世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日本は侵略国家ではありません。(1)

2008-12-19 11:12:36 | Weblog

田母神論文は、アパグループの第1回「真の近現代史観」懸賞論文募集で、最優秀賞を受賞したものである。(正式には、最優秀藤誠志賞と言う。藤誠志とは、アパグループ代表の元谷外志雄氏のペンネームである。)

いろいろと議論されているから、この件については御承知の方々も多いことと思うが、実際にその内容については殆ど方が詳しく承知していないことと思う。

ここではその内容を自分なりに解説してみたいと思う。以下、この論文を章節を追って、二行でその内容を確認してみたい。

田母神論文の表題は「日本は侵略国家であったのか」と言うもので、A4で9頁に及ぶボリュームのものである。

1.田母神論文の解説(田母神論文は正論です)

第1節
19世紀後半、日本は日清・日露戦争で得た権益を守る為に、各種条約に基づき中国大陸に軍を配置したのであり、無条約の状態で大陸に進出(侵略)したことはない。

第2節これに対し蒋介石国民党は、頻繁にテロ行為を繰り返し邦人に対し大規模な暴行、惨殺行為を繰り返す。これは国民党内に入り込んだ共産党ゲリラによるものであった。

第3節
日中戦争のきっかけとなった盧溝橋事件は、その共産党ゲリラによるものであり、劉少奇も東京裁判で話している。張作霖事件もコミンテルンの仕業との説が有力となっている。

第4節
欧米列強の植民地政策は過酷であったが、満州も朝鮮半島も、日本は共に内地化を図った。そのため満州も朝鮮も治安が回復し、人口が増加した。圧政から開放され生活が向上した。

第5節
日本は満州・朝鮮で現地人教育に力を入れた。9つの帝国大学中、京城帝大は6番目と早いし、朝鮮人も中国人も陸軍士官学校への入校を認めた。蒋介石・何応欽も卒業生である。

第6節
朝鮮李王朝のイウン殿下も陸士を卒業し、皇族の梨本宮方子妃殿下をお妃としている。清朝皇帝であり満州皇帝であった溥儀殿下の弟君には、華族の嵯峨浩妃殿下が嫁がれている。

第7節
イギリスはインド人へ教育もしなかったし、英王室からお妃を嫁がせることもなかった。日本は、大和、朝鮮、漢、満州、蒙古の5族共和を唱え現地人を同等に扱ったのである。

第8節・辛丑(しんちゅう)条約
義和団事件講和議定書に基づき居留民保護のため日本は兵を駐屯させていた。パリ講和会議で米国の入知恵で中国は対華21箇条の不満を述べるが、英仏は日本に賛成している。

第9節
当時、ルーズベルト政権内にもコミンテルンスパイが300人は居た。ハル・ノートの作者のハリー・ホワイトは中でも上位のコミンテルンスパイで、大統領に工作をしていた。

第10節ルーズベルトは日本から戦争を仕掛けさせることを目指していた。ハル・ノートはそのための最後通牒であった。アメリカの罠であり、さもなくは日本は植民地となっていた筈だ。

第11節
大東亜戦争がなければ、東亜の開放は百年、二百年は遅れていたであろう。人種平等の世界もなかったであろう。尊い命を捧げた幾多の英霊に感謝してもしきれるものではない。

第12節
あの大東亜戦争は愚劣な戦争だった、などと言う馬鹿が居るが、人類の歴史を振り返れば評価は異なってくる。現在でも、国際関係を話し合いで再構築することは非常に困難だ。

第13節
東京裁判は、日本にだけ責任を押し付けたものだ。このマインドコントロールから抜け出すことが必要である。そして日本の独自性の確立が、最も必要なことである。

第14節
自分の国を自分で守ることは、外交交渉の後ろ盾となる。諸外国では普通の考え方である。東亜諸国ではこの戦争を肯定的に評価している。侵略国家とは、正に濡れ衣である。

第15節
日本は古い歴史と優れた伝統を持つすばらしい国である。そして歴史的事実を偏見なく見てゆけばそのことかよくわかる。それが輝かしい日本の歴史を取り戻すことになる。


と言うのが、「田母神論文」の要旨である。これは将に「正論」である。近現代の歴史を少しだけ紐解いてみれば、これが正論であることがよくわかる。政府見解こそ、マインドコントロールされた間違った見解である。

