足助千年ゼミ

エコでおしゃれな21世紀の里山の暮らしを考えます

2010年4月2日 「死ぬ」

2010-04-15 15:55:54 | 日記

日時:2010年4月2日

テーマ:「死ぬ」

参加者:山内、鈴木邦夫、山田、牛田、ミワ、すざき

話題提起:「行旅死亡人」が増えている

「行旅」と聞くと、旅行先で死んだ人のように感じるけれど、そうではない。

 wikiより…
行旅死亡人(こうりょしぼうにん)とは飢え、寒さ、病気、もしくは自殺や他殺と推定される原因で、本人の氏名または本籍地・住所などが判明せず、かつ遺体の引き取り手が存在しない死者を指すもので、行き倒れている人の身分を表す法律上の呼称でもある。

自宅で死んでいるのに、その人が誰なのか、誰も知らない。
都会には、そんな、”人とのつながりを持たない人”が増えてきている。

自分も、家族と離れて一人暮らしを都会でしている。
いつ死んでも後悔しないよう、いつも死ぬ準備をしていれば安心して生きていられるのでは。(意訳)

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■トピック1 「死」との距離
・林業はいつも死と隣り合わせ。いつも死を意識しているから、生きることをしっかりできているように感じる。
・初めて参加した身内の葬式は衝撃的だったが、回数が増えるたびにショックが減っている。死に慣れてきているのか。
・小原でも独居老人が死んで2-3日見つからなかったことがある。

■トピック2 田舎の葬式/文化・哲学のある葬式
・田舎の葬式の方が、家で葬式をする等、死を身近に感じる
・種子島の葬式(土葬・竹を使った装飾…)、南方の葬式(死を陽気に迎える・どくろのお菓子)、バリ島の葬式(死ぬ≒お祭り)
・昔から、ギシキにはお金をかけた(結婚式・葬式)
 ⇔業者に払うのではなく、隣近所の人に払った。
・今は生前にお金をかける。
・今は、田舎でも息子が出て行った場合、近所の人に葬儀を任せるのを(後のお礼が大変だったり自分も葬儀を手伝わなくてはいけないので)嫌がり、葬儀屋に頼むことが多くなってきた。

■トピック3 家族と、自分
・親が心配性だから、一人暮らしでも頻繁に連絡が来る。
・都会暮らしは世代の繋がりを絶つ。代が変わるごとに移住。
・4男だったが、家に残ることになり「いい子」に昇格した。
・親戚は全員県内、ちょくちょく集まると、本屋の母親がすごく大変。

■新しい生死観/あいまいな生死観
・ブナの300年の大木が倒れていて、ゆっくり朽ちながら他の命をはぐくんでいるのを見て、生と死は繋がっていると感じた。
・土葬がいいが、土葬だと国土が墓だらけに。葬儀屋を設けさせないためには…肺にして土に蒔こう!(樹木葬、海にまく…)
・シャバゲ(妖怪の孫、江戸で妖怪と交流できる)にでてくる、代々モノを大切にしているとそこに神が宿る

■日本の古い宗教観
・内山節 山里の宗教観
お寺は後から入ってきたもの。基本は山岳信仰。死者は近くの山に変える。山には共同体の先祖がいる。33年で魂が浄化される。
・献体は、自分は良いけど、家族がするのはいや。。家族が望むことを優先したい・・・価値観は色々。

 

■■私の感想
 経済の流れで田畑が耕されなくなり、裏山が荒れてしまった。それでも、豊田の中山間地域には、「共同体」という、日本人の本来あった世界観・価値観が形として未だに残っていることを強く感じています。そう言ったつながりは、お祭りと言う形だったり、お宮さんという形だったり、神社という形だったり、地域の寄り合いや、消防団、商工会など、本当に多様な形で、地域の繋がりを再生産し続けています。

 人間が一人で存在せず、共同体の価値観の中で深く繋がっている。500年、1000年の長く深い物語が、一つ一つの集落に存在して、語り続けられています。それは、言葉に出来ることじゃなく、感じるものです。そこにあるものです。

 それは、たぶん行った数を忘れるくらい何度も何度もそこを訪れたり、暮らしてみなければ気づけないことだと思います。そして、途中から入ってきた「ヨソモノ」には、老いて死ぬだけの時間をかけてもその全貌を知ることが出来ないことだと思うのですが、そういった、都会や新興住宅地ではあり得ない「人間と人間・人間と自然の深いつながり・物語」も、田舎にしかない、かけがえのない魅力だと感じています。


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