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私が見た「ヒズボッラー」…その誕生から現況まで

2006-07-27 11:16:37 | Weblog
 1970年代の終わりから81年にかけて、レバノンを取材する私の前に、小さなグループが何度も姿を見せた。聞くと、レバノン南部のシーア派居住区とベイルート南部のイスラーム教徒居住区に住む若者達で、全てがシーア派教徒であると言っていた。

 そのグループのリーダーは自らをナスラーラと名乗った。彼自体は軍事訓練に関わることはないらしく、そのグループが受ける軍事訓練で泥にまみれていた姿を見たことはない。

 軍事訓練は、当時レバノンに「国の中の国」を創り、反イスラエル闘争を繰り広げていたパレスチナゲリラ達が提供していた。と言うか、パレスチナゲリラの軍事訓練にナスラーラ氏のグループが参加させてもらっていたと言った方が実態に近い。

 彼らの掲げた目標は、「アラブの大義」の実現であった。アラブの大義とは、イスラエルによって占領されているエルサレム(イスラーム教の聖地)を奪い返すための闘争を意味する言葉だ。そして、79年に誕生したイランの革命政権の賛辞と精神的指導者、ホメイニ師の偉大さを声高らかに叫んでいた。

 81年に取材に出かけた時、パレスチナ勢力の幹部から「ナスラーラたちが新組織を立ち上げる。その名は、ヒズボッラー(神の党)だ」と教えられた。そこで、私はナスラーラ氏に話を聞くことにした。だが、レバノン滞在中、その機会は巡ってこなかった。

 その年、アラファトPLO議長(故人)が初来日した。私は滞日中、密着取材を許されてアラファト氏と親しくなるだけでなく、アラファト氏の側近であったアブ・アッラー(実名はアハマッド・クレイ。後の首相)氏とも親しくなり、私は彼にナスラーラ氏への仲介を頼んだ。

 翌年の82年、事態は急転した。イスラエルが陸海空三軍を挙げてレバノンを侵略した。「レバノンからPLOを一掃することこそが地域に平和をもたらす」としてイスラエルは「PLO掃討作戦」を断行したのだ。西ベイルートに立てこもり徹底抗戦を図ったPLOとそれを支援するレバノン武装勢力に対して、イスラエルは容赦なく爆弾を落とし続けた。その時、ヒズボッラーはPLO勢力の指導を受けながら初の本格的戦闘を体験した。

 82年8月末、篭城もこれまでとアラファト議長は白旗を掲げた。9月1日にPLO勢力約14,000人が撤退する際、隠し持っていた武器の多くはヒズボッラーに手渡され。レバノンからの反イスラエル闘争を託すことと、徒手空拳となったパレスチナの民衆の保護を頼む意味が含まれていた。

 ところが、その頃は、戦闘能力をほとんど有しておらず、パレスチナ難民の保護の約束は、充分には果たさなかった。9月16日から18日にかけて、ベイルート南郊のパレスチナ難民キャンプでキリスト教徒武装勢力によって1,000人近くのパレスチナ住民が虐殺された事件は、ヒズボッラーのメンバーの多くに大きな衝撃を与え
た。当時、キャンプを包囲していたのがイスラエル軍で、イスラエル兵が殺人者達を招じ入れたと信じるヒズボッラーの面々は「復讐」を誓った。

 ヒズボッラーの戦闘員達はその後目覚しい成長を遂げ、翌年にはイスラエル占領軍に対して執拗なゲリラ活動をするようになった。また、レバノン平定のために送り込まれた米仏軍に対しても牙をむき、兵舎に自動車爆弾攻撃を行ない、400人近くの命を奪った。両国ともそれを機にレバノンからそそくさと軍を撤退させた。

 85年のTWA(米)機の乗っ取りもヒズボッラーの仕業とされた。この乗っ取り劇は、乗員乗客合わせて153人が乗るTWA847便がギリシャのアテネからイタリアのローマに向かう途中で起きた。

 ベイルート空港に強制着陸させた後、乗っ取りグループは人質のほとんどを今イスラエルの爆撃に晒されているベイルート南郊のシーア派居住区に連れ去るという、前代未聞のやり方で世界中の人たちをやきもきさせた。

 その時現場取材をしていた私は、空港の管制室に潜り込むことに成功、ハイジャッカーたちとの接触を試みた。今でも信じられないことだが、空港内を動き回る内に私は管制室に行き着いてしまったのだ。しかも信じられないことに、そこには管制官が一人しかいなかった。いくら事件が発生してから時間が経っていたとはいえ、レバノン政府の人間や警察関係者がひとりもいないとは思ってもいなかった。管制官は私を見ると最初は驚いたが、すぐに仲良くなり、私に、「彼らはヒズボッラーではないよ。アマルだ」と教えてくれた。アマルとは、同じイスラーム教シーア派武装勢力で、当時西ベイルートを支配していたグループの名前だ。