小生のこのブログは、将にこのことを証明するために、諸文献を(偏見と独断だが)読み解いて解説しているのである。小生のこのブログを読めば、幾ばくかは、田母神論文の証明と理解につながるものと思う。
(続く)
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ヨーロッパと日本(45)

2008-12-10 13:03:25 | Weblog

中国は、12月8日の8時前後に、尖閣諸島の魚釣島の南東約六キロの日本領海内に、2隻の海洋調査船を領海侵犯させた。領海侵犯をしているのを発見したのは、第11管区海上保安本部那覇所属の巡視船くにがみ」で、同日8時10分頃である。この2隻の海洋調査船は、「海監46号」(1,100t)と「海監51号」(1,900t)であり、尖閣諸島の魚釣島の南東約6キロの日本領海内で、魚釣島に近づいたり離れたりと、挑発行動を繰り返していたという。巡視船「くにがみ」は繰り返し無線を使って領海外への退去を呼び掛けたが、無視して領海侵犯を繰り返したという。

結局17時20分頃と17時35分頃、魚釣島の北北東約40キロの海上で相次いで領海外へ出たという。なんと9時間30分にもわたり、日本の領海を侵犯されていたことになる。何と言う不甲斐なさであろうか。

薮中三十二外務事務次官は、崔天凱中日中国大使に、調査船の侵犯に抗議し領海外への即時退去を求めているし、たまたま北京に滞在中の斉木昭隆外務省アジア太平洋局長武大偉中国外務次官に抗議した。しかしそれだけである。なぜ「今度領海侵犯したら砲撃するぞ」くらい言わなかったのであろうか。もちろん直接砲撃するぞ、といわなくても良い、「如何なる事態が起ころうともそれはお前の責任だ」くらいは言ってほしかった。

PL126型巡視船「くにがみ」は、常備排水量1,200t、7,000馬力のディーゼル機関、40mm機関砲と多分20mm機銃しか装備していない。やはり常時、護衛艦(駆逐艦)くらいはそういう海域に配備すべきではないか。巡視船でもこんなケースでは、どんどんと、威嚇射撃くらいはすべきではないか。そしてもっと雷撃出来る位の武装を強化すべきです。

もう一つ、なぜこの時期に敢えて中国は、挑発的領海侵犯を行ってきたのであろうか、と言うことも深く考えておかなければならない。来年1月にはアメリカ合衆国の大統領が、共和党から民主党のオバマに替わる。民主党は日本をパスして中国にべったりである。米民主党は中国のスパイに手玉に取られている。尖閣諸島は中国の領土だぞ、民主党のオバマよ、わかったか、と言うことを伝えたいための領海侵犯なのである。

中国が尖閣諸島を占領したら、日本国民と自衛隊は中国と戦争をしなければならない。その時アメリカは本気で日本を守ってくれるだろか。中国の意図していることは、中国は台湾侵攻の時に、序(ついで)に尖閣諸島も占領しようとしている事である。その時はアメリカさんよ、何もするな、と言っているのである。事実、'08.12.9の中国外務省の記者会見で劉建超報道局長は「尖閣諸島は中国領だから調査船はいつでも派遣する。」とほざいている。日中韓首脳会談(12/13、福岡)なんぞはボイコットしてしまえ。中国は足元を見透かしているぞ、麻生さん!。

このような意図を持つ国が隣に存在する時に、非核三原則は時代遅れである。今の自国の歴史も真っ当に語れない世の中では、極秘にでも核武装を進めるしかない。核武装していれば、中国に対して完全な抑止力となる。田母神航空幕僚長、空将の言っていることは、真実である。('07.7.4のブログ「日中戦争は中国共産党が惹き起こしたものだ」を参照のこと。) (終わり)
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ヨーロッパと日本(44)

2008-12-09 23:56:44 | Weblog

それは、日本も核武装することである。北朝鮮が核武装をしたのであるから、しかも中国の核弾頭は、2百発以上が日本にセットされている現状を鑑み、そのことを声高らかにあらゆる機会を利用して宣伝し、その危険性を訴えることである。そして日本も核武装するかもしれないというムードを全世界に醸し出させることである。そしてそれを半ば既成事実化することである。そして、おもむろに日本も核武装が必要であると宣言すればよい。

