更に同書は続く。
「すると、倭国と韓国は、海峡を挟んで、緊密な交流があった様だが、卑弥呼と辰王の関係は、どうだったのか。卑弥呼の死の際は、殉葬と言う弥生時代には、一例もない扶余系、北方系の葬儀だったようだが。また馬韓と同じ木棺墓(有棺無槨)だ。すると、墓制や宗教が似ており、卑弥呼と辰王は、血縁、親戚関係でもあったのか。だが、どちらも魏には、オジャマだったようだ。すると、何らかの関係を想定した方が、理屈が合いやすいが。野心的な歴史研究者にとって、間違いなく、ここに「大鉱脈」がありますよ。やってみなはれ。」
これらの紛争は、当然地方の刺史などに出来る事柄ではない。中央の、つまり司馬懿の承認、あるいは指示で行われたことである、と考えるべきである、と同書には書かれている(330頁)。
一体どんな鉱脈が隠れているのであろうか、興味深いものがある。
何故卑弥呼や辰王を亡き者にする必要があったのか、全く釈然としないのであるが、同書でもその疑問には回答がない。きっと司馬懿がらみの何らかの理由があったのであろう。陳寿は忖度して、書けなかったのであろうが、卑弥呼の死と言う倭国だけの事象かと思っていたら、馬韓国にも同様な事象があったと聞いて、ますます不可思議である。
司馬懿は魏の大将軍で皇帝に次ぐ地位の人物である。何らかの権力闘争のためなのか、では何故卑弥呼や辰王を抹殺する必要があったのか、ピンとこない。きっと司馬懿は、呉との対決に倭国や韓国から兵を動員したかったのではなかったのかな、とも勘ぐっている。それには卑弥呼や辰王は邪魔であった、と言う事か。
さて、孫栄健氏の「邪馬台国の全解決」も、その大半の紹介も終わりに近づいてきた。なんとなく邪馬台国の全貌が、わかったのではないでしょうか。否、わからないか?
ただ日本神話との関係や古事記などとの関連が、クリアになれば、それこそ全解決なのだ。
日本神話や古事記と言えば、当然それは、「天照大神」と「建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)」がらみの話である。天照大神と須佐之男命も、姉と弟の関係である。卑弥呼と難升米との関係も、姉と弟の関係であった。
同書では、次のように表現している。
「東洋思学舎の白鳥庫吉は、明治四十三年に『倭女王卑弥呼考』の中で、『魏使倭人伝』の「卑弥呼」に関する記事の内容と、『古事記』、『日本書紀』の「天照大神」に関する記事内容とを比較し、卑弥呼の死の前後の状況と、天岩戸の神話がよく似ていることを「その状態の酷似すること、何人も之を否認すること能わざるべし」と言う。」
「卑弥呼・アマテラスと難升米・スサノウが、姉と弟であれば、『古事記』と「倭人伝」は、綺麗にぴったりと重なる。もちろん偶然ではない。」
「すると、アマテラスの名は卑弥呼であり、スサノオの名は難升米ナズメ、岩戸から出た新アマテラスの名は、壱与いよ、十三歳だ。」
とも述べている。そして古事記では、岩戸の後のアマテラスは、常に高御産巣日神タカミムスビノカミと一緒に登場すると言う。
とすれば、この高御産巣日神タカミムスビノカミは、「壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、・・・」の掖邪狗ではないのか、ひょっとしたらこの掖邪狗ヤヤコは、 壱与のお父さんかも知れない、とも述べている。
先にも述べたが、掖邪狗ヤヤコは難升米ナズメと同格になっているようにも見える。だから、「因って台に詣り、(その結果宮廷に到着し、)」と書かれている様に、天子の居所・台にまで詣って貢物を献上している。このように宮殿にまで呼ばれるとは、破格の待遇なのだ。
倭人伝を今一度振り返ってみると、そのことがよくわかる。
まず、243年(正始四年のこと)12月には倭王(難升米)が、八人を魏に送っているが、その中に
掖邪狗ヤヤコらがいる。ただし、「伊声耆(イセキ)・掖邪狗(ヤヤコ)等八人・・・」と掖邪狗(ヤヤコ)は二番手となっているが、印綬を賜っている。
「その四年(243年12月のこと)、倭王、また使大夫伊声耆(イセイギ)・掖邪狗(ヤヤコ)等八人を遣わし、生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹・木フ ・短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壱拝す。」
しかし 壱与いよの代になると、伊声耆(イセキ)は居なくなり、掖邪狗(ヤヤコ)が筆頭の地位となっている。
先にも紹介していたが、「倭人伝」の最後の文章がそれだ。
「壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二牧・異文雑錦二十匹を貢す。」
「壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、・・・」と、公式の爵位を付けて表現している。
(続く)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます