脚と角

関西を中心に国内外のサッカーシーンを観測する蹴球的徒然草。

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平岡直起、MIOびわこ草津監督就任!

2008年02月04日 | 脚で語るJFL


 往年のG大阪の名選手、平岡直起が今季よりJFLで戦うMIOびわこ草津の新監督に就任することが4日、決まった。

 昨年までFC岐阜でプレーした平岡は、昨季限りでの引退を表明。その後の去就が個人的に気にはなっていたが、まさかいきなり監督業とは正直驚いた。
 今季は木山隆之がJ2水戸の監督に就任、そして2005年から昨季まで北信越リーグの松本山雅FCの監督を務めた辛島啓珠がFC岐阜のコーチに就任、広島で育成部のGKコーチを務めていた阿江孝一が布啓一郎監督率いる新生U-17日本代表のGKコーチに抜擢されるなど、続々と往年のG大阪を支えた名選手たちが指導者という立場でカムバックしている。時代の流れを感じさせることでもあり、かつて自分が声援を送った選手の行方がその後分からなくなるよりずっと素晴らしいことではないだろうか。

 MIOびわこ草津で監督業をスタートさせる平岡は、Jリーグ開幕当時はFWの選手だった。しかし、エース永島や若手の松波らの台頭の前に初年度のトップ出場はゼロ。その後、若返りを図った94年シーズン以降にその出番を増やし始めた。その彼を左のウイングバックとして覚醒させたのはジークフリート・ヘルト監督。G大阪で95年に指揮を図ったこのドイツ人指揮官によって、次第に平岡はG大阪に欠かせない選手となっていった。「G大阪の元祖レフティー」と形容するのが相応しいだろう。現在の主力選手である橋本や二川、播戸の入団時にはすっかり中心選手となり、地味ながらも堅実な選手として愛されていた。
 その後、00年シーズン途中に名古屋へ移籍。03年からは2年間清水でも活躍した。チームがまだ東海2部リーグの頃にFC岐阜へとその主戦場を移したが、今だ現役でプレーしていることが嬉しくなる選手であった。昨季、太陽が丘で行われた佐川印刷VSFC岐阜のゲームにも出場しており、今思うと、あれが幼少期よりこれまで数多く見てきた平岡直起の最後の勇姿となったわけだ。

 MIOびわこ草津が戸塚哲也監督の後任に彼を選んだのもチームを代表としてまとめる田村忠義氏の意向が大きく反映されているだろう。田村氏がG大阪に在籍した97年は2ndステージでクラブ史上初めて優勝争いを行ったシーズン。エムボマを中心としながらも、その左アウトサイドでは、ほぼ全てのゲームに出場していた平岡の姿があった。派手さはないが、寡黙ながらもひたすら自らの仕事を全うする平岡のあの時の姿が田村氏の心に強烈に焼きついていたのかもしれない。02年から2年間在籍した地元草津東高出身の内林広高を含め、昨季は木場昌雄も在籍したMIOびわこ草津だけに、つくづく元G大阪戦士と縁のあるクラブである。

 そういえば、かつて本並健治が守護神だった頃、バックアップGKだった川島透も現在は、なでしこジャパンやスーパー少女プロジェクトなどにてGKコーチとして忙しい日々を送っている。協会ナショナルトレセンGKコーチとして同じくU-20代表GKコーチなどを務める慶越雄二氏や共に日々奮闘中だ。
 そのGKといえば、かつてのG大阪の守護神として君臨した岡中勇人氏も今年から大分の日本文理大の監督として新たなキャリアをスタートさせる。前述の平岡や木山、辛島と共に暗黒時代の黎明期のG大阪を支えたメンバー。
 彼らが新たに指導者の道を前途明るく進んでいるのは、感慨深いと共にとても誇らしい。これら指導者の道を歩むG大阪OBたちに次世代の少年たちが育てられ、またJリーグの歴史を彩ることを考えれば、これもまたJリーグが15年という歳月で生み出した好サイクルと言えるだろう。