世の中には、命よりも大切なものがある。
それは民族の・自分の国の・その国の民の独立と自由の確保である。命があっても独立と自由がなければ死んだにも等しい。少なくとも、独立と自由は、命と同じくらい大切なことである。チベットやウイグルには独立と自由がない。国全体が奴隷となってしまっている。アメリカの黒人奴隷よりもひどい状態に置かれている、と思わなければいけない。事実、ウイグルでは適齢期の娘は強制的に漢民族の男子の結婚させられて、ウイグルの種を絶やそうとしている。チベットでも同じである。それなのに、世界はそのことを咎めない。

1972年の日中国交樹立の少し前に作成された、といわれている「日本開放第二期工作概要」と言う資料がある。中国共産党が作成した工作員の秘密指令であるが、第二期とは日中国交回復後の次の段階の事をさしているのだが、この工作概要には次のような指令がある。

我が党の日本解放の当面の基本戦略は、日本が現在保有している国力の全てを、わが党の支配下に置き、わが党の世界戦略に奉仕せしめることにある」とし、冒頭に「群集掌握の心理戦」の重要性を掲げている。

群集掌握の心理戦とは文化事業などを通じて「全日本人に中国への好感、親近感を抱かせる」ことであり、その目的は「わが党、わが国への警戒心を、無意識に内に捨て去らせることにある」。そのために「日本人大衆が中国大陸に対し、今なお持っている”輝かしい伝統文化を持っている国”、”日本文化の起源”、”文を重んじ、平和を愛する民族の国”と言うイメージをかきたて、さらに高まらせる」という。そして政界、学会、マスコミ、財界、など各界の日本人をコントロールするために、対象をグループごとに働きかけの方法も指示しているが、その内容は驚くほど具体的だという。

胡錦濤や温家宝の微笑外交はこの指令に沿ったものであり、日本を独立国家として認めているからではない。日本を隷属させる為の方便と心得なければ、大きな過ちを犯すことになる。特に日本の政治家や企業の研究開発部門、大学の研究室などはこの点に心すべきである。

福田前首相は中国からの留学生の増加を約束した。さしずめ福田親子は二代に渡って中国に篭絡されてしまっているのであろう。麻生も気を付けなければいけない。それには「靖国神社への参拝の有無」で判断できる。麻生がもし靖国神社へ参拝しなければ、中国に篭絡されてしまったと、日本国民は注意しなければならない。('07.5.8のブログ「中国の対日特殊工作」を参照のこと。
(続く)
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ヨーロッパと日本(43)

2008-12-08 19:59:56 | Weblog

恵隆之介(めぐみりゅうのすけ)氏著の「敵兵を救助せよ!」(草思社)には、次のような話も記載されている。それを紹介して、今回の「ヨーロッパと日本」についての筆を置こう。

1943年(昭和18年)11月27日、ニュー・アイルランド島(パプア島の東隣の小さな島)のカビエン(島の北端に位置している)西方チンオン島沖で、ラバウル野戦病院からの傷病兵1,129名を乗せた病院船ぶえのすあいれす丸」(9,625トン)は、米軍のB24爆撃機に爆撃されて沈没する。患者、看護婦、乗組員は16隻の救命ボートと発動機艇2隻で漂流するが、12月1日、同じくB24に発見される。そのとき、漂流中の乗員はB24に対してオーニング(キャンバス地などで出来た日よけや雨よけ用のテント様のもの)上に赤十字を表示したが、それを無視して容赦なく機銃掃射が加えられ、看護婦を含む158名が戦死している。

小生は、傷病兵1,129名の大半が船と運命を共にして沈み、辛うじて救命ボートに避難できた人員が158名で、その全員が機銃掃射で亡くなられたと確信する。そのときの無念を想像すると胸が張り裂ける思いである。

多分に一神教徒は、異教徒には容赦しないものである。このケースでは漂流者がキリスト教徒であれば、ここまではしなかったであろう、と想像する。騎士道といってもそれはキリスト教徒同士の話であり、武士道とは全く異質なものであろう。

