世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日韓併合100年(49)

2010-12-28 11:33:04 | Weblog

て話を北京議定書に戻そう。この北清事変で次の平和への脅威が発生している。それはロシアによる満州の占領と言うモラルなき軍事行動である。ロシアは不凍港を求めて遼東半島へ進出した。三国干渉で旅順を日本から清国へ返還させたと思ったら、今度はロ助がそれを租借してしまった。ロシアは朝鮮が欲しくて欲しくて仕方がなかったのである。そのため満州を占領して朝鮮を窺(うかが)おうとしたのである。。日本にとってのみならず、イギリスにとってもこれは一大事であった。

当時イギリスは現在の南アフリカ共和国の北東部一体の地域にあったボーア人(オランダ系移民)の国のオレンジ自由国及びトランスヴァール共和国との間で金鉱脈をめぐって、第2次ボーア戦争を戦っていた(1899/10/11~1902/5/31)。ヨハネスブルグはその中心地であったが、戦争の前半はボーア人が優勢であったが、連敗に危機感を募らせたイギリスは大規模な増援を派遣し戦局を挽回し勝利する。そしてフェリーニヒング条約が結ばれて、オランダ語の使用と自治を認めることと引き替えにその2か国をイギリスは併合する(今の南ア共和国)。

ボーア戦争で多大な戦費や人員を費やしたためイギリスは、中国における自国の利権の維持とロシアをけん制するために、他の列強との連携せざるを得ない状況であった。しかしドイツ、フランスは1895年4月23日に、ロシアと結託して日本に三国干渉なるものを、実施している。そのためイギリスは独仏との連携には躊躇した。その代わりに義和団の乱で活躍した日本に接近することになる。日本もロシアと妥協することに失敗し、ロシアとの関係は悪化していた。

日英同盟は、日本は三国干渉を口頭で直接受けた林薫(ただす)を特命全権公使として、イギリスは外務大臣ヘンリー・チャールズ・キース・ペティフィッツモーリスを代表として、1902年1月30日調印(そして発効)された。

交渉は、1901年10月16日に外相小村寿太郎によって開始され翌年の2月30日に調印されている。交渉開始から4か月半で調印にこぎつけている、と言うことは当時の世界情勢なかんずくロシアの南下政策による極東情勢が緊迫していた証左である。

そして、日本はロシアの横暴にはたはた手を焼いていた。その対策のため伊藤博文は日露協商交渉を行っていたが、結局はまとまらなかった。そして日本はロシアの脅威を打破するにはロシアと一戦を交えるしかないと覚悟するに至った。

この日英同盟軍事同盟である。『締結国が他の一国と交戦した場合は同盟国は中立を守り他国の参戦を防止すること、2国以上との交戦となった場合には同盟国は締結国を助けて参戦することを義務付けたものである』、とWikipediaに述べられている。そして、この交渉の中で、日本は単独でロシアと戦争を始めることを伝えている。結果として、1904年2月8日日本はロシアと開戦することとなる。


話は戻るがロシアは地中海への出口を求めて、バルカン半島で1877年4月~1878年3月にかけて露土戦争(ロシアとオスマントルコ)を戦っていた。この戦争はロシアの勝利で終了し、ロシアは多額の賠償金をを得た。更にはブルガリアとルーマニアとモルダビアの一部、アルメニアとそれに隣接するトルコの一部など黒海周辺の地域がロシアへ割譲された。そしてバルカン半島の諸国は独立乃至は自治権を得ることになる(サン・ステファノ条約1878/3/3)。特にセルビア、モンテネグロ、ルーマニアの3公国の独立と大ブルガリア公国が成立した。大ブルガリア公国はロシアの影響下にあり、この結果ブルガリアを通じてロシアはエーゲ海への出口を確保することになる。これを恐れたイギリスオーストリア・ハンガリー帝国はこの条約に反対した。そのためドイツ主催によるバルカン半島の領土問題調整の国際会議が、ベルリンで開かれた(1878/6/13~7/13ベルリン会議)。
その結果、3公国の独立は認められたが、大ブルガリア公国は3分割され2/3はオスマン帝国の主権下の国となり、ロシアはエーゲ海への出口を失った。ロシアはバルカン半島での南下政策は徒労に帰すことになったのである。これがベルリン条約と呼ばれるものである。

そのためロシアの南下政策の矛先は必然的に極東に向かう。それが満州であり、朝鮮半島だったのである。1878年頃の日本と言えば、江華島条約が1876年(M9)2月27日のころである。10月3日の当ブログのNO.14参照のこと。

(続く)
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