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「捕虜収容所はなかった」  補筆版

2006-02-13 11:47:39 | Weblog
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 中谷孝さんにお会いしてきた。中谷さんは、かつて陸軍特務機関員として日中戦争に参加された経験をお持ちの方だ。敗戦後、復員されてからは、80代前半まで仕事に趣味にと忙しい毎日を過ごされ、自分の戦争体験を公的な場で発表することはなかったそうだ。それがある日、ひと回り年下の妹さんから「戦後60周年、今私たちが戦争を語らねば」と迫られてその体験を手記にまとめられたという。

 手記を読ませていただき、ぜひ一度お会いさせていただきたくなった。というだけでなく、中谷さんと共に「昔の戦争・今の戦争」と題した講演会をして、「戦争を知らない世代」に戦争を語り継ごうと思い立った。

 中谷さんは大正9年生まれで現在84歳。私の父と同じ年に生まれている。父は若くして他界しているから中谷さんと比べようもないが、中谷さんがあまりに矍鑠(かくしゃく)とされているのに驚いた。年齢から言って足腰の弱ったお年寄りを想像していたが、目の前に現れたのは背筋がピンと伸びた素敵な老紳士だったのだ。

 特務機関員と聞くと、映画「OO7」のようなスパイを想像してしまいがちだが、中谷さんは現地の情報収集と通訳が主な任務であったとのことだ。通訳の仕事の重要なものに、捕虜の尋問があった。また、住民と戦闘員との識別によくかり出されたらしい。中国人の場合、しゃべる言葉で「お里が知れる」から住民の中に紛れ込んだ戦闘員を見つけるのには中谷さんのように中国語の達者な人は貴重であったのだろう。

 南方で生死の境をさまよった元日本兵に比べれば、恵まれた戦地体験であったかもしれない。だが、口をついて出る事実の一つひとつが私には貴重に思えた。

 「陸軍には捕虜収容所が事実上存在しませんでした。一部の例外(注)はありましたが陸軍で捕虜収容所を持っていたのは日露戦争まででしょう。乃木将軍が武士道を尊重する人でしたからね」
 「つまりは、捕まえた現地人は敵と分かれば全て処刑していたのですよ。私もそこに立ち会いましたから間違いはありません。その殺し方も、新兵の“度胸試し”として行なわれる斬首もありました」
 「南京虐殺はなかったなんてバカなことを言う人がいますが、10万人を超える捕虜を抱えて陸軍はどうしたか、考えれば分かることです。1万人の捕虜を100数十人の兵隊で監視することは不可能ですし、またそれだけの人数の食料をどうやって確保するかといったことも深刻な問題で、結局は処分するしかなかったはずです」

 捕虜を殺すことは、国際法に違反することである。しかし、余裕を失っていた日本軍は日常的に殺していたようだ。その斬首場面などの描写を聞いていて、背筋が寒くなったが、中谷さんは「戦争になりゃあ、そんなことは普通ですよ」とさらりとひと言。

 予定していた2時間はあっという間に過ぎてしまった。もっと聞きたい話は山ほどあったが、今日のところはあきらめることにした。後日、中谷さんと、神直子と、それに私の3人が都内で講演会をやる予定なのでそれまでのお楽しみということだ。講演会の詳細は追って皆さんにお伝えする予定にしている。その時はぜひ皆さんも足を運んでいただきたい。

(注)一部の例外:南方戦線で相手が欧米諸国軍の場合、国際世論を気にしてか、捕虜収容所を設けていた。

筆者からの補足:中谷さんが言われるように、日本軍が多くの捕虜を長期にわたって収容していた実例はほとんど記録に見当らない。特に、中国の前線では収容所を設けず、いったん身柄拘束した現地の住民は尋問した後、戦闘員と分かれば銃剣による刺殺又は、斬首をした。疑わしき者を丁寧に取り調べる余裕もなく多くの場合、殺害した。そして、現地人を大量拘束した南京では扱いに困った指揮官は殺害命令を出し、多くの兵士が証言しているように、女子供を含めて非戦闘員と分かっていても殺した。

 中谷さんの指摘のように、日露戦争までは、軍部では国際的地位を得ようと、欧米での戦争慣習と国際法を考慮した、敵国捕虜の人道的保護政策がとられた。日露戦争では、日本軍は「ハーグ陸戦規則」などの国際条約を遵守して、交戦国の捕虜を人道的に扱っている。

 ところが、軍部特に陸軍の中には捕虜になることは屈辱であるという思想が根強く存在した。そのため、1929年に捕虜の取り扱いを細部にわたって定めた「俘虜(戦前の日本軍の中では俘虜と呼んだ)の待遇に関するジュ一ネーブ条約」に調印した日本政府に軍部が、「帝国軍人の観念よりすれば俘虜たることは予期せざるもの」との理由で猛反発、その勢いに押された政府は結局、条約に調印したものの批准することが出来なかった。

 そしてそれは、1941年、陸軍大臣であった東条英機が出した「戦陣訓」に集約されていく。その一節である「生きて虜囚の辱(はずかし)を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿(なか)れ」はあまりにも有名だ(ところがその東条本人が、戦後占領軍に捕まり、物笑いの種となった)。

 軍隊内でも捕虜の取扱いに関する教育が行なわれたとの記録がない。それどころか、中谷さんが言われるように、満州事変以降、捕虜になった中国兵をゲリラや「匪賊(ひぞく)」として現地指揮官の独断で処刑することが普通になった。太平洋戦争でも、日本政府がジュネーブ条約の「準用」を約束したが、軍部がこれを無視、連合軍捕虜に対する取扱いも極めて過酷なものとなった。