平成20年10月12日、日本政府は中曽根外務大臣談話を発表している。

2008年(平成20年)10月11日(米国時間)、米国は、北朝鮮が一連の検証措置に合意したとして、北朝鮮のテロ支援国家指定解除を発表した。・・・その際、ブッシュ大統領からは、『拉致問題については強い気持ちを抱いている。また、日本国民が強い懸念と不安をもたれていることを理解している。被害者家族への深い同情と、この問題を解決するための誠実な気持ちをお伝えしたい。』との発言があった。我国としては、核問題と同時に、拉致問題を含む日朝関係も前進するよう、米国を始めとする関係国と緊密に連携しつつ、最大限の努力を行っていく。

日本政府はこのブッシュの発言の理解の仕方を間違えている。次のように理解するのが正しい。

・・・理解はしている。同情も感ずる。しかしそれ以上に米国の国益が優先するのである。日本は何の牙も持たないポチである。黙ってついてくれば良いのである」と。

北朝鮮は核を破棄することはない。日本が一番危ない状況に置かれている。この現状を打破するにはどうすればよいのか。それはそれ程難しいことではないが、政治的には頗る難しいことである。
(続く)
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ヨーロッパと日本(42)

2008-12-07 14:58:54 | Weblog

3月2日午前2時頃、日本駆逐艦「雷」いかづち)は蘭領ボルネオのパンジェルマシンに向け針路を、東南東方向へ変更した。そして午前9時50分頃、8,000m先に多数の浮遊物を発見する。近づくと漂流中の敵将兵とわかる。午前10時、艦長工藤俊作少佐は、「救助!」と叫び、「救助活動中」の国際信号旗を掲げ、第3艦隊司令部高橋伊望中将宛に「我、タダ今ヨリ、敵漂流将兵多数ヲ救助スル」の無電を発信する。世紀の救助劇の開始である。

しかし浮遊木材にしがみついていた重傷者は、最後の力を振り絞って上から差し出された竹竿まで泳ぎ、竿に触れるや、安堵したのか、次々と力尽きて水面下へ静かに沈んでいったという。甲板上からは、声をからして「頑張れ」「頑張れ」と連呼が始る。この光景を見かねて独断で海中に飛び込み、救助する兵も現れたという。戦場で艦を停止させることは潜水艦に狙われるため、きわめて危険な行為であり勇気あるものであった。
事実漂流者を救助中に犠牲になった例は少なくないという。

1944年(昭和19年)10月25日、フィリッピン沖海戦で米軍に撃沈された重巡「筑摩」(11,900トン)乗組員を救助中の駆逐艦「野分」は、米軍機の攻撃を受けて沈没、乗組員273名全員が戦死している。

」のケースは、もちろん艦長の英断であった。
ここで一つの事実を述べておきたい。1995年(平成7年)1月17日、阪神淡路大震災が起こっている。この時陸上自衛隊中部方面総監松島悠佐陸将は、自衛隊法を墨守(ぼくしゅ、頑なに守る)して部隊行動を起こさなかった。そのため助かるべき多くの人たちが犠牲となってしまったのである。

そして「エンカウンター」の救助された422名の将兵には水と食糧が直ちに配られ、それから木綿のウエス(ぼろ布)とアルコールや貴重な水などで、身体についた油がふきとられ、衣類の支給も受けたという。

英海軍中尉サムエル・フォールもここで救助された1人である。フォール卿は戦後、外交官として活躍し、その功績によりサーの称号を受けている。フォール卿は外交官を定年退職後、1996年に自伝『マイ・ラッキー・ライフ』を上梓(じょうし、書物を出版すること、昔梓あずさの木を版木に使ったことから。清水国語辞典より)しているが、その巻頭に、「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と銘記し、顕彰したのである。

1998年(H10)4月29日、サー・フォールは「ザ・タイムズ」に論考を掲載し、工藤艦長の行為を紹介しながら、「友軍以上に厚遇を受けた」と記述し、当時天皇御訪英に反対する論調に反論したのである。この一文は英国の読者に感銘を与えた。

また工藤艦長の行動は、米国海軍軍人をも驚嘆させていたのである。
米海軍は、1987年(昭和62年)機関誌「プロシーディング」新年号で、サー・フォールが「騎士道」(Chivalry)と言うタイトルで工藤艦長の救助劇を称賛した論文を7ページに渡り特集したのである。
(続く)
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ヨーロッパと日本(41)