 私が乗っ取り犯に対して呼びかけたいと管制官に頼むと、これまた信じられないことに、マイクをつなぎ、「ヤッラ(どうぞ)」とチャンスを与えてくれた。だが、残念ながら、乗っ取り犯は私が身分を名乗った途端、連絡を絶った。そして間もなく、背後のドアが荒々しく開けられた。そこには武装した乗っ取り犯の仲間がいた。そして、私はその場から引きずり出され連行された。

 管制官から犯人グループがアマルと聞いていた私は、アマルが発行する記者章と、指導者、ナビ・ベリ氏との「ツー・ショット」写真を取り出し、彼らの敵ではないことを強調した。すると、予想外に簡単に釈放された。国際報道では、今回もあのTWA機乗っ取りグループをヒズボッラーとしている。私に確証があるわけではないが、自分の取材体験からそうではないと皆さんにお伝えしている。

 ヒズボッラーが熱心にやったことは、ゲリラ活動にとどまらない。レバノンの
「イスラーム化」も力を入れた。イスラーム化とは、一種の復古主義で、「西欧文化に毒されたレバノンをイスラーム教の教えに忠実な社会にする」というものだ。

 かつて、イスラーム革命直後、イランで行なわれたような粛清がレバノンでも行なわれ、街から女性が肌を露出するファッションが排除される一方、レストランや酒場からアルコールが奪われた。さらに、外国人を次々に拉致して、その多くが命を奪われていった。かくて、イスラーム地区は、今のイラク以上の無法地帯と化した。

 その時期、パレスチナ勢力も再びレバノンに戻り、活動を開始していた。アラファト議長と共に撤退してチュニジアにいるはずの顔見知りが何人もベイルートに戻っていた。そして、隣国シリアの影響を強く受けるアマルと小競り合いを繰り返していた。その内、戦闘が本格化して86年末から87年初旬にかけて、アマルが3ヶ月近くにわたって、ボルジュ・アル・バラージネ・パレスチナ難民キャンプを包囲攻撃、パレスチナ側に餓死者が出る悲惨な状況が続いていた。

 私は、これまででもっとも恐怖を感じたが、意を決して難民キャンプへの潜入を試みた。途中、ヒズボッラーに連行されたり戦闘に巻き込まれて生きた心地がしなかった。それでも何とかキャンプの入り口まで辿り着き、キャンプの惨状を映像に収めることができた。それは、米CBSTVでも世界的スクープとして紹介された。

 その取材で見たヒズボッラーの戦闘員達は、いずれもがいっぱしの戦闘員の雰囲気を漂わせていた。かつて、パレスチナ・ゲリラの後をヨチヨチついて歩いていた面影はなかった。

 ベイルート取材を終えて、レバノン南部に入ってみると、ヒズボッラーの存在が予想以上に大きいことに驚かされた。そして、占領軍であるイスラエル兵士達が余裕をなくし、必要以上に神経質であったことも印象に強く残った。ヒズボッラーのゲリラ攻撃について聞くと、ほとんどのイスラエル兵がその話題を避けた。しかし重い口を開いてくれたイスラエル兵の口から、「我々はヴェトナム戦争で米兵が味わった恐怖と屈辱を今味わっている」と聞いた時、イスラエル軍の撤退が近いことを予感した。

 私の目論見は外れ、イスラエル軍はすぐに撤退せず、実際にレバノンから撤退したのは、その13年後であった。だが、イスラエル兵の中に刻まれた心の傷は深く、「レバノン症候群」なる言葉が生まれるほどであった。イスラエル国内に、もうレバノンに関わるのはたくさんだ、という空気が生まれた。

 2000年にイスラエルが一方的に撤退しても、ヒズボッラー側からの対イスラエル攻撃が途絶えることは無かった。それは、ヒズボッラーの方針が、「聖地の解放」にあるから当然といえば、当然と言えた。イスラエルが停戦したくともヒズボッラー側にはそのつもりは皆無なのだ。今回、ヒズボッラーがイスラエル軍を攻撃したのもそういった観点から見ると理解しやすくなる。一部マスコミに見られるように、ヒズボッラーが突然イスラエルにゲリラ活動を仕掛けたというのは、全体像を見誤らせてしまう報道だ。

 ヒズボッラーは軍事活動だけではなく、イランから受取る潤沢な資金を基にし
て、広く地道な地域活動を行なってきた。それだけに幅広い支持を得ている。議会においても、128議席中23議席(無所属を含む)を占め、閣僚ポストも2つ手に入れている。またアラブ社会における市民からの支持も厚い。イスラエルとアメリカはあくまでもヒズボッラーの骨抜きを目論むが、それはまず実現不可能だろう。また、たとえ今回戦闘能力の多くを奪うことができたとしても、その再生に時間を要することはないはずだ。ヒズボッラーは、「人民の海を泳ぎ続け」、これからもハマースやアル・カーイダ同様、西側社会にとって脅威であり続けるのは間違いない。