日本共産党の赤い貴族問題

■幹部セレブ生活と保証された優雅な富裕老後生活
■1989年綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件と日本共産党の赤い糸

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スパイ野坂参三の仲間を密告し、帰国、知らん顔で平然と善人ぶり共産党最高幹部101歳の生きるが勝ち

2009年09月30日 11時56分35秒 | 日記


↑写真=不破哲三、宮本顕治、野坂参三=日本共産党の三腐渦↑



■日本共産党の創造者、野坂参三の実像の記録の本■

『闇の男―野坂参三の百年 』
【著】小林 峻一 、 加藤 昭
 出版社 : 文藝春秋


日本共産党の「帝王」とも呼ばれた故・野坂参三を
共産党除名(追放)に追い込んだ一因と言われる
『週刊文春』のレポートを再編した本です。


戦前の日本の共産党弾圧下でそれでも活動していた仲間達を、
今度は自己保身のためにスターリン恐怖政治の下での強制労働、或いは処刑に追い込んだ片棒を担いだ野坂参三という人物の人間の醜さを、

ソ連時代の公文書を元に見事に暴いた渾身の本です。

野坂の「密告」のために人生を破たんさせられた人物が何人も紹介されていますが、やはり印象に残るのは

山本懸蔵(野坂の同志でありながら、野坂の密告により処刑)の
妻・関マツ(「第二章 望郷の女・関マツ」で紹介)でしょう。
夫を追ってソ連に渡ったものの夫が処刑されたりしたため、
貧困の中日本への帰郷だけを願い続け、ありとあらゆる妥協をしたにもかかわらず、

★(おそらく)野坂のために日本への帰国手段を封じられ、
最後は”発狂死”したという過程は悲しく、★

そして主義主張は異なれど権力に執着する人間というのがいかに恐ろしい物であるかをひしひしと感じさせます。


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■野坂 参三■

1892(明治25)年3月30日生(0歳)
1993(平成5)年11月14日没(101歳)

山口県出身
慶應義塾大學卒
日本共産党に入党
妻、野坂竜
1931(昭和6)年4月 妻とともにソ連に亡命
コミンテルン執行委員会幹部会員となる
ディミトロフ宛の手紙で山本懸蔵の疑惑を告発
①(1937(昭和12)年11月2日: 山本がモスクワでNKVDに逮捕される)
②(1939(昭和14)年3月10日: 山本が銃殺される)
1934(昭和9)年 渡米
第2次世界大戦中は中国の延安にあって中国共産党に協力
戦後帰国
衆議院議員
参議院議員
1958(昭和33)年 日本共産党中央委員会議長就任
1982(昭和57)年 日本共産党名誉議長
1992(平成4)年 山本懸蔵の告発が明るみにでる
1992(平成4)年 日本共産党より除名処分
1993(平成5)年11月14日1510 老衰のため自宅で死去

著作 自伝「風雪の歩み」

NKVD=ソ連の秘密警察内務人民委員部(NKVD)


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■山本懸蔵(やまもと けんぞう)■

1895年(明治38年)2月20日生 ~ 1939年(昭和14年)3月10日)処刑銃殺

は、
労働運動活動家、日本共産党の活動家。
茨城県鹿島郡矢田部村(現在の神栖市)生まれ。
しばしば「山懸」(やまけん)の略称で呼ばれた。


1922年(大正11)に日本共産党(第一次共産党)入党。
1923年(大正12)6月5日の第一次共産党検挙事件に際してソ連へ密航。
1924年(大正13)帰国。
1928年(昭和3)2月20日の第1回普通選挙では、労働農民党候補として北海道1区から立候補した[1]が落選。
同年3月15日の 三・一五事件(共産党関係者一斉弾圧)では自宅療養、
ほどなく警察の監視下を脱出し、
同年6月にソ連へ密航。

1936年(昭和11)2月に野坂参三と連名で「日本の共産主義者へのてがみ」を発表。スターリンの大粛清が吹き荒れる
1937年(昭和12)11月2日、ソ連の秘密警察内務人民委員部(NKVD)により逮捕。1939年(昭和14)3月10日処刑された。



ソ連崩壊の1992年、
ソ連共産党の保管文書からソ連共産党・コミンテルン関係の機密文書の公開に伴い、山本の逮捕が、野坂参三による密告に基づいて行なわれた事を記した文章が発見された。



発見された資料をもとに、
『週刊文春』誌上に小林峻一・加藤昭らによる連載
「野坂参三疑惑レポート「同士を売った密告の手紙」」
が掲載される(翌年単行本化)。
1992年(平成4)12月、日本共産党は野坂を除名処分とした。