2008-12-06 00:33:07 | Weblog

1941年(昭和16年)12月26日、連合艦隊司令長官は、「第二期兵力区分部署」を発動、蘭印攻略作戦の開始を発令した。いよいよ、英蘭が植民地とする南方地域の資源、石油、鉄等の獲得に乗り出す。石油資源のない我国は、この蘭印を占領することが最優先課題であった。当時スマトラ、ジャワ、ボルネオ方面では年間合計1,120万トンの石油を産出していた。そして日本軍は、上陸部隊と護衛艦隊のセットで作戦を遂行していた。これに対してこれを阻止する為に米英蘭豪の各国はABDA連合部隊を編成し、ジャワ島のスラバヤを拠点に活動していた。

1942年(昭和17年)2月27日スラバヤ沖海戦が戦われた。

この海戦では日本の駆逐艦隊が英蘭巡洋艦隊と艦隊戦を繰り広げている。日本駆逐艦隊は蘭駆逐艦「コルテノール」、英駆逐艦「エレクトラ」を撃沈している。そのとき、英駆逐艦「エンカウンター」が「コルテノール」の乗組員115名を救助してスラバヤに帰投している。このときもこの救助活動を日本の偵察機が視認していたが、日本海軍は一切妨害しなかったと記載されている。

そして、3月1日午前11時03分、英重巡洋艦「エクゼター」と英駆逐艦「エンカウンター」は、日本海軍のそれぞれ4隻の巡洋艦と駆逐艦隊に発見される。そして11時45分砲撃戦が開始された。しかし衆寡敵せず、13時10分過ぎ頃艦長は「エクゼター」の放棄の旗流信号を挙げる。「エクゼター」の乗組員は次々と海中に飛び込み、日本艦隊に向って泳ぎ始めたのである。「エクゼター」では常日頃、「海に飛び込んだら日本艦隊に向って泳げ、彼らはきっと助けてくれる。」と士官から言われていたということだった。
「エクゼター」は、13時30分、「電」(いなずま)の魚雷で、『沈みゆく敵艦に敬礼』の艦内放送による挙手の敬礼に見送られながら、艦尾から沈んでいった。
そしてその乗組員376人は、駆逐艦「電」により救助されている。

そして8,000m東方にいた「エンカウンター」も、日本艦隊の集中砲火により14時頃に沈没する。
「エンカウンター」乗組員は見渡す限り海また海のの炎天下、重油の海に浸かりながら
21時間も漂流していた。
(続く)
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ヨーロッパと日本(40)

2008-12-04 21:16:15 | Weblog

更に航空機が戦艦を撃沈した初めての事例となった、と小生は理解する。

フィリップス提督は、日本海軍航空隊による真珠湾攻撃の報を聞いていたが、「停泊している艦船であったからこそ成功した」と一笑に付していたのである。そして自信満々で、自艦の対空砲の威力を過信していたという。

日本海軍は、以下の点で優れていた。
1、組織力
2、高性能の航空機と魚雷
3、練度の高さ

このことは、技術開発が如何にに大切で、それらを組織し、うまく運用する能力と使い切る訓練が必要であることを意味している。このことは、今後日本が生き残るためのひとつの重大な示唆を含んでいる、と考えるのである。

そして更に大事なことは、その技術を安易に他国に公開しないということと、情報、諜報の管理を第一に考えることではないかと考える。フィリップスに日本の雷撃機の航続距離は900キロはある、との情報が入っていればこのような過ちはしなかったであろう。

特に中国への先端技術の流出は深刻な事態を引き起こす。そして中国からの留学生はその大半が日本の先端技術を盗み出すことを、その共産党政府から指令されていることを、わきまえていなければならない。しかし、ここでのテーマはこれではない。

英国側を感動させた、以後の日本海軍のとった処置が、この章のテーマである。

恵隆之介(めぐみりゅうのすけ)氏著の「敵兵を救助せよ!」(草思社)は次のように続けている。

「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」を撃沈した後の日本海軍は、随伴の駆逐艦が戦艦の乗組員の救助活動に入ると一切妨害しなかった。そのため、駆逐艦「エクスプレス」は、「プリンス・オブ・ウェールズ」の右舷後方に接舷し、救助にかかることが出来た。しかもこの駆逐艦が、シンガポールに寄航する際も、日本軍は上空から視認していたが、一切攻撃はしなかった。もちろん日本海軍は十二分に攻撃する余力を残していたにもかかわらずに、である。
(続く)
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ヨーロッパと日本(39)

