ブログあつたかい

しんちつが神の心にかなハねば いかほど心つくしたるとも (12-134)

将来を思い描けているかなぁ

2011年06月14日 23時43分02秒 | 思った事
昨日から、12下り目のお歌が気になってました。
一ッ いちにだいくのうかゞひに
   なにかのこともまかせおく
そして、
十ド このたびいちれつに
   だいくのにんもそろひきた

そして今日、国会中継を聞きながら、私たちは自分たちの将来について、具体的に思い描けているだろうか?と思いました。

「心どおりの守護」と聞かせてもらっているのです。
これは、「心で思い描くようになって来る」ともいえると思います。

お道をはじめて、親神様は道具衆を集めて、おつとめをする事を計画されました。
しかし、その思惑は人間の成人がまだまだ届かぬために成就されず、このままでは、道は遅れるとして、応法の道として教会を許されて、現在に至っています。

なぜこんな事を書くかと言うと、この「教会」という事は、人間が思い描いた形で、人間からお許しを願ったものだからです。
この教会・教会制度についても「矢来をしたようなもの」とおさしづに示されて、矢来も破損するといわれています。

明治の頃、教会として公認されても、政府より弾圧をされました。
教祖のご在世当時、公認されずに、弾圧されたと同じようにです。
そしてその時のおさしづでは、「はいはい」と言っておけ。「はいはいより這い上がる道はない」として、言われるままに教えを隠す事になって行ったのであります。
教えを曲げる事はされませんずに、表から隠したのです。
「元の理」の話も隠しました。みかぐらうたも止められる下りを隠しました。

だから見方によっては2重構造となって、教えを聞くものの中にも様々な事情もありました。

上に神の存在、思いを伝えたい。神の思惑を示したい。
そして真に陽気ぐらしが出来る人間に育てたい。陽気ぐらしをさせたいというのが、元の神様の思いです。
この思いはずっと変わりません。

終戦となって、神様のお言葉は全て出される事になりました。
しかし、信仰の自由がうたわれても、物が豊かになり、自分の思うように出来るようになればなるほど、人々の心から神様はどんどん失われてしまって、今日に至っているように思えてなりません。

物がどれだけ豊かになっても、体がどれだけ自由に使えるようになっても、陽気ぐらしできない人は出来ないのです。
病院に精神科、また心療内科なるものが発達して、自分の心がままならない事が、ようやく分かりかけてきた近頃だと思っています。

人間の知恵が発達して、真似がどんどん出来るようになっています。
真似ができるということは、中身・本心は違うという事にもなりかねないのです。
人をだますために、善人の真似をする事もあるのです。
こうした悪人を見抜くこうとしたら、それこそ大変な事だと思います。
そしてこの先を心配したら、切りはないと思います。それこそ、人間不信となり精神の病に確実になることでしょう。

そんな中、神様の働きを知れば、感じる事が出来れば、その不安は無くなります。
不安になる種を心に持っている人でも、それを払いながら通る事が出来るのです。

神様の働きを知るのは、技を身につけるのと同じで、行うことです。
技も一日二日で身に付くものではありません。何日も何年も掛かるものです。

神様を身近に感じて歩める「にほん」のものになりたい。
その「にほん」のちがどこかに出来れば・・・。と思います。