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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

サムエル記下 12章

2025年03月01日 | サムエル記
サムエル記下12・7 ナタンはダビデに言った、「あなたがその人です」。

ダビデは自分の罪を隠し通そうとしました。しかし、神はそれを明らかにされます。人の罪を暴露するなんて、神様も意地が悪いと思われますか。

でも、これは神の愛です。私たちを闇の支配から救うために、神は私たちの罪を明らかになさいます。罪を隠し通すことができてラッキーだなんて思わないでください。

最後の審判の時になって、悔い改めるチャンスの無い状況で明らかにされるのが良いでしょうか。それとも、いま明らかにされて、悔い改めて救われるのが良いでしょうか。後者こそ幸いです。

神は、預言者ナタンをダビデに遣わして、例え話を語られました。

多くの羊や牛を所有する富んだ男が、旅人をもてなすために、自分の羊をほふるのを惜しんで、一匹の羊を大事に育てている貧しい人の羊を横取りしてもてなしたという話しです(12・1~4)

これを聞くや、ダビデは激怒して言いました。「その裕福な人は罰せられるべきである」(12・5~6)傍目八目(おかめはちもく)とはこのことです。

悲しいかな。他人の罪はよく分かるが、自分も同じ罪人であることが分からない。これが罪人の性(さが)です。他者の目にある小さな塵を発見するのはプロ並みですが、自分の目に横たわっている大きな梁(はり)を発見できない霊的盲目です。

罪のある人間が、罪のない御子イエスを十字架につけたように、罪人は、自分こそ十字架につけられるべき罪人であることが分かりません。むしろ、他者の罪がよく分かるのです。

ですから、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか分からないのです」と、主イエスは祈ってくださいました。

他者の大切な小羊をうばった裕福な人の罪は分かっても、ウリヤの大切な妻を横取りした自分の罪が分からない。そんなダビデに、神の御言はするどく突き刺さりました。

あなたがその人です。(12・7)

私たちは神の御言によらなければ、自分が「その人だ」「自分が罪人だ」とは分からないのです。

多くの場合、私たちは神の御言ではなく、人の言葉や人の基準で生きています。だから、この程度のことは誰もやっているじゃないか……、今時の社会ではこの程度は大丈夫だ……と考えます。

あなたがその人ですという、神の御言に照らされなければ、ダビデも、私たちも、自分の罪を知ることができません。

神の御言は、私たちの真の姿を映し出す鏡のようです。世の人々の言葉も、世俗の基準や常識も、私を正しく映し出すことはできません。それらは歪んだ鏡、曇った鏡です。

神の御言は、罪人である私の姿を映し出します。また、神の御言は、罪がゆるされ義とされた私の姿をも映し出します。そして、神の御言という鏡は、死ぬ他にない罪人が、神の子とされ、永遠のいのちを与えられた姿をくっきりと映し出すのです。

ダビデは、神の御言によって自分の罪を知らされました。そして、悔い改めて自らの罪を告白しました。罪は隠すことによって解決するのではなく、神の御前に明らかにして解決します。

「罪を告白する」とは、心の扉を神の前に開くようなものです。扉を開ければ、太陽の光が部屋を明るくするように、罪を告白して、心の扉を開けると、義の太陽が私を照らします。

ダビデは、罪を隠し通そうとしていた時のことを告白しました。私が自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、私の骨はふるび衰えた(詩篇32・3)。しかし、ダビデは悔い改めて、罪を告白し、私は自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。私は言った、『私のとがを主に告白しよう』と。その時あなたは私の犯した罪をゆるされたのです(詩篇32・5)

祈りましょう。私の罪を告白します。主よ、あなたの義の光で照らして、私をきよめてください。そして、光の中を歩むことができるように、導いてください。

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