なお
加藤哲郎の調査によれば、
山本自身も、同時期にソ連に亡命していた数名の日本人、
勝野金政、
根本辰(ねもと・とき)、
国崎定洞(くにざき・ていどう)、
伊藤政之助ら
をスパイと疑い、ソ連秘密警察やコミンテルン国際統制委員会へ
密告ないし告発するなどしていたという


また和田春樹の調査により、
野坂による山本密告とほぼ同時期に、
山本自身も野坂を密告する準備を進めていた事が判明している。


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ソ連解体後、表に出はじめた秘密文書を、
日本の週刊誌がモスクワで買い込んできて、
野坂がコミンテルンで活動していた当時、保身のため、同志を日本の警察のスパイだとする偽りの告発をおこない、死にいたらしめたという資料を発表したこと。


私たちは、モスクワに人を派遣して関係資料を入手するなど独自の調査をするとともに、

①野坂当人にも確かめ、野坂自身、偽りの告発という事実を認めたので、中央委員会総会(1992年12月)で、除名を決定したこと。

②その後、さらに、延安から日本への帰国の途中、
野坂は、秘密にモスクワに呼ばれ、赤軍情報総局に直結する工作員という任務をもって、日本に帰国した事実が明らかになったこと。
この事実も、野坂が認めたこと。



<ディミトロフ>
私は、この話を、他国の共産党にたいするソ連の密室的な支配の陰謀と性格づけて語った。そのなかで、ヒトラー政権下の法廷闘争でナチの告発者たちを論破して世界に名をはせ、コミンテルンの書記長となったディミトロフが、コミンテルンの解散(1943年)とともに、一部長(国際情報部長)としてソ連共産党の組織に組みこまれ、ソ連のために秘密工作者を選定する役目を引き受けていたこと、



③野坂がソ連の赤軍情報部門につながる工作者となったのも、このディミトロフが人選してスターリンに推薦した結果であった。


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■日本共産党の獅子身中の虫:野坂参三■

野坂は実は,旧日本帝国と日本の皇室を守るために,旧治安維持法に真っ向から違反する政治結社:日本共産党に幹部としてもぐりこみ,それこそ「獅子身中の虫」となって,社会主義思想革命の実践活動を内部から瓦解させる役目を忠実に果たしてきた。野坂参三に隠された基本的な任務は,本当はこちらにあったのである。



野坂参三はなかでも,日本共産党の内部に巣くう最大の悪害虫であった。
この党が特定の活動をするたびに,あるいは
ソ連で教育した党員を日本に送りこむたびに,
間違いなく繰りかえしていつも,その関係者がまとめてごっそり検挙されていた。

そうした検挙を確実にさせるために必要な情報を,
参三は日本帝国当局側に提供しつづけきた。
彼はそのように汚ない「忍者のような役目」を忠実に遂行してきた。
野坂参三の家系図に出ている人物のうち,
政府の高官・重職を歴任していた次田大三郎は,野坂の義兄である。


100歳にもなったときの野坂を除名した日本共産党のおめでたさは,ことばには形容できないほどである。だが,そのことよりも,日本帝国がわがこのような人物を育て,共産党のなかに静かに扶植しておき,この党の活動をずっと監視する装置としてあれこれ利用してもきた歴史に,われわれは注目すべきである。




■ 思想よりも家系のしがらみのなかの野坂参三■

 ■★ 日本帝国の手先だった野坂参三★■

問題の焦点は,敗戦直後に日本の天皇制を護持する機能を客観的に発揮してきた人物が,なんと,つい最近まで天皇・天皇制を完全に否定してきた日本共産党の最高幹部:野坂参三であったところに向けられる。

日本共産党の政治目標(綱領)は,2004年に開催した党大会以前までは「天皇・天皇制を絶対に認めない」という社会主義変革・革命思想にしたがい,樹立・決定されていた。ところが,この党の最高幹部を務めてきた人間が,すでに戦前から,それとはまったく逆方向の考えを秘かに抱きながら,しかも同時に,この党を絶えず破壊すべく「国家のためのスパイ活動」にも従事してきたのである。この歴史的な事実は,「〈国家悪〉の手先」を超絶的な次元で演じていた野坂が〈大した役者〉であったことを物語っている。



しかし,なぜ
野坂参三はそのような役割をあえて担ってきたのか? 
『実録 野坂参三』はその背景として家族関係を中心に,これまではまったく解明されていなかった問題領域を,いいかえれば,
野坂の謀略活動をつうじて日本の「共産主義運動」の秘密を再検討したのである。


