(日本政府は1850年代から1910年までに九州に建設された炭鉱、港湾、製鉄所など、23カ所の世界遺産登録の準備を進めている。)
おいおい「戦中戦前産業革命遺産」だろうが糞政治家に糞外務省役人!
《日本側は登録施設の一部で1940年代、「意思に反して連れて来られ、厳しい環境の下で働かされた多くの朝鮮半島出身者等がいた」》
文言を入れた「明治日本の産業革命遺産」こんな物に何の価値がある朝鮮人の思う壺で終わった、糞政治家に糞外務省役人。 売国奴破国奴 糞政治家に糞外務省役人は「意思に反して連れて来られ、厳しい環境の下で働かされた多くの朝鮮半島出身者等がいた」と言う事を世界中に知らしめ、20万人を意思に反して連行した慰安婦同様に永遠に日本は謝り続けますと。
狡猾な朝鮮人にはとてもかなわない、学校の試験勉強だけが取り得の馬鹿アホ無能な日本の政治家役人ども、拉致誘拐一つとっても幼稚な日本、広義の喧嘩のやり方を全く知らず。
また、朝鮮創価公明が言っている、(日本の場合、在日の人たちはいろいろ歴史的ないきさつがあって日本に留まっている人が多い。 今の日本をよく知ったうえで選んで日本に来た人ばかりではないのです。) 自民党=朝鮮創価公明と言っていいでしょう。
2015.7.6 【世界遺産登録】
一部に「意思に反して」連れてこられた朝鮮労働者、日本認める 韓国は23施設に反対せず
http://www.sankei.com/world/news/150706/wor1507060003-n1.html
幼稚園児民主党と変わらない自民党、こんな事をしていると選挙で必ず惨敗! あとは朝鮮創価公明と共産が議席を取り一気に日本自治区、日本統治へと。
【世界遺産登録決定】岸田外相「朝鮮半島出身者の徴用の問題を含め、日韓間の財産・請求権の問題は解決済みだ」
2015年07月06日
http://hosyusokuhou.jp/archives/44668259.html
韓国の料理店、生ごみを調理して客に提供していた事が判明
2015年07月05日
http://hosyusokuhou.jp/archives/44667132.html
「第二次大戦当時の言葉としてはなかった朝鮮人の『強制連行』
徴用志願者による証言
戦時中に自らが三菱手稲鉱業所で徴用を志願した崔基鎬は、当時1000名の鉱夫募集に対して7000人の応募者が殺到したために1000人が選考試験を受けたこと、「採用者(徴用者)たちは歓喜に溢れ、船内では全員歌舞に耽って、元気旺盛そのものであり、手稲鉱業所への就業後も、休祭日は自由に札幌市内に繰り出し、ショッピングはもとより銭函湾での船遊びまで楽しんだ」と証言している。
また、崔基鎬は北朝鮮と朝鮮総連は「徴用」を「強制連行」と言い換えるが、実態はまったく異なると批判し、さらに北朝鮮が「日帝に強制連行されたのは750万人」と主張したのを「でたらめ」であるとして、その理由を、当時徴用に応募した者は南朝鮮出身者であったし、北朝鮮地域出身者は1%にも満たない。
日本への労務動員数
1959年(昭和34年)7月11日の外務省発表では、1939年末から1945年終戦までに増加した在日朝鮮人約100万人のうち、約70万人は自発的渡航と出生による自然増加、残り30万人の大部分は仕事の募集に応じて自由契約にもとづいたものとした。 また、終戦後、在日朝鮮人の約75%が朝鮮に引揚げ(1946年までに約148万人が韓国に、1947年の北朝鮮引揚計画では350人が帰還)、残る約42万人は自由意思で日本に残留したのであり、1959年時点で在日朝鮮人約61万1,085人のうち戦時中に徴用労務者としてきたものは245人とした。
元来、国民徴用令は朝鮮人(当時は日本国民)のみに限らず、日本国民全般を対象としたもので、日本内地では1939年7月に施行されたが、「朝鮮への適用は、できる限り差し控え、ようやく1944年9月に至つて、はじめて、朝鮮から内地へ送り出される労務者について実施」された。
「現在の在日は強制連行の子孫」説への批判