 過酷な収容所生活を生き延びて帰国した欧米人達がその実態を明らかにしたことで、対日感情は悪化の一途を辿り、1950年代に欧米を旅した人たちは現地の人たちから憎悪の視線を向けられ罵声を浴びせられた。また、71年に訪欧した昭和天皇は、各地で反日行動にさらされることになる。

 証人が多く、力関係から言っても敵わない存在であった欧米に対しては素直にその罪を認めてきたが、アジア諸国に対しては、敗戦後しばらくはこうべをたれていたものの、時間の経過と共に「健忘症」が悪化、「南京虐殺は存在しなかった」「従軍慰安婦は自らすすんでなった」等と、残虐行為そのものを否定するようになってきた。











 
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4 コメント

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南京虐殺に関して (中村徹)
2006-02-13 22:32:30
中谷さんという方は、陸軍特務機関員で、「万を超える捕虜は処分するしかなかったはずーー」と仰っていますよね。これは明らかに推測で仰っているのに過ぎない。「南京虐殺があった」という為には、その場で見聞した人の証言を用いる必要がある。なぜならば、推測で物を言うのは容易いからである。カメラマンという仕事をしている人が『推測』の証言を掲載するのは、ちょっとおかしいのではないか?現地で確かに捕虜を虐殺したのを見た人の証言を掲載するべきである。浅薄としか言いようが無い。事実をきちんと取材する必要があるのではないですか?
論理による推測 ()
2006-02-13 23:39:52
中村徹さんの論理展開にちょっと疑問を感じたので書き込んでいきます。



推測という言葉をどのような意味で使っているのかが分からないので、議論がすれ違うかも知れませんが、推測というのはかなりのレベルの違いが存在するように思います。論理的必然性から導かれる推測は、かなりの高い確率で事実を言い当てる推測になると思いますし、当てずっぽうの憶測で言っているような推測は、占いのように、当たったりはずれたりするもののように感じます。



中谷さんが、10万を超える捕虜に対して「結局は処分するしかなかったはずです」と結論づけたのは、僕には論理的必然性から導かれた結論に見えます。その前提になっているのは、「陸軍には捕虜収容所が事実上存在しませんでした」という事実です。



もしこの前提である捕虜収容所の存在が、中谷さんが言うことと違って存在するなら、そこで捕虜が生きていたと言うことを推測することが出来るでしょう。しかし、捕虜収容所がなかったのなら、捕虜として確保した人々は、いったいどこで生きていたというのでしょう。これは形式論理の問題です。



南京での事件を「虐殺」と呼ぶかどうかは言葉の定義の問題ですが、そこで多くの人が殺されたというのは、たとえそれを直接見ていなくても、論理的に帰結出来る事実だと思います。殺されなかったのであれば捕虜になっていたはずですが、捕虜はいなかったというのが事実ではないかと思います。それとも、捕虜はいたと言うことが事実として確認されているのでしょうか。



中谷さんが語っている「処分」と言うことが間違いであるなら、多くの人は捕虜になる前に戦闘で死んでいなければならないのですが、南京陥落の時は、日本軍にはほとんど犠牲が出ずに、戦闘らしい戦闘も行われずに終わったのではないでしょうか。多くの人は、戦わずして捉えられた、つまり捕虜になったのではないかと思います。しかし、その人々は捕虜として存在することは長くなかった、と中谷さんは言っているのだと思います。



中谷さんが南京での出来事を直接見ていなくても、確率の高い推測で、そこで虐殺があっただろうと結論づけることが出来ると思います。それは論理的必然性から導かれることであって、単にそう思うと言うことではないと思います。直接見なければ事実では無いという判断は、あまりにも論理を軽視しているように見えます。このような論理では、推理小説の密室殺人も解決出来ません。



その語っていることに論理的必然性があると思えば、その証言を信じるのはジャーナリストとして少しも間違ったことだとは思いません。むしろ、どのように信頼のおける証言なのかを語るのがジャーナリストの務めではないかと思います。僕は、中谷さんの証言は、十分信頼に足るものであると思います。
Unknown (浅井久仁臣)
2006-03-27 02:15:36
コメントを書き入れた「Unknown」さん、規約どおりに登録を済ませてから書き込みをしてください。
ん!? (風太)
2007-07-20 22:18:39
・中谷孝(80代)
 1920年東京生まれ。1938年東京府立第一商業学校卒業。
 高速機関工業(株)入社。翌39年、支那派遣軍特務機関要員となる 
 43年、支那派遣軍総司令部報道部に臨時勤務した後、
 44年、再び特務機関員となる。
 45年敗戦後、中国に留まり、中華民国陸軍総司令部に所属。
1946年に復員。
2001年、80歳にて退職し、執筆を始める。

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南京陥落は1937年。
このとき、このじいさんは16歳。
まだ在学中w
じいさんが中国に渡ったのは18歳。
南京陥落後

当時の日本軍の徴兵は20歳から。
10代では軍に入れません。

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「世論」と戦争 (T\'s Home 日記)
今日も浅井久仁臣氏のブログ「グラフィティ」から。今日のエントリーは11日付のエントリーに補筆された「捕虜収容所はなかった」というタイトルのもので、陸軍特務機関員として日中戦争に参加された中谷孝氏の興味深い証言が紹介されている。特に陸軍の捕虜収容所に関して.