半農半X?土のある農的生活を求めて

「生きることは生活すること」をモットーに都会から田舎へ移り住み、農村の魅力を満喫しながら、日々、人生を楽しく耕しています

本:校則なくした中学校 たったひとつの校長ルール

2020年06月09日 | 素敵な本

うちの奥様が借りてきた本がテーブルの上に置いてありました。

「おっ、これは、以前、テレビでやっていたやつじゃないか」と思い、あっという間に読んでしまいました。

世田谷区立桜丘中学校で10年間、校長をした西郷さんという方の学校変革の歴史が書いてある本です。

本を読むと「スマホ持ち込みオーケー、授業の開始ベルは鳴らない、遅刻オーケー、教室では無く職員室前の廊下においてある机への登校オーケー、授業中に寝てオーケー」などなど、まあ、嘘のような本当の話で、そりゃ誰でもびっくりする内容盛りだくさんなのです。

そんなの信じられないですよね?

子どもだったら「転校したい」となるのが当たり前で、大人でも「自分が子供のころ、本当にそんな学校があったら」と思うような中学校です。

でも本当なのです。

西郷先生というのは、出版元の小学館のホームページを見ると「最初は本を書いて頂くことは断られた。それは『子供達ともっと関わっていたいから、時間が無いから』とのことだった」というものだったようで、決してPRしたいから書いたのではないようです。

なので、青山学院大学の原監督(!?)のように、メディアに決して出たいタイプでは無いようです

ただ、出版社のお願いもあったのでしょう、また、実は2019年度をもって退職となっているので、最後に、と思ったのかもしれません。

とにかくこの10年の流れがざ~っと書かれています。

本を読むと最初の強烈な「スマホ持込OK、遅刻OK…」といった破天荒な常識の意味がだんだん分かってきます。

まず、定期テストが無い、という事。

これはテレビで見た時にも出てきました。

テレビでは「定期テストが無く、子供達が幸せな学校」という感じだったのですが、そのときは、週何回か小テストがあり、それを繰り返していくことで100点分の評価になるというものでした。

この小テストは単元ごとなので、学期の中間・期末テストより習得率が高いこと、さらに「再テスト制度」があって、1回目のテストで良い点がとれなかったら自主的に再テストが受けられ、再テストの点数が高ければそちらの点数が評価に反映されます。

なので「うわ~、点数低かった、やべぇ、次、頑張らないと」といって、一発勝負ではなく、もう1回再チャレンジできる安心感というのがあります。

本来の「学習単元の習得」を生徒が自主的に行いやすいこと、などが注目されました。

ちなみに、別途、「受験対策用」に、評価にはならないが1発勝負の模擬試験はやっています。

 

他に、自分の担任以外でも先生を指名して相談にのってもらえる、という事も放映されてました。

 

本によると、そもそも、この中学校は「公立」で、私立のように選んで来れるわけではなく、地域の子が仕方なく来る学校だったそうです。

というのも、東京は中学校受験の率が高く、特にこの世田谷区は3割ぐらいが私立だそうです。

私立のように選んで受験突破をして来るような、そうじゃない子供たちが来るわけで、そういう意味で色んな子がいるそうです。

つまり、いわゆる「荒れている学校」だったそうです。

で、この西郷さんが最初に校長として赴任してきた時、朝礼で子供たちがちょっと整列乱したり、おしゃべりをするのを先生方が険しい顔で監視し、大きな声で叱っていたそうです。

「あ~、うちの中学校も同じだな~」と思いました。

初めてうちの子が中学校に入学した時、入学式だったか忘れましたが、小学校とは違って、より「監視の目」が強烈だったのが印象的でした。

中にはすごい目で隊列を乱している子がいないか探しながら歩いているような曹長のような先生もいました。

「あ~、もう体力で勝てない中学生に対し、こうやってより軍隊的に縛っていくのが中学校なんだ」と、思ったのです。

ところが、この西郷校長は「子供たちを叱るのはやめましょう。もし、朝礼がつまらなければ、それは校長の話がつまらないからで、校長の責任です」というところから始まったのです。