2008-12-03 16:08:28 | Weblog

19.日本軍の侍
    (さむらい)


以下も恵隆之介(めぐみりゅうのすけ)氏著の「敵兵を救助せよ!」(草思社)を引用しながら説明している。

1941年(昭和16年)12月10日午前1時20分頃、伊58号潜水艦がマレー半島南東岸で「北上中の英国東洋艦隊発見」の電信を発している。マレー半島のシンゴラとコタバルに上陸した日本陸軍部隊の輸送船団を攻撃するためにシンガポール軍港を出港してきた戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」である。日本海軍航空隊は夜明けとともに直ちに索敵機を発進させ、陸上攻撃機合計94機を発進させた。南部仏印のサイゴン、ツウダムの二基地からである。当時日本にはこれら戦艦に対抗できる艦隊は持ち合わせていなかった。

しかし日本海軍航空隊の陸上攻撃機の攻撃はまことに見事なものであった。当時「プリンス・オブ・ウェールズ」に乗艦していたグレアム・アレン大尉は、後日次のように語っている。

「私たちが海戦当初シンガポールを出港した時、日本海軍の実力を軽視していました。そして攻撃を受けて初めてそれに気付きました。あんな見事な雷撃を我々はこれまで見たことがなかったのです。」

「東洋艦隊司令長官海軍大将のサー・トム・フィリップスはこの光景に腰を抜かし、呆然としました。結局、退艦する意欲すら失い艦と運命をともにしたのです。『プリン・オブ・ウェールズ』の沈没は、大英帝国終焉の象徴であったといえます。」

話はまだ続く。

ここで、日本海軍航空機の優秀性に世界は目を見張った。
英海軍雷撃機の行動半径は320キロ、日本の雷撃機は往復900キロの作戦距離を実証したのである。

フィリップ大将はこの実態を知らず、自国雷撃機の性能基準で艦隊に航路を設定し、クワンタン沖はサイゴン基地から450キロ離れており、安全と思っていたようである。しかも速力20ノット以上の高速で走りまわる2大戦艦を、海軍航空隊が2時間10分で撃沈したのである。しかも日本側の損害は3機であった。マレー沖海戦である。
(続く)
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ヨーロッパと日本(38)

2008-12-02 12:09:59 | Weblog

ちなみに日英同盟は、1902年(明治35年)1月30日に調印され即時発効し、1923年(大正12年)8月18日に失効した日本とイギリスの間に結ばれた軍事同盟で、調印の2年後の1904年(明治37年)から始った日露戦争では、日本に対して好意的中立を保ち、日本を大いに助けている。1914年から1918年にかけて勃発した第1次世界大戦では、イギリスの要請を受けてドイツに参戦し、1914年10月31日~11月7日、イギリス軍とともに当時のドイツの租借地チンタオ要塞を攻撃している。なお1917年(大正6年)にはロシア革命が起こっている。そして1921年11月12日から1922年2月6日の間ワシントンでの国際軍事会議が開かれている。アメリカは日本の太平洋への進出を防止するために、日英同盟の廃止と日本に対して艦隊の縮小を意図する軍備拡大競争の排除を提案する。そしてアメリカは、日本政府から代表団への暗号電報を傍受・解読したことで、会議を思うままに進めてしまった。諜報活動の重要さを示す一例である。

