先日受講させて頂いた「教会長おやさと研修会」で一つ気がついた。
それは、分科会でのこと。
その分科会は「障害者と家族に寄りそう心」というもの。
私の周囲には、精神的な障害を持つ方が数人おられ、その家族の方々が大変なことも知っており、そうした方々への心遣いを学びたいと受講した。
ところが、その先生は、「障害者とは精神的な障害もありますが、手術をして不自由をしている人も障害者です。例えば、人工肛門などを着けた方など、元気に動けていて外からは何も変わらないように見えても、何らかの不自由を持つ方は皆障害者です。」と仰った。
「なるほど、ならば自分も障害者だ。」と思って、ふと笑いが出てしまった。
「障害者が障害者を心配するための講習を受講しているのだから・・・(^^)」
障害者が障害者の心配をして、あれこれと考える。
これはまた結構なことだ。と思った。
実は、うちの教会に来て下さる方で、自分もうつで辛いけど、友達がうつで悩んでいると聞くと、心配して飛んでいく人がいる。
「会長さんが僕の辛い時に心配して飛んできてくれたから、そのまねをして」と言ってくれた時には驚いた。
この方自身、自分の心の動きに悩みを抱えて教会に来られるのだが、どうなるだろうか?という中、家族に不思議と思いもよらない結構な状況をお与え頂いて今日まで来て、喜んでいる。
まぁ。いんねんならば通って果たさなければならない。
それを、人のことを心配しながら果たして行く中に、これまた不思議な親神様・教祖のお導きがあるという証拠を見せて頂いているように思っている。
無いからやれない。ではない。
無いけれども、やらせてもらいたい。
出来ることを!
この心に、必要な時に必要なだけ、親神様・教祖は力を添えて下さるように思う。
それは、分科会でのこと。
その分科会は「障害者と家族に寄りそう心」というもの。
私の周囲には、精神的な障害を持つ方が数人おられ、その家族の方々が大変なことも知っており、そうした方々への心遣いを学びたいと受講した。
ところが、その先生は、「障害者とは精神的な障害もありますが、手術をして不自由をしている人も障害者です。例えば、人工肛門などを着けた方など、元気に動けていて外からは何も変わらないように見えても、何らかの不自由を持つ方は皆障害者です。」と仰った。
「なるほど、ならば自分も障害者だ。」と思って、ふと笑いが出てしまった。
「障害者が障害者を心配するための講習を受講しているのだから・・・(^^)」
障害者が障害者の心配をして、あれこれと考える。
これはまた結構なことだ。と思った。
実は、うちの教会に来て下さる方で、自分もうつで辛いけど、友達がうつで悩んでいると聞くと、心配して飛んでいく人がいる。
「会長さんが僕の辛い時に心配して飛んできてくれたから、そのまねをして」と言ってくれた時には驚いた。
この方自身、自分の心の動きに悩みを抱えて教会に来られるのだが、どうなるだろうか?という中、家族に不思議と思いもよらない結構な状況をお与え頂いて今日まで来て、喜んでいる。
まぁ。いんねんならば通って果たさなければならない。
それを、人のことを心配しながら果たして行く中に、これまた不思議な親神様・教祖のお導きがあるという証拠を見せて頂いているように思っている。
無いからやれない。ではない。
無いけれども、やらせてもらいたい。
出来ることを!
この心に、必要な時に必要なだけ、親神様・教祖は力を添えて下さるように思う。