結果、先生の仕事は「朝礼中に私語や整列していない子を見つけて正す」ではなくなったのです。

西郷先生の書き方では「校長が責任を負えば、先生はその仕事から解放される」という考えです。

 

「校則」もそうでした。

例えば「紺色の靴下をはいている子を注意する先生」がいました。

なぜなら「校則で靴下は白」と決まっているからです。

校長が生徒指導の先生に「どうして白と決まっているんですか?」と質問すると「白は清潔で、中学生らしい」というような答えが返ってきました。

ところが、西郷校長からすれば「中学生なんて白なんて履いてもすぐに茶色に汚れてしまって、よっぽど不清潔に見えてしまう。なら紺色の方がまだ良いじゃないか」とか、「そもそも中学生らしい、ってどういったこと?」といったように、校長なのに校則について先生に疑問をどんどんぶつけていくわけです

そもそも校則がなぜ必要か?という話になっていって、生徒も巻き込んで話し合いを重ね、最後は「校則」が無くなった、という話です。

ただ、こういった単純な話ではなく、そもそもの「インクルーシブ教育」の思想があって、「全員が3年間、どうしたら楽しく中学校生活を送れるか?」というところから、すべては始まっているようなのです。

インクルーシブ教育というのは、例えば発達障害の子、LGBTの子などたくさんいて、西郷先生も相当悩んだようです。

そこで参考になったのが、「みんなの学校」です。

「みんなの学校」は以前、私も見た映画です。

大阪府の公立小学校で、障害がある子も分け隔てなく普通に一緒に学究生活することが本来の公立学校である、という当時の木村校長の理念のもと、まあ、途中でクラスをよく飛び出ちゃう子も当たり前にいる中で、新任の先生もどうしてよいかわからない、という事もありながら、「本来の教育、差別がない教育、いろいろごちゃまぜで普通の子なんてそもそもいない」という前提のすごい学校として認知が広がりました。

西郷先生も「これを自分たちの中学校でも実現するべきだ」となって、例えば、音に敏感な子にどうやって対策をするか?を考えます。

北欧ではそういった子用に、学校に普通にノイズキャンセリングをするヘッドフォンを学校に置いてありますが、日本だと「なぜあの子だけ特別なの?」となってしまいます。

そこで、「誰もがヘッドホンを持ち込んで良いよ」となります。

ところが、本当に必要なのは彼だけなので、結果、「みんな使ってい良いけど彼だけ結果的に使っている」という状態になったそうです。

文字を読み理解する力が一般の半分ぐらいしかない子もいました。

本によると、トム・クルーズやスピルバーグ監督もこの障害があるようで、他の役者に比べて台本を読むのに倍の時間がかかるそうです。

そこでタブレットを使うとその補佐になるのですが、その子だけ特別にするわけにはいかず、先ほどの例の通り「全員持ち込んで良いよ」となるわけです。

他にも見た目は女の子だけど心は男の子、という生徒がいるときに、「女子もスラックスは誰でも履いて良いよ」となっても、それでは特別扱いに変わりがない、という事になります。

じゃあ、「男子もスカートを履いて良いよ」という校則を作らないと、差別になってしまう。だったら、私服でも良いし制服でも良いし、どういった服を着てきても良いよ、となったそうです。

西郷先生は著書の中でも「自分は理系」と書いてあるので、自分の心の葛藤をつぶさに書いておらず、さらさら~っと書いているので、その心中やどれだけのあれつきがあったかは実は伝わってきません。

だから、一見すると「すごいな~」と思って終わりになってしまいます。

おそらく自分の内面の苦労を感じるよりも目の前の生徒や学校という場所を合理的に冷静に観察できる目と頭脳と心をお持ちなのでしょう。

何年もこういったことをやってきて、「生徒総会で決定したことは、学校は全面的に受け入れる」というのもありました。

そういった学校は、始めて見学に来ると「1学年は荒れている」「3学年は落ち着いている」ように見えるそうです。

ただ、西郷先生によると「1年生は、ある意味、本当に授業中に寝てよいか?スマホをいじっていて良いか?そういったことを大人に試してきているんです。だから、1年の担任は叱ってはいけない、と注意しているんです」とのことでした。