さてこの飛行教育ミッションの団長は、当時2844歳の英海軍大佐ロード・センピルであった。日本海軍航空隊のレベルは稚拙で、宙返りはもってのほかで、長距離飛行もままならなかった。そんなレベルの集団に、センピルたちは空中戦、急降下爆撃、空母着艦等を指導していった。センピル大佐の指導はスパルタ式で、その厳しさは江田島の比ではなかった。彼らの指導は、操縦、射撃、爆撃、写真、通信、航法、機体及び発動機の整備など多方面にわたり、日本海軍航空隊はそれらを学び航空戦力の基礎を確立していった。その成果はきわめて大きく、海軍航空隊の教育訓練方式や内容は、面目を一新することとなる。
ちなみに、センピル夫妻は滞在中日本文化に魅了され、自らその嗜好にあった村の旧家を借りて住み、村民とも積極的に交流し、夫人はボランティアで英語教室も開講している。戦後センピル大佐は日英関係の修復にも尽力し、昭和36年6月に勲二等瑞宝章を受章している。そして孫のイアン・チャン・センピル陸軍中佐の証言によると、日本海軍による真珠湾奇襲の報道を聞いたとき祖父は、日本海軍のポテンシャルの高さに驚愕したという。
センピルにすれば、1921年に来日してわずか1年4ヵ月の指導から、20年そこそこで、そこまで進歩したのかとの思いがあったのであろう。
(続く)
親切な通りすがりの方、ご訂正ありがとうございました。センピル大佐は1965/12/30(S40年)に72歳でなくなられていますので、1893年生まれで、来日した1921(T10)年では28才でした。丁度大佐に抜擢された直後のことのようです。彼は(Wikipediaによれば)スコットランド出身の貴族でLordと称号をつけて呼ばれたのでしょう。本名は、Willam Forbes-Sempillと書かれていました。今後ともよろしくお願いいたします。ありがとうございました。('11/11/2記載)

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ヨーロッパと日本(37)

2008-12-01 00:39:02 | Weblog

しかし御親兵の維持にはそれなりの財政的な基盤が必要となる。それにより税制の改革への機運が盛り上がり、明治6年(1873年7月28日)の地租改正法の公布となる。

1873年1月10日(明治6年)には徴兵制が制定され、御親兵はその役目を新軍隊に譲って本来の皇居警護の任務に専念することとなる。明治5年(1872年)には近衛と改称され、明治24年(1891年)には陸軍の近衛師団となった。

日本陸海軍の兵制は、明治3年10月2日の太政官布告により、海軍は英国式、陸軍はフランス式を採用した。その後陸軍は、明治20年に陸軍大学校教官として来日したドイツ陸軍のメッケル少佐の勧告をもとにドイツ式の軍制に転換している。

以下、恵隆之介(めぐみりゅうのすけ)氏著の「敵兵を救助せよ!」(草思社)を引用しながら説明しよう。

明治新政府は、明治2年9月18日、東京築地に「海軍操練所」を開設し、海軍士官の養成を図る。翌明治3年11月、「海軍兵学寮」と改称し、明治4年2月からは生徒を欧米両国に海軍留学生として派遣を始める。明治9年9月1日、「海軍兵学校」と改称、明治21年8月1日には校舎を広島県江田島に移している。

海軍兵学寮の兵学頭(校長)に、佐賀県出身で函館沖海戦では維新政府軍軍艦の「朝陽」艦長として参戦した中牟田倉之助少将(当時34歳)を就任させる。ここで中牟田は、新生海軍の人材教育には英国海軍士官の招聘が第一として政府に建議した。

英国政府は日本からの要請を応諾し、明治6年7月27日アーチボルト・ダグラス少佐(当時31歳、後大将)以下士官6名、下士官12名、水兵16名の合計34名を派遣してきた。そして中牟田はダグラスに学校運営の殆ど全て任せた。ダグラスは英国海軍兵学校の士官教育システムに、パブリックスクールの紳士教育を融合させ、更にはキリスト教の教義を取り入れた精神教育を行った。要するに世界に通用する海軍士官を養成するために、英国海軍士官を目標としたものである。そして、「士官たる前に紳士たれ」と言う精神は、昭和20年10月、兵学校の閉校まで継承されたのである。

それにダグラスにとっては、未開の野蛮人に教育をすると言う感覚をもって学業にあたったようだが、日本人学生の理解力の鋭敏さに驚愕したのである。そんなわけでキリスト教の教義を取り入れた精神教育も行ったのであろうと、小生は理解する。

また日本海軍航空隊英国海軍の教育を受けている。当時航空戦力も列国に比べ大幅に遅れていた。日本海軍はその航空戦力を構築するため、大正10年7月1921年)、英国海軍の飛行将校30名を「ミッション」として招待し、約1年4ヶ月にわたって霞ヶ浦海軍航空隊で訓練を行わせた。
ミッションと言う形になったのは、当時英国内に、米国に影響されて日英同盟破棄の機運がおこっており、英海軍から正式な派遣が不可能となっていたからだった。
(続く)
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