していて明らかとはなっていないとするアカデメイア派懐疑主義的立場,あるいは不可知論そのものが完全にスルーされている.本作は,無神論者を悪徳者,クリスチャンを善者という短絡的前提から製作され,プロパガンダ精神を飛躍させた悪質なデマゴーグというほかない.

     自主製作物のなかでは,都合の悪い事実はないものとし,恣意的ロジックで敵をねじ伏せ,勝利を叫ぶ.古来より侵略者や卑劣な歴史修正主義者が好んだ手法である.実存にかかわるポレミカルな題材を扱ううえで犯してはならない不公正を働き,福音派の伝道のすばらしさだけを合唱する厚顔無恥.たとえ無神論者でなくとも,その不誠実な態度にはきっぱりと嫌悪と訣別の意思をもつべきであろう.

    祈りのちから [DVD]
    ソニー・ピクチャーズエンタテインメント

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    原題: GOD'S NOT DEAD
    監督: ハロルド・クロンク

    製作: マイケル・スコット ラッセル・ウォルフ デヴィッド・A・R・ホワイト アンナ・ジーリンスキー エリザベス・トラヴィス
    脚本: ケイリー・ソロモン チャック・コンツェルマン
    撮影: ブライアン・シャンリー
    編集: ヴァンス・ヌル
    音楽: ウィル・マッサー
    出演: ケヴィン・ソーボ シェーン・ハーパー デヴィッド・A・R・ホワイト ディーン・ケイン ニュースボーイズ
  • 114分/アメリカ/2014年
    (C) 2014 God’s Not Dead. LLC




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