田中明は『現代コリア』1991年1月号で「戦時中、徴用などという強制によって多くの朝鮮人が日本に連れてこられたことは事実である」としながら、戦後、自由を回復したあと日本に居住した在日韓国・朝鮮人が、自分たちで選んだ行為をなかったことにして、自分たちが日本に居る理由を「強制連行の結果」とすることは御都合主義であると批判している。 田中は「自分たちは戦前、日本人にやられたまま、戦後の45年をも送ってきた哀れな存在」だとみなすことは、「みずからを貶めている」のであり、自己責任において決断と選択を繰り返す事が主体的に生きることであるが、「強制連行」論者は自分たちを「責任負担能力のない被害者」にしたてあげることで、それが「なんでもひとのせいにする韓国人」という不名誉な通念を補強していると批判した。
小倉紀蔵は、植民地時代に日本に来た朝鮮人のすべてを強制連行の結果とみなすことは「甚だしい歴史の改竄」であり「政治的な言説以外の何ものでもない」と批判し、教育の機会や経済的成功を夢見て日本へ渡航したと論じている。
強制連行説への批判
西岡力は斡旋・徴用で渡航した朝鮮人労働者は、現場を逃走し条件のよい飯場に移動するケースもあり、それは「自由労働者」と当時呼ばれた。
また、日本政府は移送計画中も密航者を取締り、送還することもしていたが、西岡はこの朝鮮への送還こそ「本当の強制連行だ」と述べた。
鄭大均は、日本人の15歳から45歳までの男子と16歳から25歳までの女子も徴用されたが、それは強制的なものであったし、応じない場合には「非国民」として制裁を受けたのであって、「強制連行などという言葉で朝鮮人の被害者性を特権化し、また日本の加害者性を強調する態度はミスリーディングといわなければならない」と述べた。
鄭大均は2006年にも労務動員や徴用で渡日した朝鮮人を「強制連行」とするのは「後世の発明」であって、むしろ当時の渡航朝鮮人の多くは渡航を選択したとして、渡航をすべて強制連行のせいにするような議論はむしろ渡航した朝鮮人の品位を傷つける行為であると批判した。 また「強制連行」という言葉が1980年代の歴史教科書問題などを背景に大衆化させたのは日本人の左派であり、彼らは「贖罪意識を自らの使命とするような人々であった」と論じている。
鄭 大均(てい たいきん(정대균、チョン・テギュン)、1948年(昭和23年) - )は、日本の学者。首都大学東京都市教養学部特任教授。韓国系日本人。
崔基鎬(チェ・キホ、1923年 - )は、韓国の加耶大学校客員教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%94%E5%9F%BA%E9%8E%AC
松代大本営建設の徴用
1944年11月11日から着工された松代大本営建設における徴用の場合、当初は朝鮮人約7,000人と日本人約3,000人が、1945年4月頃は日本人・朝鮮人1万人が交代で作業した。延べ人数では西松組・鹿島組県土木部工事関係12万人、付近の住民などの勤労奉仕隊7万9600人、西松組鹿島組関係15万7000人、朝鮮人労務者25万4000人、合計延べ61万0600人だった。
松代大本営の地下壕の掘削は、そのほとんどが朝鮮人の手で進められたという。「松代」で働かされていた朝鮮人の中には、給金がもらえるものがいたし、「怪我や病気なんかするとすぐに病院にいけた」と言う者もいた。しかし一方でその生活は極めて劣悪であり、3k労働である上に、食事はコーリャンに塩をかけたもので、量も少なく栄養失調や目が見えなくなった人もいたという。また、朝鮮語を話しただけでもリンチを受け、あまりに酷い扱いに耐え切れず逃げ出すと見せしめに拷問を受けたという証言もある。
半島人延べ人数25万人に対し、リンチなどしたら暴動が起きるでしょう。
松代大本営跡
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BB%A3%E5%A4%A7%E6%9C%AC%E5%96%B6%E8%B7%A1
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