紗羅のアトリエ

Healing Art 美しいもの 楽しいこと 2007年春より食道がん患者 

慟哭

2006-05-27 | My Favorite Things
「慟哭」という言葉が
頭の中で渦を巻いて
困っています

5月23日、町田市立国際版画美術館に、ケーテ・コルヴィッツを観に行きました。

「二つの世界大戦にわたる激動の時代を生き、ナチスへの抵抗を貫いたドイツの美術家ケーテ・コルヴィッツ(1867-1945)。その作品、計165点により、民衆の貧困や飢えを見据え、反戦のメッセージを発し続けた生涯の全貌を紹介します。」(リーフレットより)

そこにあったのは「慟哭」でした。子を亡くした母の絶叫。張り裂けた感情。いや、感情などという生易しいものではありません。身も心も張り裂けている状態。こんなことが表現できるということに驚き、言葉を失い、帰り道々、浮かんだ言葉が・・・「慟哭」。


感動すると涙が出ちゃいます。本を読んで泣くし、映画を観ても泣く。嬉しさがあふれても涙になるし、笑いすぎても涙がにじむ。涙腺がゆるい。


子供の頃はよく泣いていました。悲しくて泣く。悔しくて泣く。寂しくて、つらくて、恥ずかしくて泣きました。隠れて、布団の中で泣いていました。涙壺にためてみようかと時々思ったのですが、そんなことを考える頃には、いつも涙は乾いています。
二十歳を過ぎて、あまり泣かなくなりました。そして思った。本当に泣いたことはあるのだろうか。「泣く」ではなく「哭く」。全身全霊で泣いたことはあるのだろうか・・・と。

ちいさい頃にみた夢。黒いドレスを着た母が、黒い馬車に乗ってどこかへ行ってしまう夢。自分の泣き声で目が覚めて、しばらく泣き止むことが出来なかった。その時の胸の苦しさは「哭く」に近いものでした。忘れられない記憶。


手術してから1年ともたず、母は癌で死にました。54歳でした。私が26の時です。医者の不養生と言いますが、助産婦だった彼女は乳癌をこじらせてしまったのです。いつも人の心配ばかりしていたあのひと。

見舞いに行った仙台の病院から、東京に戻ろうとしたクリスマスイブの前日、大雪が降って新幹線が動かなくなってしまいました。帰るのをあきらめた私の前で、ベッドに横たわる母は、布団を持ち上げて何かを探しています。「何探してるの?」と聞くと「ないねぇ、ないねぇ」「よっちゃんの乗る電車が、・・・ないねぇ・・・」癌は脳にも転移していました。(私の本名はよしこです)

それから亡くなるまでの2週間ばかり、簡易ベッドを並べて母のそばで過ごしました。
ある夜突然、彼女は、布団と寝巻きを整えてくれと言います。もう死ぬから葬式は簡単にすること、費用はそこの引き出しにあるお金で間に合わせるように・・・。事務的なことを言うだけ言って、整えられた寝具の中で姿勢を正し、胸の前で手を組んで目を閉じる。

「美しい」と言いました。
涙がひとすじ流れました。
ウツクシイ。母がこんな言葉を使ったのを初めて聞きました。それからしばし、冥土への旅の実況中継。きらびやかな建物と美しい花。川の向こうから懐かしい人たちが呼んでいると言うのです。
焦りました。負けてはならじと声を荒げ、呼んで、たたいて、揺さぶって、つかの間の奪還成功!!!。
・・・数日後には帰らぬ人となってしまいました。

覚悟はできていたはず。出来るだけのことはやったはず。病院の希望で、彼女なら望むはずだと判断し、解剖を承諾しました。

数時間後、霊安室に戻った母のからだに触れたとき、「慟哭」の意味を知りました。
冷たく硬い物体になってしまったそのからだ。母の不在。ワタシのまるごとがいきなり裂けて、獣のような叫び声が止めようもなく溢れ出した。

あれ以来、そんな泣き方をしたことはありません。

「慟哭」の、ケーテ・コルヴィッツ。教えてくれたアザミ子さんのブログでは、泣きながら観ている人もいらしたとのこと。是非観にいらっしゃることをおすすめします。人間が泣かずに暮らせるようにとの、深くて重い祈りだと思います。6月11日まで。

ミャンマー、チャンタビーチの夕暮れのパコダ(仏塔)です。
3年半も前に撮った写真ですが、数多くの慟哭を生きたであろうケーテと、母の魂に捧げたいと思います。