現代の物理学の成果から、ビッグバンによって宇宙の膨張が始まったという現代の宇宙像を多くの人が肯定するようになっているという。とすれば、聖書などに記述されている、天地創造の神話もあながち単なる神話に済ませられない可能性もある。
人類の宇宙像は、科学の進歩によって変化し、進展するものである。私たちは、科学という「眼鏡」を通じて世界をのぞき見ているのであって、科学という眼鏡を新しく取り替えるごとに、世界が異なって見えるというわけである。しかし、とくに天文学者などは、望遠鏡をもって現象としての世界を眺めるから、かえって本質が見えず騙されやすくある。
私たちはビッグバンも一つの仮説であるとみなしている。つまり、この現代物理学と天文学とが見出した世界像も、人間の立場から世界という現象を合理的に説明しようする一つの試み、仮説に過ぎないと思っている。もちろん、仮説だからといってでたらめであるというのではない。ただ、いずれ、さらにいっそうよりよく世界の成り立ちを説明する新しい仮説にとって代わられる有限の説に過ぎないに違いない。
しかし、世界を把握する仕方としては、人間は眼を通しての観察や数字による推測ではなく、もっと本質的にその絶対的な必然性を把握する能力をもっている。その武器とは思考である。人間は思考によって、目には見えない月の裏側や、天体望遠鏡では見えない宇宙の本質を捉えたりする。
それをもっとも徹底的に実行しようとしたのが、ヘーゲルだろう。今日においても彼を乗り越えることができた者はいないと思う。ヘーゲルの世界観はもちろん彼の「論理学」に示されている。おそらく日本でも誰も気づいた人はいないと思うけれど、彼の論理学はビッグバンという現象の論理的な把握以外のものではない。ヘーゲルはビッグバンの必然性を論理学で論証して見せているともいえる。
無から始まって絶対精神にいたる壮大な円環を展開して見せている彼のその論理学で明らかにしているように、彼は自分の世界像を、「世界はただ一つの種子から永遠に咲き出でる花にほかならない」と詩人のように美しく語っている。そして、この種子が、彼の哲学の基本概念である「概念」にほかならなかった。そうしてヘーゲルは世界を「概念的に把握」してみせたのである。
ヘーゲルが今日生きてビッグバンの理論を耳にするなら、かってアインシュタインが彼の相対性理論を天文学の観察によって実証したように、ヘーゲルは自分の世界観がビッグバンの理論によって確認されたと言うかもしれない。
田舎での充実したあなたの「哲学生活」がよく伝わってきます。日本人は「哲学」というと、どこかの大学で難解な語句と概念をひねくりまわしている教授などを思い浮かべるかも知れませんが、それは偏見だと思います。
枝葉末節については重箱の隅を突っつくようですが、多くの教授は、自分の思想が生き方につながらないような、「通俗哲学」のテキストを切り売りする根本でサラリーマンに過ぎないと思います。
あなたのおっしゃるように、自分の言葉で考えることが、哲学の原点であると思います。
願わくば、わが軽小短薄之日本が、美しき哲学の国とならんことを、です。
眼や耳や手などの感覚だけで、自然や宇宙に触れても、その本質は捉えがたいと思います。物理学者や天文学者も同じだと思います。
自然や宇宙の絶対的な本質は思考によって捉えられるのではないでしょうか。「おそらく」ヘーゲルの論理学がそれを実行しているのだろうと思います。
多くの物理学者や天文学者は、理論についてもその意義と限界において捉えることをしないために、自己の理論を相対化できず、有限に過ぎないものを、絶対視するのではないでしょうか。
そら