作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

自由民主党―――この根腐れた政党

2007年09月03日 | 政治・経済

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自由民主党―――この根腐れした政党

次から次へと、腐った事案が明るみにでてくる。安倍首相が鳴り物入りで打ち出した新改造内閣も、発足するかしないかのうちに、遠藤某新農相が関係する共済組合の不正受給問題で辞任することになった。

国民が政治に今要求しているものは何か。それは、世論調査にも明確に現われている。国民の要求に忠実であればあるほど、その内閣への高い支持率と選挙結果で、国民はその支持を明確にする。その端的な例が小泉前首相時代の内閣だった。小泉内閣はその出発当初は80パーセントの支持を集め、その末期にでも40パーセント程度の支持は集めていた。

小泉内閣を引き継いだ安倍内閣は、当初こそ記録的な高支持率を集めて発足したが、閣僚の多くの不祥事によって先の参議院選挙でも大敗を喫した。それにもかかわらず、安倍氏は慣行を破って首相の座に居座り続けた。安倍首相は自分の「使命」をいまだ果たしきれておらず未練もつよいのだろう。その気持ちは分からないではない。しかし、安倍内閣が支持されなかったのはなぜか。国民の多くは安倍晋三氏の姿勢に改革へのあいまいな意思を嗅ぎ取っていたのである。

安倍晋三氏が目指す「美しい国」とは何か。それは、はなはだ抽象的で具体的ではないのだが、それが目指す象徴的な課題は、自由民主党の設立当初からの課題でもあった「自主憲法の制定」である。しかし、現実の問題として、「自主憲法の制定」はさしあたっての全国民の課題とはなっていない。現在の国民の要求するところとは、まず退廃した「官僚制度」に大鉈を入れてその改革を促進することである。その一方で、小泉改革によって派生した、いわゆる「格差」を是正し、「セーフティネット」の網を、よりきめ細かなものにしてゆくことである。現在、国民が切実な要求としているこうした要求に、安倍新内閣が十分に応えられるものになっているとは思われないのである。安部晋三氏の政治理念と国民の欲求は、一致していない。

日本の政治機構の改革の核心は「国家公務員制度」の改革にある。その核心をはずした改革は「改革」の名に値しない。現行の「公務員制度」が、あらゆる国家的問題の元凶になっているからである。国民はこの本質を自覚し、この課題の遂行を引き続き内閣に要求して行かなければならない。

教育審議会制度でお茶を濁すばかりで、国民に対してまともな民主主義教育さえ指導できない文部科学省。その三流の文部官僚の手による全国的に一律の教育統制は、国民の自由で創造的な能力の発達を阻害している。また厚生労働省や農水省に群がる多くの寄生的な政治家、公務員の実態は、もうすでにうんざりするほどに国民の前に明らかになっているとおりである。防衛省も早く省内改革を実現して、現在の分断した陸海空の指揮系統の統一をはかり、さらに国防省へと改組してゆく必要もある。

それにもかかわらず、こうした「国家の癌」にメスを入れるべき有能な主体が、治療を託すべき「医者」が存在しない。今やそうした真の政治家の不在こそが日本国の問題となっている。もちろん、こうした政治家や公務員の体質は、本来的には国民自身の持つ体質に由来するものであるから、国民性や国民自身の倫理性が向上することなくしては根本的には解決されることはない。しかし、一連のこうした腐敗政治家や退廃公務員を矯正することは、国民性の改造にもつながって行くことになる。

今度の安倍改造内閣の遠藤農相に象徴されるように、私たち国民は、泥棒に刑務所の管理を任せようとしているようなものである。情けないことではあるが、現在の政治家や公務員の多くは、本質的に、詐欺師や税金泥棒であると考えた方が、本質的な認識に近いのではあるまいか。

こうした政治家性悪説にたって、劣悪なわが国の政治的現実を少しでも改革してゆく道は、やはり、選挙によって政治家を定期的に落選させて入れ替えてゆくことしかない。そして、政治家の交代と同時に、国家公務員のトップも総入れ替えしてゆくことである。この点でも、アメリカの二大政党政治に学びうる点があると思う。


安倍内閣は中途半端な内閣である。いわゆる「小泉改革」も中途半端なままで終わった。まだ、日本国の根本的な改革は遂行されてはいない。それほどに、「改革」が困難であるということであるが、現在のような段階では、「自主憲法制定」といった国家の創造的な建設にはまだ着手はできない。六十年を経過してほとんど「桎梏」と化した現行制度の徹底的な「破壊」をまずは遂行することである。そのことによる痛みも、その破壊の先に、豊かな創造の世界が展望できさえすれば、国民はその痛みにも耐えるだろう。破壊の向こうに、新しい国家像を現実的な理念として明確に具体的に国民に提示にできれば、その破壊を国民は支持するはずである。政治家はそれが仕事である。ただ、それを実行できる有能な政治家を欠いている。


安倍首相のような中途半端が一番成果を上げ得ないのである。昔から、「二兎を追うものは一兎も得ず」とよく言われる。先に就任した与謝野馨官房長官のように、安倍内閣の要である官房長官の職に、公務員に対して妥協的な人物が就いたのでは、この内閣が国民の期待する国家の核心の改造はできないのは明らかだ。だとすれば、安倍新内閣の存在意義はいったい何なのか。

高村防衛相や升添厚生労働相のような目玉人事が一部にあるとしても、改革の司令塔ともなるべき、官房長官と幹事長の布陣を見れば、もはや、この安倍内閣は国家の根本的改造を託しうる内閣ではないことが明らかである。これではもはや安部晋三氏を見限らざるをえず、私たち国民は次の選挙で、改革を継続してゆく政治家と政党の創設に向けるように、選挙権を行使してゆかなければならない。泣き言を言っても仕方がないからである。


問題は、現行の政治家や公務員の人材という限られた制約の中で、どのようにして改革を促進してゆくべきかである。参議院でようやく多数を占め、自民党に代わりうる可能性を持ち始めた民主党に、一度は政権を持たせることだろう。国民は先の参議院選挙でその方向を明確にした。もちろん、この政党も自民党以上に問題の多いことは明らかである。しかし、もともと人間のすることだ。はじめから理想的な政治家も政党も存在しない。国民自身が自分たちのために、そうした政治家と政党を粘り強く育ててゆくしかないのである。

そして、来るべき衆議院総選挙で、自民党を少なくとも五年は野に置くことである。その過程で自民党は分裂し崩壊してゆくはずである。そのあとに現在の民主党も巻き込んで、政界を「自由党」と「民主党」に再編成してゆく必要がある。政治家も日本の民主主義もそこでさらに成熟してゆくだろう。

一九九四年に自民党が下野したときには、時の社会党の村山富市氏は「自社さ連立内閣」を構想して、社会党の血を吸い取らせてただその延命に手を貸しただけだった。そして自民党を一年もしないうちに権力に復帰させて、日本の政治改革を、20年遅らせてしまった。そのような愚を繰り返してはならないだろう。こんどこそ自民党を崩壊させることが、日本の真の政治改革に連なるからである。やはり小泉前首相には自民党を「ぶっ潰す」ことはできなかった。できるのはただ国民だけである。


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