浅井久仁臣 私の視点「災害」

地震などの大災害が起きるごとに危機対応の遅れを指摘されます。戦争取材と被災地救援体験をもとに「私の視点」をお届けします。

中越沖地震 現地報告その1

2007-07-20 07:04:14 | Weblog
7月18日早朝、私は電車に乗り、被災地柏崎に向かった。

 大宮駅から新幹線に乗った。昨夜の短い睡眠時間を補おうと、うとうととしたが、車内の効き過ぎた冷房に目が覚めた。

 原子力発電所が問題になっているというのに、なんともノー天気な話だ。原発を云々言うのであれば、こういうところから変えていく必要がある。降車後、駅員にその旨の苦言を呈したが、あまり心に響いている感じはなく、恐らく私の声は本社に伝えられることはなかったであろう。

 午前8時半に長岡駅に着くと、小千谷市の麻田秀潤さんが車で出迎えてくださった。麻田さんとは4年前に講演でお呼びいただいたのが縁で、お付き合いいただいている。直子のブリッジ・フォー・ピースのきっかけ作りの人でもある。

 麻田さんは極楽寺の住職で、中越地震の折には、長期間にわたって寺の本堂を近隣の方たちに避難所として開放。近所から高い評価を受けた。

 私が当時代表をしていたACTNOWの救援グループが被災地入りした時にお世話になってもいる。

 麻田さんの車で近くの店に行き、もうすでに被災地入りしている鈴木君から得た情報を元に救援物資を買い込んだ。私が買ったのは、厚手の良質なブルー・シート、大人のオムツ、ウエット・ティッシュなどである。

 高速道路が開通したと言うので私はそちらを選んだのだが、これが大失敗。普段であれば、柏崎の近くの刈羽村まで30分もかからないのに大渋滞。結局、2時間半以上かかってしまった。渋滞の原因のひとつが、インターの料金所。

 麻田さんが「こんな時くらい料金所を解放したらどうですかね。そうすれば、渋滞も随分解消されますよ」と言う。確かにそうだ。出口は大混乱。ETC専用口の前には一台も並んでいない。

 二つしかないゲイトだ。機転を利かせられないものかと見ていると、ETC専用口にETC対応でない車が迷い込んだ。当然だが制止棒が車の前をさえぎる。

 すると、ETC専用ゲイトをスイスイ通れるはずの車が次々に列を成し、大混乱が始まった。職員が飛んできて慌てふためいている。人件費を削り、便利さだけを追求した末に行き当たった困難に慌てふためく姿を見て、私たちは大笑い。ETCを装備していないで渋滞にイライラしていた他の車の中からも笑い声が聞こえる気がした。

 途中、中越地震の際に皆川貴子さん(当時39歳)ら親子3人が生き埋めになったがけ崩れ現場を通りかかった。数ヶ月前にバイパス道路が完成、ようやく道は再開したとのことだ。

 現場に立ってみると、3年半前、TVの前で固唾をのんで見守っていた記憶が鮮明に自分の中で再現された。

 あの時私は、自分のHPやブログで、無神経に取材用ヘリを低空飛行させて救助隊の邪魔をしたマスコミを強く批難していた。改めて現場を見ても、幅数十メートルの川を挟んで反対岸から撮影することで十分足りることがよく分かった。あのような状況で「良い画(え)が欲しい」とヘリを飛ばすのは、マスコミの言う「報道の自由」ではなく、「生きる権利」を侵害する行為であることを確信した。

 やっとの思いで刈羽村役場に行き、ボランティア・センターの立ち上げに村に入っている鈴木君と会った。鈴木君は、阪神大震災の救援活動依頼、様々な被災現場に立ち会っているだけに、あっという間に立ち上げた。ただ、その日に立ち上げたばかりとのことで、まだヴォランティア受付もなく、その体をなしていなかった。

 私は、市役所の職員から情報を仕入れて村内を回った。だが、報道されているのと違い、軒並み酷い被害にあっているわけではなかった。だから、被害が甚大と言うわけでもなかった。だが、担当部署の職員でさえ、被害状況をあまり把握しておらず、「最初に発表されたのは30数戸でしたよね」などと他人事のような対応であった。まあ、普段ののんびりした日常を考えれば、降って湧いた一大事に戸惑うのも仕方がないだろう。

 私たちは、小千谷市で買い込んだ救援物資(ブルーシート、濡れティッシュ、老人用おむつなど)をその場で下ろし、次に柏崎原発に向かった。

 現場に着く前に私はヴォランティアを名乗るかジャーナリストでいくか多少悩んだ。影響力を与えられるジャーナリストの立場を取ることにした。

 原発の正門で我々の行く手をはばんだガードマンは、取材を希望するなら取材申し込みをと言って来た。だから名を名乗り、広報と話したいと伝えた。

 警備員の表情が見る見るうちに変っていき、厳しくなっていった。広報から「何か」言われたことは間違いないと瞬時に判断。私は、戦場で鍛えられた「危機対応」を使うことにした。

 「取材は全てお断りしています」
 案の定、警備員は私にそう言って来た。

 「なぜ取材に応じられないのか。危機的状況にあるから取材に応じられないのではないか」と、私は警備員に広報へ伝えるように言った。

 だが、可能性がゼロであることは、警備員の表情で分かる。

 私はあきらめるふりをして、写真を撮ろうとした。これは、東電側の言っている事を試す意味もあった。本当に、海に漏れた冷却水や大気に放たれた放射性物質が“大したことはない”のであれば、写真撮影にそんなには神経過敏にならないであろう。だが、もし「何かまだ隠していることがある」とすれば、恐らく強く写真撮影を制止してくるはず、との読みだ。

 私は、麻田さんに写真を撮るようにお願いして、警備員が麻田さんに神経を使っている間に撮ろうとその瞬間を待った。こういう場合、撮ったもん勝ちだ。だが、素早く撮るに限る。しかもその写真に、制止する警備員を入れたかった。だから、タイミングは結構難しい。

 麻田さんがカメラを構えると、警備員が大声で「撮影禁止です」と制止した。私はすかさず一枚撮影した。すると、警備員が飛んできた。

 狙った通りの構図になった。添付した写真はその時のものである。

 原発を離れた私は、麻田さんに柏崎市役所に連れて行ってくれる様お願いした。次なる標的は報道陣だ。

 その時まで、私が知る限り、原発施設内の問題になった箇所の写真は、資料映像こそ発表されるものの、発災後のものは一枚も発表されていなかった。私はそれが不満であった。記者たちは自分たちの足を使って周辺取材だけでなく、“本丸”である原発にメスを入れるべきだと思っていた。不安に陥れられている市民の代理として問題の箇所を見せろと迫るのがマスコミの役割のはずだ。東電側が安全と言っているのを真に受けてその情報を垂れ流し、市民を惑わしているようでは、「第四の権力」の名が泣く。

 市役所の4階にある記者クラブ室を訪れ、私は持論を述べた。地元の「新潟日報」の記者は、自分たちは地震報道で手一杯だ。そういう話なら本社に言ってくれと言った。

 そこで私は、地震の取材に訪れるジャーナリストたちが集まる、隣のプレス・ルームに出向き、同様のアプローチをした。ところが、そこにいる10数人のジャーナリストはまるで無反応。私が話し終えるのを待っていた。その証拠に、私の話が終わると、誰一人として質問することなく、自分たちの持ち場に戻って行った。

 そこで私は、柏崎市長が同日、原発の使用停止処分命令を出したことを聞いた(続く)。

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