そうすることで、外部の見学者からは、一見、1学年は学級崩壊のように見えることもあるそうです。

でも、西郷先生は「2年になれば、遅くとも2年の夏には先生に安心してぐっと落ち着きます」と言います。

これって、実はすごいことです。

さらりと書いているわけですが、教育の現場に立てば、学期ごとの評価を先生側自体が気にするのが普通ですし、1年生でやりきらないければいけない学習指導要領もあり、それを1年生のうちにきちんと計画通り進めなければいけない、という気持ちが焦るはずなのです。

塾や家庭教師だって、普通はそうです。

いわんや、学校の先生となれば、もう、絶対です。

それを「1年は生徒も手探り、こちらも我慢」といって、2年目以降まで待つ、というのは恐るべきことだと思うのです。

会社だって「新人は1年は自主性が生まれるまで就業時間もフリーで絶対叱らない」なんて出来ないですものね?

学校なんて、世間や親の目があるわけですから、まあ、絶対普通ならできませんよ、

結局、この本を読んでも、その裏側の本当のところは伝わってこないと思います。

ただ、数ある「伝説の教師」の本を読んで共通しているのが、その先生が「特別な情熱と思想とコミュニケーション力を持っている」という事です。

授業を教えることではなく、いわゆる「クラス運営力」が高い先生の学級は良くまとりますが、それ以上に、「子供とは本来もっている力を発揮させてあげる場を作ればいいのだ」という強い信念があり、そのためのおぜん立てをする情熱、計画力、そして突破力、行動力が揃わないと、こうはできません。

「みんなの学校」の木村先生や「給食で死ぬ」の大塚先生、尾木ママ、その他、いろいろな先生の本がありましたが、「決して生徒のせいにしない、問題があればそれは先生側、学校側、大人側の問題だ」という信念があります。

そして「待つこと」が出来ます。

「待つこと」ができるというのは、「生徒を、子供を信じることが出来る力」です。

親であれば、どんなことがあっても自分の子のことを信じ待つことが出来ると思いますが、それを生徒にもきちんとできる。

しかも「3年間」という中で、どのタイミングでどのぐらい心と人間力が育ってくるか、そして学力が上がってくるか、ということを、見極められる。だから待てる。信じられる。

これが、大体の「伝説の先生」の共通した能力です。

西郷先生は「愛情というのがわからない、という新任教師が結構増えてきている」とも書いていました。

その時には「1人の困っている子、そういった子を徹底的に助けてあげなさい。それは決してえこひいきではない。周りの子供たちもわかってくれる。そして、1人をきちんと見ることが生徒全員を見れることにつながるんだ、と教えています」と書いていました。

公教育でこれができるのだから、例えば、ベンチャー企業などでもこんなこと、本当は出来ますよね?

最後に、西郷先生が書いていた「自分の子」との話も「あ~、理系で合理的な先生だけど、やっぱり心はあるな~」としみじみしたエピソードが書いてありました。

それは「子供は15歳まで徹底的に愛し育てる。でも15歳になったもうお別れと思う。15歳になったら親離れ子離れをすると決めて育てる。そうすると、15歳までのすべてが愛おしい時間になる」といったニュアンスのことが書いてありました。

書き方がサラリとしている方なので、心熱くなるような文章が少ないですが、生徒にとても人気がある先生だったようで、大人視線ではなく子供たちのところと同じ視線で一緒に遊べる、そして先生という役割もきちんとできる、さらに学校経営というマネージメント力もあった、本当にすごい先生だと思います。

2019年度で定年退職されましたが、他の先生に「学校の先生も転職を考えなさい、あるいは、教育界で校長になりなさい。校長にならないと本当に自分のしたい教育が出来ないから」と、熱く語っていたという話もありましたので、おそらく、今頃は各地の研修などで引っ張りだこなのでしょうね。

10年後、日本の公教育がもしかすると少し変わって軍隊式から北欧式のように、自主性を発揮させる場になっているかも、とちょっと期待を持てた本でした

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