野坂が日本の天皇制国家機関・アメリカ・ソ連・中国共産党の4重スパイであったことは間違いない,と
『実録 野坂参三』は断定する。

しかも,天皇制は,地球次元で私物化を図る国際謀略機関によって守られている。野坂はこの国際謀略機関の代理人(エージェント)の一員であったと考えるべきである。これが結論である
(以上2つの段落は,同書,16頁参照)。



それにしても,このような人物を党の幹部・党首に長く戴いてきた日本共産党は,ずいぶん長い期間,なにもしらずに「いい面の皮」状態に置かれてきた。
野坂参三を除名すればそれで済まされる,というような問題=党史の展開ではない,深刻で重大な「過去の現実」が連綿と続いてきたのである。




■『実録 野坂参三』において興味ある見解は,
大約すれば,こういうものである。

戦前体制のなかでは,「日本共産党」という反体制・非合法政党に向けてあらゆる反体制派の人びとを引き寄せ,ここに集合させておく。そして,その過程においては政治的な操作・組織的な謀略・社会的な陰謀などを使いながら,反体制の思想・立場に立つ人びとを,この共産党を寄場として一網打尽にしていく,というものである。
野坂はそのためにこそ,「旧日本帝国のために働いた」人間であったのである。


野坂はあたかも,イカ釣り漁船に乗り,集魚灯を操って,イカをおびき寄せ,このイカを釣りあげる「船長:漁撈長のような役割」を果たしてきたわけである。
帰る港で水揚げを納める網元は,もちろん旧日本帝国治安当局であった。


戦前〔あるいは戦後も〕において,日本共産党員の個人的情報は漏れなく,
野坂の手を介して”治安当局”にわたっていたことになる。



日本共産党が敗戦後,天皇・天皇制を当面存続させる意見を披露したが,これももっぱら野坂の主張に依拠していた。東京裁判に昭和天皇が出廷しないで済むように野坂は努力した。

野坂は生きているあいだ,天皇・天皇制の支持者であった。野坂が大正前期に学んだ慶応義塾理財科では,小泉信三に卒業論文〔社会主義思想に関する〕を提出していた。


小泉信三が日本の天皇家とどのくらい親しくも忠実な間柄にあったかは,平成天皇に現在の配偶者を引き合わせる〈任務〉を成就したことからも明らかである。小泉が欧米〔英米〕諸国の特定筋と一定の関係を保持していたことも推定される。信三は,皇太子時代における明仁の師父としてその養育を担当した人物である。


野坂はこの小泉のもとで,「敵をよくしるために」社会主義の勉強をし,卒業論文も書いたのである。けっして,社会主義革命を達成しようと慶応義塾で勉学に励んだのではない。


■家や家族制度にもとづく経済・社会研究の必要性■

『実録 野坂参三』「あとがき」は,「日本の社会で生活していくには,人間関係が大切であり,とくに長子相続制の支配していた明治・大正・昭和の時代には,家系は重要な要素であり,人間活動を研究対象にする社会科学において家系図の研究は,あくまでも研究対象に成り得るものである」という。そうしてこそ「野坂参三が一生涯謀略活動を行い得た背景を知る」ことができ,「また,天皇制支配国家体制およぼ国際謀略機関のエージェントの一員として謀略活動に従事してきた野坂参三の人生を見直してみること」もできる,と主張している(457頁)。




野坂は「スターリンの粛清に協力した張本人である」。
「アメリカより強制退去させられた日系アメリカ人の銃殺に関係した」。
ソ連で、、、



■★野坂は、★■
「山本懸蔵を密告し」ただけでなく,
その「妻・関マツ」を「狂死に近い悲惨な末期に追いやった」。

夫を追ってソ連に渡ったものの夫が処刑されたりしたため、
貧困の中、”日本への帰郷だけを願い続け”、、
ありとあらゆる妥協をしたにもかかわらず、

★野坂の手によって、に日本への帰国手段をことごとく封じられ、
最後は”発狂死”したという過程はすさまじい★


その野坂参三の
悪魔よりまさる超越した非人さに、仮面の奥の深さに
101歳腐肉の最期を見る。

この関マツ、を足でグチャぐちやに踏みつけても
何も感じない、帰国後日本共産党を創りその帝王で君臨して
金に飢え、名誉に飢え、101歳まで生きたかった。
それが日本共産党の泉なのです。




「アメリカで日本の公安警察のスパイであったジョー・小出を使っていた」
(『実録 野坂参三』360-361頁)。



日本・ソ連・中国・アメリカの各国間を動きまわり,八面六臂の大活躍とでも形容すべきスパイ活動をしてきた野坂参三であった。
それにしても,野坂がそのように世界を股にかけて縦横無尽に活動できた背景事情,いいかえれば,それを可能にする国際横断的な協力組織が控えていたことに気づくべきである。


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